六月十一日

 女遊びはやめないよ、と、プロポーズの二言目がそれなのは今となってはどうかと思うが、しかし彼女は平然として、好きにしたらと言った。

 お互い二十九、大学時代からの悪友だった。女として意識したことはなかった。ただ、親に結婚はしないのとせっつかれて辟易していたとき、ちょうど彼女が言ったのだった。

「おばあちゃんに花嫁姿見せることも、もうないのかな」

 今までの人生一度も恋人がいたことも、恋愛の噂すら聞いたことがない彼女だった。お互いの結婚観や人生観は知り尽くしていた。子供が要らないと言っているのも一致していた。これはなかなか上等な契約関係じゃないかと思いつきを口にしたら、案外彼女の反応もよく、それからはとんとん拍子で事が進んだ。

 キスをしたのは、結婚式、人前でのパフォーマンス一度きり。しかも、キスさせちゃってごめんねと後から謝られる始末だった。

 恐らく、彼女の人生において、最初で最後のキスだった。

 苗字に関しては彼女のほうに拘りがなかったので問題なくクリアできた。人生における一大イベントと社会的地位の確保を何とか無難に済ませることができて、俺も彼女も満足していた。あとは適当に、まあ干渉しないで生きましょう、という見解で二人は一致していた。引っ越しだとか保険だとか、必要なときには会議を余儀なくされたが、そもそも仲が悪かったわけでもなし、結婚する前と何も変わらず、そこらへんも適当にそれなりにやっている。

 本当に、世の中上手くできている。

 一緒に住んでいると、手を出したくなる。

 まさか彼女に対してそんなことを思う日が来るなんて、結婚を提案した日には、同居を決めた日には露ほども思っていなかったと頭を抱える。警戒心のないパジャマ姿。いつもさっぱりと俺に言い返す彼女が、寝起きで卵を焼く香り。自分の金で買ったはずのコーヒーを、俺にも淹れようかと笑う顔。ついでだからと俺の分まで一緒に洗濯してしまうおおらかなところ。たまに早く帰ってきた日に、風呂場から聞こえる水の音。

 毎日朝食を作ったうえで弁当まで持って家を出る彼女に、俺の分まで弁当を作ってくれないかと頼むとしたら、月にいくら払えばいいだろうか。しっかりした彼女のことだ。毎月の俺の昼の食事代と、弁当の食材代をきっちり割り出して、間を取ってきそうな気もする。そのうえで、手間代は勘定に入れないで提案してきそうな気がする。

 隣の同僚が愛妻弁当なんて広げているものだから、そんなことを考えてしまって思わず溜息が出た。

「どうしたよ」

 同僚がこちらに顔を向ける。

「いや、別に」

「聞くぜ。何だ、奥さんのことか?」

「……まあ」

 今夜もどこか適当な場所で女を買って、抜いて帰るんだろうなと、諦めた脳の片隅で思った。

 なおも話を聞き出そうとする同僚に曖昧に笑っているうちに、午後の始業のチャイムが鳴った。

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