七月九日

 通院が重なるにつれ彼女の弱気な発言が増えた。

 体調を崩すことなんて大学時代からほとんどなかった彼女だからこそ、大きな病気をするのがはじめてで、心が追いついていないのだろう。

 結婚記念日にも彼女は何も言わなかった。意識していたのは俺だけだった。特にめでたいとも思っていないだろう彼女が、今更わざわざ特別に何かをしようと言い出すこともなかった。ホルモン関連の薬を飲んでいるせいか体調に波がある彼女は一日一日を生きるので精いっぱいに見えた。

 職場ではどうせ、平然と仕事をしているのだろう。弱みを見せたがらない彼女としては、俺が帰宅するとソファで横になっていることがあるだけで、随分な変化だった。今までは生理のときは自室に引き篭っていた。俺には何も言わないので、俺は彼女が夜早く寝て、朝コーヒーを飲まなくなるので、ああひと月が巡ったなと察するのだった。

 俺は仕事を定時で上がることが多くなった。家に帰りたくなくてだらだら働いていたころと同じ量の仕事が、なるべく早く家に帰るという目標ひとつで、こんなに生産的に進むとは知らなかった。定時で上がることで周りに白い目で見られないかと思っていたが、社内の人間関係より彼女の体調のほうがだいじだった。上司からの評価はむしろ上がった。

「最近、妻が体調を崩していて」

 そう言えば、同僚たちも俺を積極的に家に帰してくれた。こういうとき、やはり彼女や友人じゃなくて妻であることは優位に働いているのだろうかと思いながら、俺は今日も鞄を取って、六時になった瞬間に会社を出る。

 彼女が作った見た目も味もいい肉じゃがと、俺が作ったみすぼらしい和え物が、今日も食卓に並ぶ。

「やっぱり、手術、受けようと思う」

 彼女は口に箸を運びながら、ぽつりと言った。

「貯金もあるし」

「うん」

 全力でサポートするよ、と、言おうと思った言葉は、しかし喉に痞えて言えなかった。

「そんなに大げさな手術ってわけじゃないみたいだし。再発してまた迷惑掛けるのも嫌だなって」

「迷惑なんて」

 掛けられていない。

「ありがとうね。最近、料理も掃除も、洗濯も、手伝ってくれるようになっちゃって。すごく気を遣ってくれてるんだなって、ちゃんと分かってるよ」

 気を遣っているというか、優しさを押し付けているというか。俺は居心地が悪くなって、椅子に座ったまま足を組み替えた。

「それとも、今度の恋人が、家庭的な人が好きなのかな? 珍しいね、恋人のために自分が変わろうとすることなんて、大学時代はなかったんじゃない?」

 お道化たような彼女の声に――

「お前はどうなの」

 彼女は目を見開いた。

「家庭的な人が好き?」

 彼女は目を泳がせた。

「どうしてそんなこと聞くの」

 俺はその質問には答えなかった。黙って彼女の目を見ていると、彼女は観念したように言葉を探し、そして、結局答えとも言えないような答えを返した。

「彩人と結婚しちゃった私に今更そんなこと聞いたって」

 それはそう、なのだけれど。

 そして、恋人に飽きられたら次を探すまで、自分を変えようと思ったことなんて今まで一度もなかったのもそれはそれで事実で、やはり彼女は、俺のことをよく知っていた。

「恋人できてたらこんなに毎日真面目に帰ってきてないよ」

 好きな人なら、できたけれど。目の前に。

 彼女が、ふーんと気のなさそうな相槌を打ち、話題を元に戻す。

「もう、全部取っちゃおうかと思ってさ。どうせ子供産むわけじゃないし」

「…‥そうか」

 それは、

「残念だな」

「……残念?」

 彼女が手にしていた和え物の小鉢から顔を上げ、正面の俺を見た。

 ……失言だっただろうか。

「残念だろ?」

「だって、彩人、子供産む気ないって言ってたじゃん」

 そもそも体を交わしたことがない関係で、そんなことを言うのも、何だかなあ、と思いながら。

「まあ、言ってたけど」

 今は違う、なんて、そんな大それたことを言って、今の関係が壊れるのが怖かった。

 妻に振られるのが怖い、情けない三十路だった。

 振られたらそれだけではきっと済まない。一緒に住んでいたくないと言われるかもしれない。異性として意識しないこと前提で、今の生活は成り立っていた。一緒に住んでいる男が知れず自分のことを好きだったなんて分かったら、彼女が感じるのは恐怖かもしれない。別居では足りず離婚になるかもしれない。だったら今のままでいい。彼女の傍にいて、笑ったり怒ったりするところを見ていたい。願わくは、俺の前でだけなら、ちょっと泣いてもくれないかと、図々しい期待もしながら。

 俺の人生に、もう二度とセックスなんて要らなかった。



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