六月十一日

 最近こんなんばっかりだな、と、独り言ちながら鍵を開ける。

 仕事終わりにどこかそこらへんで適当に食欲と性欲を黙らせて帰宅すると、もう深夜だ。必然的に睡眠時間が削られる。かといって真っ直ぐ家に帰る勇気もない。

 今日は流石に遅く帰りすぎたのだろうか、ただいまと玄関で声を掛けるも、返事はなかった。ダイニングルームの明かりはついていた。俺が帰宅していないときは彼女は明かりをつけたまま自室に入る。いつものように俺はネクタイを外し、ジャケットを脱ぎながらダイニングに足を踏み入れた。

「……恵実?」

 その名を呼んだのも久しぶりな気がした。

 結婚する前のほうが、俺らはお互いの名を、よく呼び合っていたのかもしれない。

 ソファに横たわる彼女が、肩で息をしながら俺を見上げて、ああ、ごめんね、おかえりと切れ切れに声を出した。風呂から上がったのだろうパジャマ姿の綺麗な素肌に、汗で前髪が張り付いていた。

「……どうしたんだよ」

「ん、ごめん、部屋戻るから」

「どうしたんだよ」

 彼女は俺を見上げているのもしんどそうに、頭の位置をクッションの上に戻した。

「ちょっと貧血で……大丈夫、いつものだと思うから」

「いつものって」

「今月ちょっと重いみたい」

 生理か、と察する。しかし多少の腹痛で早く寝ることはあれど、こんな、ソファからベッドに移動できないレベルは、同居してからはじめてだった。

「大丈夫なのか」

「うん、明日の朝には治ってると思うよ」

 そう言って、彼女はソファから体を起こそうとした。

「無理するな」

 俺はジャケットをソファの背に掛けて、彼女を押し留める。

「そこが楽なら今夜はそこで寝たらいい。ベッドまで移動したいなら俺が運んでやるけどどうする」

 優しいね、と彼女は苦しそうに笑った。

「お願いしてもいい……?」

 俺は頷いて、ソファの前に跪く。彼女の髪を撫でると、彼女は俺の首に腕を回した。皮肉にも彼女とはじめてこんなに触れ合ったのが、こんな状況になってしまった。俺は彼女の膝と脇の下に手を入れて、彼女をゆっくりと持ち上げた。彼女は俺に重心を預けるように体を密着させた。薄いパジャマの下に下着を付けていることが分かってほっとした。彼女にできるだけ負担を掛けないようにしたかったが、どうすればいいのか分からなかった。

 この家に引っ越してから、初日にお互いの部屋で大物家具の配置を手伝って以来、彼女の部屋に入るのもはじめてだった。

 俺の部屋と同じ位置についた電気のスイッチを肘で押す。彼女の部屋は綺麗に片付いていて、俺の部屋と同じ四畳半だとは思えなかった。俺は彼女をベッドに横たえると、彼女は枕を引き寄せて腕に抱えた。

「飯は食ったのか」

 彼女はちょっと顔を伏せて、ゆるゆると首を横に振った。

「何か買ってこようか」

 何か作ってやろうかと言えないところがもどかしい。

「食べる気しない……」

「貧血なら何か食ったほうがいいだろ」

 彼女は力なさげに視線を下げる。そんな彼女の姿は見たことがなかった。

「どうして連絡してくれなかったんだ」

 早く帰って来いって電話を一本くれたら。せめて風呂に入る元気があったころに。そう思わずにはいられない。

「だって、そういうんじゃないじゃん、私たち」

「そういう……って……」

 愛し合った夫婦じゃない。

 それは――否定しようがない。

「そういうんじゃなくても、同居人だろ。同居人が体調崩してたら流石に」

「あ、そうか、ごめんね」

 彼女はなおも謝る。

「だいじな奥さんじゃなくても、同居人が体調崩してたら普通に迷惑だよね」

 その言い方は酷く自虐的に聞こえて、俺はぐっと奥歯を噛み締めた。

「……だいじな奥さんだよ」

 それを言うのに時間が掛かった。

 彼女は脂汗を浮かせたまま、嬉しそうに笑った。

 ――そんな可愛いところを、こんな状況で。

 その台詞ひとつで、彼女がそんな顔をするとは、思ってもいなかった。

 だいじな奥さんだよ、子供は苦手だから作らないと決めていた俺が、お前の子供ならと思ってしまうほどには。

 俺は立ち上がる。

「コンビニでプリンでも買ってくるよ。好きだろ。食べられるよな」

「申し訳ないなあ」

「これ以上謝るな」

 体調が悪いのは誰のせいでもない。

「明日は仕事休め。俺も休むから。病院に行こう」

「いいよ、たぶん治ってる」

「治ってたとしてもだ。何かおかしくなってるのは間違いないだろ。来月もこんなことになったら困る」

「……じゃあ、ひとりで行ってくる」

「俺も行く」

 返事を聞かないつもりで、俺は踵を返した。彼女がベッド下に置かれた鞄を指して、お財布ならそこに、と言うのを無視し、部屋を出る。

 玄関に放置したままだった自分の鞄から、財布とスマホだけを取り出して、スーツの尻ポケットに捻じ込んで、鍵を掛けて家を出た。

 ジャケットを忘れたなと気づいたのは、家を出て肌寒さを感じてからだった。戻る時間が惜しかった。足を動かす間すらもどかしくて、駅前までの道を、自然小走りで進んだ。




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