八、黒猫カーリーのいとしみ

「てめぇに義賊みたいな心意気があったとでもいうつもりか?」

 

「あったら許してくれんの?」

 

「まさか。どちらにせよ、正義はおれにある」

 

 

 そういった男は、人間離れした圧力をディディに向けていた。

 背に靡く赤茶色のマントには、剣を象った紋様が施してある。

 どうやら騎士カルキらしい。

 

 しかし、先の上空からの奇襲は騎士カルキと言うよりは暗殺者のそれであった。

 小生がディディの名を呼んでいなければディディはそのまま斬り捨てられていたやもしれない。

 

 猫ならではの視座で上から迫る影に気づいた小生が、敵だ、と叫んだ声で、ディディはなにかに勘づいた。

 そして動物的な直感に動かされるまま、ディディは空からの殺撃を躱すことができたのである。

 

 これはひとつ小生からの貸しということにしておこうではないか。

 

 ディディと騎士カルキは今や、通りを流れる人々を塞き止めるのも構わず道の中央で睨み合っていた。

 突然の乱闘騒ぎに、その場はにわかにざわめきたっている。

 騎士カルキの背中に揺れる紋章を見て、浮き足立つ町民はここには多い。

 叩かれれば埃がわんさと出るハヌディヤー通りの人間ならではまごつきっぷりだ。

 

 しかし、当の中年の騎士カルキはそんなものに見向きもしなかった。

 ただ、鋭い剣先をディディに向けて殺意をばらまいている。

 

 ディディが、血を流して、刃を突きつけられている。

 こういう所を見るのは初めてだ。

 アムカマンダラで騎士カルキをやりこめた時は、少なくともこんなにも遊びのない目をしてはいなかった。

 

 そして小生からそう遠く離れていないところでは、同じ危惧を抱えながらディディを見つめる人物らが声を漏らしていた。

 

 

「足は大丈夫か、メナシェ」

 

「平気」

 

 

 ディディに蹴飛ばされて一命を取り止めた、道化のイサイ。

 それにその娘だ。

 

 イサイは起き上がってメナシェの方に屈み込んでいた。

 メナシェは両手に荷物を抱えていて、もろに地面に転がざるをえなかったようだ。

 細い足に擦り傷がついている。

 

 メナシェは、片手に持つの傘の安否を気遣うようにちらりと眺めてから、それを杖のようにして立ち上がった。

 背に背負っていた風呂敷はほどけてしまっていて、メナシェはそれを抱き抱えるようにしている。

 

 

「ありゃあゼバドだ」

 

 

 イサイは横目に騎士カルキの様子を伺いながらいった。

 化粧を塗りたくった道化の顔からも、やや血の気が引いているのが伺える。

 

 ゼバド。

 小生はもう一度炎のように短髪を逆立てている騎士カルキに目を戻す。

 

 ディディを追い詰めるほどの腕前を見るに、名のある騎士カルキなのだろう。

 凄腕の騎士カルキほど歌舞伎者ダリルを戦慄させる存在はいない。

 

 そして、睨み合うゼバドとディディをやや離れた位置から観察するもう一人の騎士カルキ

 同じ赤茶色の外套マントの上には、銀の髪を結った女の白い顔が乗っていた。

 剣を差してその隙のない警戒の目を走らせていなければ、その目鼻立ちは人間のメスの中ではかなり目を引く部類に入るはずだ。

 

 

「右腕のレティアまで身構えていやがる」

 

 

 イサイは緊迫した目を女騎士セトカルキの方へ走らせながら、漏らすような小声を出した。

 

 

 「このままじゃあ、いくら黒風のディディだって……」

 

 

 ごくっと喉を鳴らして、残りの言葉を飲み込む。

 

 メナシェは咲いたばかりの花のような、抜き身のままの顔でその父親の横顔を見上げた。

 恐怖の予感を感じ取りきれていないようなあどけない表情だ。

 

 メナシェはしばらく父を見つめ、それからディディの方を見やった。

 水晶のような瞳に、ディディの苦笑いが映し出される。

 

 

「参ったね。酒の勘定がまだ済んでないんだが」

 

 

 ディディはそういって、足元の瓢箪を蹴った。

 

 ──あれは。

 

 その少し小さめの瓢箪に見覚えを感じた刹那、ディディの視線がイサイの方へ走った。

 イサイは寄越された視線に身を固くした。

 

 

「おれへのツケを払う方が先だぜ」

 

 

 ゼバドはそれに気づかない様子で、じりと距離を半歩詰める。

 ディディの警戒の眼差しはすでにゼバドへと戻っていた。

 

 ディディを凝視したままのイサイの見開かれた瞳に、ゆっくりと光が宿る。

 紅を塗りたくった口が切れ目を作っていくようににいっと笑った。

 

  酒の勘定。

 あの酒をディディにもたらしたのはイサイだ。

 その勘定をすると、ディディはそういった。

 

 今や、イサイは爛々と輝く少年のような顔になっていた。

 

 なるほど。

 どうやらあの瞬間に、歌舞伎者ダリル特有の手札の交換というやつが行われたようだ。

 

 

「親父?」

 

 

 メナシェの声に、はっとしてイサイは娘を見下ろす。

 

 メナシェは不安げに眉を曇らせてイサイを見ていた。

 魔人のごとき圧迫を強いる騎士カルキよりも、イサイの奇妙にこわばった顔に、メナシェの胸中は波立ったのだ。

 

 メナシェは傘を杖にして、片手で大きな風呂敷を抱き締めるようにしていた。

 イサイがその頭に触れる。

 

 

「酒の勘定をすると、今旦那はそういった」

 

 

 イサイの声は震えていた。

 

 

 「おいらがディディに助太刀すれば、話してくれるってことだ。これはそういうことだ」

 

 

 メナシェの目が微かに揺れる。

 イサイはなにかに取り憑かれたような顔を、平手で撫でた。

 

 

「聞かせてくれるんだ。黒風のディディの、話を」

 

 

 細めたイサイの目は、取り憑かれているようにすら見えた。

 

 黒風のディディの伝説を熱心に聞き出そうとしていたイサイに、奴はついに首を縦に振った。

 この場を切り抜けるための片棒を、イサイに担がせることを条件に。

 

 さっきの言葉と目配せは、つまりはそういうことだ。

 

 状況を打開するためには、イサイを利用するしかない。

 それほどまでにディディは追い詰められている。

 イサイも分かっていてそれに乗るつもりだ。

 たかだか芸の肥やしに、イサイは命を捨てる覚悟がある。

 

 正気の沙汰には思えなかった。

 

 小生の理解を待たずに話は進む。

 

 

「助太刀なんて、親父みたいな腰抜けピエロには無理でしょ?」

 

 

 メナシェは、淡白にイサイに言葉を返した。

 小生からはメナシェの手が白くなるほど傘の柄を握りしめているのがよく見えた。

 

 引き止めたいのだ。この娘は。

 

 

「いいや、メナシェ。おいらにならそれができる。これだ」

 

 

 熱に浮かされたような口調で、イサイがメナシェに持たせていた風呂敷を掴んだ。

 イサイは風呂敷を荒々しく開く。

 汚れた朽葉色の布の中から、滑らかな光を反射する天鵞絨ビロード外套マントが滑り出た。

 

 イサイは鷲掴みにするようにそれを持って、青ざめた顔で笑った。

 

 

騎士団カルキジャーチの名目は天鵞絨外套ビロードマントの捕縛だ。だからこれでやつらの気を引ける」

 

「イサイ」

 

 

 メナシェがイサイの声を遮るようにいった。

 もはや、メナシェの作り物のように整った顔は焦燥の色に歪んでいた。

 荷物を取り上げられて宙をさまよっていた手を、胸元にやってぎゅっと握りしめている。

 

 

「本当に、あの騎士カルキから逃げ切れるの?」

 

 

 イサイはしばらくメナシェの必死な顔を見つめ返していた。

 やがて、ゆっくりとした動作でメナシェの頭の上に手を置いた。

 そうして見せたことのない柔らかい笑みを浮かべる。

 

 

「あたりまえさ。おいらの逃げ足はおまえが一番良く知ってるだろう」

 

 

 イサイはそうしてもう一度くしゃっとメナシェの頭を撫でた。

 

 

「けど、おまえを抱えては無理だ」

 

 

 そう言い放った次の瞬間、イサイはディディへ鋭い視線を投げた。

 そうしてイサイは再びメナシェを見下ろす。

 その茶色い瞳には、迷いのない決死の覚悟が秘められていた。

 

 

「さっきの酒場へ行け。そこにディディが来る。守ってもらえ」

 

「イサイ──」

 

 

 メナシェの制止の声を振り切るように、イサイは黒い天鵞絨ビロードをばさっと翻して、手早く身に付けた。

 大きなその動きに、女騎士セトカルキの視線が突き刺さる。

 それにも構わず、イサイは力強く通りを駆け出した。

 

 

「ゼバド隊長ジャー天鵞絨外套ビロードマントが後ろに」

 

「馬鹿な──!」

 

 

 二人の騎士が行動を起こす一瞬先を、ディディはいった。

 ゼバドの気が逸れたその一瞬で、手の内に煙幕を滑り込ませ、叩き割ったのだ。

 突然広い道幅を覆い尽くさんと膨れ上がった白煙に、町民が悲鳴を上げた。

 混乱の中を、女騎士セトカルキが素早くイサイの後を追っていった。

 

 煙が渦巻く後には、古ぼけた傘をひとつ持って立ち尽くすメナシェだけが残された。

 

 メナシェは傘を握り締めて、イサイと女騎士セトカルキが去っていった方向を見つめていた。なにかの染みか、赤焦げた色の亜麻布の着衣チュニ ックが、地下街を吹き抜ける風に煽られてぼろぼろの裾を揺らした。

 頼りない体に力を入れて立ちながら、メナシェは所在なく手持ちの傘を持ち直すとそれをばっ、と開いた。

 

 煙がメナシェの視界を奪っていてなにも見えてはいないはずだった。

 けれどメナシェは、開いた傘を肩に担いだままいつまでたってもイサイの駆けていった方から視線を逸らそうとしなかった。

 

 おそらく周囲に人影はなかった。

 ほとんどの野次馬は突然襲いかかった煙の波から逃れるようにこの場を離れた。

 だから、メナシェは本当に一人きりでそこに立ち尽くしていたのだ。

 

 ハヌディヤー通りの大光玉が、白い煙の中で鈍い輪郭を揺らしながらメナシェを照らしていた。

 偽物の太陽の下で、その華奢な体に今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさを感じた。

 

 気づけば小生は、その細い足に駆け寄っていた。

 

 一声鳴くと、メナシェは近寄る小生を虚ろな目で迎えた。

 メナシェは小生を見ているようで、どこも見ていないようだった。

 それでも小生が、突っ掛けチャッパルの上の骨のような足首に頬を撫で付けると、しゃがんで頭を撫でた。

 

 メナシェの掌からは、花の香りがした。

 少し鋭く鼻を刺すような花で、それでも嗅いでいると気持ちが落ち着くような、そんな臭いだった。

 

 なぜ、この娘はこんな臭いを纏っているのだろう。

 小生には、メナシェが不思議な幕に覆われた存在に感じられた。

 

 

「イサイ、行っちゃったよ」

 

 

 小さく、小さくメナシェはそういった。

 その言葉は、童女が口にするにはあまりにも乾いた響きを伴って小生の耳に届いた。

 

 撫でられた耳のあたりがぴくぴくした。

 尻尾が落ち着きなく背後でさまよう。

 前足のあたりにちりっと痒みを感じて、小生はそこを舐めつけた。

 

 この娘の心悲うらがなしさが、空気を振動させて小生の胸の内に入ってくるような感じがした。

 

 腕利きの騎士カルキを相手に、命懸けの逃避行にイサイは行ってしまった。

 メナシェにできることは、一人残された不安をひたすら小さな体で堪え忍ぶことだけだ。

 

 メナシェの力のない表情が、小生には痛々しく見えて仕方なかった。

 情け容赦のない現実をただただ飲み込むために、メナシェは縮こまっていた。

 

 小生は、自らメナシェの手に頭を擦り付けた。

 それから、ぴょんと大きく跳んでメナシェの前に立つ。

 

 行くぞ、メナシェ。

 そういうつもりで、一声にゃあと鳴いた。

 

 そう。

 ここにあるのは悲しみだけだ。

 悲哀の雲の中からひとまずは抜け出すのだ。

 お前は前に進む権利があるし、そうすべきだ。

 

 もう一度にゃあと鳴いて、小生はメナシェの前を歩き始めた。

 少しして、メナシェの歩き始める足音と、傘をつく音が聞こえ始めた。

 それでいい、と小生は思った。

 

 小生はこの時、どうしてこんなことをしたのだろう。

 ただ、怒りに似た思いに突き動かされるようにしていたことを覚えている。

 この娘のために、なにかをしてやりたかった。

 

 猫の小生にできることは限られている。

 それでも、体温を持つ生き物が寄り添うことは少しだけ心を楽にする。

 

 小生の野良暮らしで得た教訓が少しでもこの娘に力を与えることを信じて、小生はその道をぐんぐん進んだのであった。

 

 

 ✱

 


 ディディが酒場に姿を現したのは、ちょうど午後の四つ目の鐘が鳴り響いたときだった。

 店の中には、奥の卓ひとつと入口寄りの近くの対面台に、それぞれ客がすでに出来上がっていた。

 

 奥に座ってるのは大柄な男二人で、船乗りらしい格好の袖からは丸太のような腕が飛び出していて、日に焼けた髭面の中の白い眼光は軒先から除いても随分と威圧感がある。

 対面台には頭に植物をくくりつけた女連れの歌舞伎者ダリルが居て、上機嫌に聞き取りにくい早口をしゃべりながら、片方の手でナイフをしきりにくるくる回していた。

 

 狭い店内において、小生とメナシェの組み合わせだけが浮き上がっていた。

 

 良識があれば入ることをためらうような煤けた酒場に、奴はふらっと現れた。

 

 やや息を切らしている様子のディディは、店中の探るような目をものともせずに中につかつかと入り込んできた。

 そして、小生とメナシェに目を止めると、立ち止まって瞬きをひとつした。

 

 

けえるぞ」

 

 

 ディディはくたびれた目でメナシェを真っ直ぐ見下ろして言い放った。

 

 

 「おまえ、家は?」

 

 

 

 この唐変木が。

 小生はつい口を出しそうになる。

 

 もっと他に掛ける言葉があるだろう。

 この娘に味合わせた悲哀に対して、なんとも誠意のない態度だ。

 

 けれど小生がそういってしまう前に、メナシェが先に口を開いた。

 

 

「アムカマンダラの北側」

 

 

 メナシェは、ディディを睨むように見上げて言葉を漏らした。

 ディディはその視線も意に介さぬ調子で、もう一度瞬きをした。

 

 

「ふぅん、アムカマンダラか。そりゃ丁度いい」

 

 

 そして、そこらの椅子にゆっくりと腰を降ろそうとした。

 

 と、突然ディディの表情に苦痛の皺が走った。

 短い呻き声と共に左足を庇いながら、ディディは倒れ込むように席に座り込んだ。

 苦悶の表情そのままに、左足に手を添える。

 

 下半身を覆う派手な縞模様の腰布は、その近辺だけ血が飛んでいた。

 ふくらはぎの患部には布が巻かれていたが、すでにディディ自身の血で元の色が分からないくらい赤くなっている。

 

 

「ああ、ったく。くそ。あの野郎、厄介なもん押しつけてくれやがってよ」

 

 

 苦々しげに呟きながら、ディディは額の汗を拭った。

 無遠慮な言葉に、傷口を食い入るように見つめていたメナシェの長い睫毛がちらと揺れた。

 

 

「痛い目見てきたみたいだな? ディディ」

 

 

 対面台の奥から牛のうなり声のような低い声が響いてくる。

 棟梁だ。

 

 

「もう知ってんのかい」

 

 

 ディディは薄く笑いながらそちらへ視線をやる。

 

 

「さすが耳が早いぜ」

 

「酒場の店主を甘く見ないことだ」

 

 

 棟梁は酒を対面台の男女に出してから、こちらを向いた。

 

 

「おれたちはヴァッラブ広場の掲示板なんぞ比にならんほどありとあらゆることを知っているんだぜ」

 

「それじゃあ、ゼバドのおっさんが来てるってことも教えてほしかったな」

 

「面倒事は起こすな、と忠告はしたろう」

 

 

 棟梁はそう言って木樽のジョッキを煽った。

 それに水が入ってるのか酒が入っているのかは定かではないが、それを悠々飲み干して彼はディディを見下ろした。

 

 

「足か。かすり傷ってわけじゃないみたいだな。戻ってきたのはやばかったんじゃあないのか?」

 

「木の葉を隠すには森ってことさ。どうせこれじゃたいした距離は稼げないしな。あのまま北へ行ってたら、ゼバドのおっさんの格好の的になってたよ」

 

 

 黙って男たちの会話を聞いていたメナシェは、俯いて視線を宙に漂わせているようだった。

 

 この小さな少女が考えていることを、小生は知りたかった。

 無神経な現実ばかりを突きつける世界で、メナシェはなにを感じ取っているのだろう。

 なにを選ぼうとしているのだろう。

 

 小生は一声メナシェに鳴き声を寄越す。

 それを聞いてこちらに視線を落とす彼女の顔は、薄明かりの中であってもやはりどこか非現実的なまでに美しかった。

 猫の小生ですら、その均一の取れた白い顔と無垢さくる清涼さに、見惚れてしまうほどだ。

 

 メナシェは小生を見たまま、その薄い唇を小さく弧にして笑った。

 そして、足が浮くほどのその椅子からとんっと飛び降りた。

 

 メナシェの目の前で、棟梁とディディがこれからのことをやり取りしていた。

 

 

「それで、今度はより木の葉だらけのアムカマンダラへ行くわけか」

 

「ああ。道化野郎の置き土産が……」

 

 

 そこまでいって、ディディはほったらかしの左足に走る痛みに言葉を切った。

 ディディの左足側にはメナシェが座り込んで、巻き付けた布を小さな手でぐいぐいと引っ張っている。

 

 突然、どうしたというのか。

 メナシェの顔を見上げるも、少女の顔は悪戯を思い付いた悪童という感じではなくて、ただ一心不乱に布を解きほどこうとしているように見えた。

 しかし、傷口が締め付けられるディディにしてみれば、いずれにせよ苦痛の源だ。

 

 

「餓鬼、なにしやがる!」

 

「黙ってて」

 

 

 メナシェは、ディディの悲鳴に近い怒鳴り声にも少しも臆さずにいい返す。

 青い瞳は、有無を言わさぬ感じでディディを写し込むと、今度は立ち上がって棟梁を見た。

 

「おじさん、ナイフある? あとお酒」

 

「ああ。あるが……」

 

「それと、何か布も」

 

 

 ゆったりと作業台に寄りかかっていた棟梁は驚いた顔でメナシェを見つめたが、メナシェがその視線に睨みを効かせると頭を掻きながら奥へ引っ込んだ。

 

 

「巻き布は、血が止まったらお酒をかけて巻き直した方が、治りが早いの」

 

 

 メナシェはナイフを使って血濡れの布を取り去ると、慣れた手つきで治療をはじめる。

 

 傷口に走る痛みに、ディディは抵抗を試みるほど踏ん張ることもできずにしばらくされるままになった。

 

 

「なんのつもりだ、餓鬼」

 

 

 もはや傷口を再び縛り上げる段階に入っているメナシェに、荒く息を吐きながらディディがいった。

 

 

「餓鬼っていうな、スカタン」

 

 

 そういいながらメナシェはぎゅっと結びに力を込めた。

 たまらずディディが押し殺した悲鳴を上げるも、それに構わずメナシェは言葉を続ける。

 

 

「あたしは道化師イサイの娘、メナシェ。歌舞伎者ダリルの端くれよ」

 

 

 メナシェは立ち上がると、小脇に抱えていた傘をディディに向かってばっと開いた。

 突然眼前に広がった桃色の油紙に、ディディは思わず仰け反る。

 メナシェはくるっと傘を持ったまま回るとそれを肩に担いで、役者のそれのように片手を開くと、ディディに突きつけた。

 

 

「お荷物なんていわせない。インチキ“臆病風”なんかに、ね」

 

 

 その頬はやや紅潮しつつも、真一文字に結んだ口からは頑固そうな意志が見えていた。

 

 

「これで借りはなしよ」

 

 

 ディディは呆気に取られたように暫しぼんやりとメナシェを見つめた。

 

 メナシェなりの雪辱なのだ、と小生は思う。

 

 メナシェの意思などまるで無視して、まるで物のように受け渡しをする男どもに、自分にも切れる札があるのだと、ただ扱われるだけでは終わらないと示してみせた。

 おまえたちの土俵に上がってやると。

 

 ふっ、とディディが吹き出した。

 

 転がり出たような弾んだ声と共に、ディディは笑い出した。

 暗がりの酒場に、ディディの不釣り合いな笑い声が響き渡る。

 間の抜けた顔で、数少ない客と棟梁がディディを見つめた。

 

 目に涙さえ浮かべながら笑うディディを、メナシェは頬を膨らませて睨みながら、どんっと地団駄を踏んだ。

 

 

「笑うな!」

 

 

 ディディは一頻り笑うと、それでもまだ喉の奥で笑いながらメナシェを見た。

 

 

「こりゃ失敬、歌舞伎者ダリル殿」

 

 

 そうしてディディは方膝を抱えるような姿勢になって、メナシェを見下ろした。

 

 

「おもしれえ。いいぜ、メナシェ。おれとおまえは対等だ」

 

 

 そういって人差し指を伸ばすと、メナシェの額をとんと小突いた。

 

 

「“臆病風”とはいってくれるじゃねえか」

 

「だってあんた、逃げてばっかなんだもん」

 

「違いねえ!」

 

 

 そこでディディは膝をぽんと打った。

 それから、にやけ顔を少し引っ込めてメナシェを見た。

 

 

「だが、そいつは駄目だ。名前に傷がつく」

 

 

 ディディは灰色の目で真っ直ぐメナシェを見つめて、それにたじろぐようにメナシェは傘の柄を握り直した。

 

 

「黒風のディディさん、だ。いいな? メナシェ」

 

「分かったわ、ディディ」

 

 

 ディディの言葉に間髪いれずメナシェは答えた。

 

 

「それで、どうやってアムカマンダラまで行くの?」

 

 

 肩透かしを食らったディディの眉がひくつくのを、小生はなんとか笑いを噛み殺して眺めた。

 歌舞伎者ダリルメナシェは、なかなかの食わせ者かもしれんぞ。

 そんな視線をディディにやると、ディディはそれを感じ取って忌々しげに鼻を鳴らした。

 

 

「千年亀の沼に行く」

 

 

 ディディはいいながら立ち上がった。

 棟梁が、弾かれたようにこっちを振り向いた。

 

 

「ソソの所か」

 

「ああ、ソソの所だ」

 

 

 答えるディディの声は笑おうとしているようだったが、その実少しも笑えてはいなかった。

 ひきつった奇妙な顔で、おっかなびっくりな調子で、ディディは己に言い聞かせるようにひとり頷いた。

 

 

「借りた金は、返さなきゃな」

 

 

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