第5話 父との夕食

 家に帰ってドアを開けると、玄関に男物の靴があった。父の靴だとすぐに分かった。久しぶりに父が帰ってきたのだ。今夜は母が気合の入った化粧をして、誰もが「わぁ」と声をあげて喜ぶようなご馳走を振る舞うのだろう。父が母の料理の腕を褒め、母が父の冗談に声を上げて笑うのだ。私もその芝居に付き合わされる。


「ただいま」と家に入ると、オーブンからいい匂いが立ち上っていた。(パエリアかな)と鼻をひくひくさせながら推測する。母が作る、サフランを使った本格的なパエリアはとてもおいしい。


 リビングに行くと、ワイングラスを持った母と父が、和やかに談笑しているところだった。側から見れば、美男美女の仲の良い夫婦に見える。そしてそのことを二人とも知っている。


 二人は、ベリーショートの髪に、変なおばさんが着るような服を着た私を見るなり、目を丸くした。父など、漫画みたいにワインを吹き出して、スーツにはワインの染みがつく。(白ワインでよかった)と私は冷静に思った。


 母は私を睨んでいた。表情を取り繕って笑顔が張り付いているが、衝撃と怒りが透けてみえる。少し涙目になっているのが分かった。よりによって、父が帰ってくる日に娘が醜態を晒すなんて、思ってもみなかったのだろう。


「その髪、なかなか似合ってるぞ。」と父が場を取り直すように言い、


「美華ちゃん、着替えてきたら?」と母が笑顔で、でも絶対に逆らうことは許されない目で私を見ながら言う。


「はーい。」と私はまた、子供らしい返事をして自室に向かった。


 さっきまで着ていた服を脱ぎ、母に朝から揃えてもらった服に着替える。さっきまでの痛快な気分は失せていた。姿見に写る自分を見て、怒りと他のいろいろなものが混ざった、ドス黒い感情が込み上げる。


 深呼吸をして、食卓に向かった。オーブンで焼き上げたパエリアが美味しそうに湯気をたて、テーブルの真ん中に置いてある。数種類のサラダと副菜が美しく盛られ、その周りを彩っている。カトラリーや食器がカジュアルに、でも細心の注意を払って並べてある。デザートもきっと手作りなのだろう。


 母がキッチンで立ち働いている間、私と父は先にテーブルにつく。


「学校の勉強はどうだ?」などと、当たり障りのないことを父に聞かれ、私はいつも通り嘘をつく。母の自慢の娘の「美華ちゃん」が言いそうなことを適当に並べ、ときどき声をあげて笑う。そんな私を中心に、父と母も幸せそうな笑顔を浮かべる。


 今日のお芝居も完璧だ。このまま、何事もなく幕が降りるのを待っていればいいのだ。なのに、私はこのお芝居をぶち壊したい衝動を、拳を握って必死で抑えている。父も母もメッタ刺しにしたい。パエリアをテーブルから引き摺り下ろしてぶちまけたい。


 父に愛人とは今も続いてるのか聞きたい。母に今はどんな男とセックスしているのか問いたい。私に、ただの一人も友達がいなくて、何年もいじめを受けていることを、二人に教えたい。


 でも、私の本当の言葉は喉に引っかかったまま出てこない。出てくるのは、便利な嘘の言葉だけだ。ふと胸が苦しくなる。息が上手にできない。父が心配そうな顔になり「大丈夫か」と私の腕に触れる。


 私は反射的に父から体を離す。父の顔が一瞬強張る。


「…トイレ。」やっとの思い出それだけ言うと、私は食卓を離れた。


 トイレで呼吸を整える。あの食卓にまた戻りたくないと思う。もう、二度と、絶対に戻りたくないと強く思う。


 私は足音を忍ばせて、そっと家を出た。

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