六月十日

「お帰り」

 鍵を開けて家に入ると、パジャマ姿の彼女が、自室に引っ込むところだった。

「……ただいま」

 俺はネクタイを緩めながら、踵で雑に革靴を脱ぐ。視線は足元に落として、彼女は視界から排除された。

「別に、好きにしたらいいと思うんだけどさ、もうちょっとこそこそする振りぐらいはしてくれないかな」

 彼女の言葉が後頭部に掛かる。

「世間体的に、って言うと言葉が悪いけど。一応既婚者なんだからさ」

「……分かったよ」

 おやすみ、と彼女が自室の扉を閉める音がして、俺はようやく顔を上げた。

 奮発した2DK。俺らが同居するにあたって、部屋の広さ、特に一人ひとつのプライベートルームは譲れなかった。仕方がない。愛し合ってもいない二人が同じ空間に住もうというのだから。

 家賃は完全に割り勘だが、水道光熱費は若干彼女のほうが多く払っている。家で食事を作る彼女と裏腹に、俺は全く料理をしない人間なので、外食代ということでそう取り決めた。同居が始まった、ちょうど一年前のことだ。壁に掛かった彼女好みの絵柄のカレンダーを見る。何も印がつけられていない今月の二十五日、それが同居が始まった日で、結婚記念日であることを俺は覚えていた。覚えていたことにげんなりして、俺はそそくさと浴室に向かう。

 お湯を張る彼女と違って俺はシャワーで済ませてしまうので、浴室の掃除も主に彼女が行っている。もっとも、最近は節約のために毎晩お湯を張るのはやめているようだけれど。そこらへんは彼女の裁量だ。どうせ金も彼女が払っている。

 シャワーを浴びて、髪を拭きながら歯を磨く。ドライヤーは使わない主義なのでもう寝てしまったであろう彼女に迷惑を掛けることもない。だから帰るのも遅くなる。

 ――別に、好きにしたらいいと思うんだけどさ。

 俺は閉ざされた彼女の部屋のドアに一瞥をくれて、自分の部屋のドアを開けた。


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