ありがとう
夜中の12時をすぎた頃、突然スマホが陽一からの着信を知らせた。
僕はポケットに入れていたスマホを取り出し、耳に当てた。
「もしもし」
紛れもなく陽一の声だった。驚きと安堵とで言葉が出ない僕に、陽一はペラペラと一人で喋り続けた。会社のこと、暇しすぎて死にそうなこと、たまたま同学年の友達ができたことなどを滔々と告げた。
一息ついたところで、僕は陽一の居場所を尋ねた。数分の沈黙があった。
「ごめん俺、ミスって自分の感情入れちまった」
質問を無視されたことの腹立たしさより、驚愕が勝った。僕は常にズキズキと痛む胸を押さえて顔をしかめる。
陽一はこんなに虚しさを抱え込んでいたのだろうか。こんなに無理して笑顔を作っていたのだろうか。表に向ける明るさの裏には、こんなにドロドロした痛みが渦巻いていたのだろうか。
「ごめん、もう直している時間はなくてな」
小さな笑い声が響く。自嘲の入り混じった声だ。
「星が綺麗だな。」
陽一の声が電話を通して、マイクを通して、入り込んでくる。僕はその言葉に釣られて空を見上げた。星なんて一つもない。濁った夜空に月が浮かんでいるだけだ。
「陽一!」
小さく吐息をつく音が耳に届いた。
「はじめっから、見返りなんて求めるつもりなかった。」
絶句する僕に、陽一は淡々と続けた。
「ただ自由にしたいと思った。だれかを救えば、俺が生きてる価値はあるんじゃないかと思った。アンドロイドでも構わないから、自分が生きていた価値が認められるまでは死ねなかった。でも久成がそれを壊そうとするなら、俺はそれを笑って見ていた方がいいんだ。間違ったものをこれ以上作らない方がいいと思うなら、俺はそれを認めた方がいい」
喘ぐように、陽一は笑った。
「でもやっぱり、俺は生きてたかったよ。」
た。
生きていたかった。
嫌な予感がした。
「答えは、人体学の本にあるよ」
いたずらっぽい響きを含んだ声で陽一はそう言った。
間髪を容れずに僕は人体学の本を棚から引っ張り出し、パラパラとめくる。最後のページから、ひらりと紙が落ちた。
目を落とす。見慣れた検査結果のコピー用紙。
ふざけ半分の声に油断して、何も構えずに用紙をひっくり返した僕は、書かれた数字に、体が凍りついた。
顔を上げてカレンダーを見上げる。皮肉にも同じ数字が、中央で威厳を放っていた。
時間は2年残されているのだと、そう考えて疑いもしなかった。
陽一は嘘をつかない。そう信じ込んでいたところを利用された。けれど隅っこに小さく記されたごめん、の文字に、陽一がそれを利用せざるを得なかったということが伝わってきた。
電話を通して、切迫した日本語が飛び交っているのが耳に入る。微かな機械音が聞こえてくる。陽一は低く笑い声を立てた後、電話越しのもわかるくらいひどく荒い呼吸をくり返した。
「陽一、今・・・どこにいる?」
通話が切れた。
切れてすぐ、僕はそれが陽一が録音した音声を流しているということに気がついた。
本来の陽一の声はこんなに浅くない。
こんなに人の話を無視したりしない。
スマホをひっつかんで玄関まで行き、スニーカーをつっかけてドアを蹴って開く。転げ落ちるように階段を駆け下り、僕は街灯の明かりの中へ飛び込んで行った。自分が出せる限り全速力で、陽一が検査のために通っていた病院へ向かう。
通行人の何人かを突き飛ばすようにして信号を渡り、病院の自動ドアをくぐる。受付は多くの人でごった返していた。うろうろと列の最後尾を行ったり来たりする僕の元に、いつかのお婆さんが来てしたから僕に笑いかけた。
「陽一君はここにはいませんよ。」
「ならどこに・・・!?」
お婆さんが教えてくれたのは、都内の方にある大きい総合病院だった。
「責めちゃだめよ。一番辛いのは彼自身だから」
低い声で呟いたお婆さんは僕に背を向けた。
お礼もそこそこに駅へ向かって飛び出して行く。何がこんなに僕を必死にさせるのか、僕自身もよくわからなかった。
総合病院の門をくぐり抜け、受付に駆け寄る。しかし親でも兄弟でもない僕が重症の病人の部屋に入れてもらえるわけもなく、僕は十分間受付でもめた。流石に諦めて出直そうと受付を離れたところで、エレベーターから降りて来た彼女に出くわした。涙の跡がいく筋もついた頬を緩め、彼女は僕に駆け寄って抱きついた。
「助けて」
泣き疲れて掠れた弱々しい声で彼女は僕にすがった。必死だった。声にならない声を張り上げ、周りの人が気の毒そうに振り向くのも気にせず何度も何度も願いを乞うてきた。
「陽一を、助けてよ・・・」
再び新しい涙が跡を作り、僕のシャツに水滴がのった。僕はシャツに顔を埋めてしゃくりあげる彼女の背中に腕を回した。
「陽奈さん」
彼女の名前を唇にのせる。
もう逃げない。
素直にならないまま別れるのがどれほど辛いのか、苦しいのか。よくわかった。
彼女は泣き腫らした目で僕を見上げた。そうしてくしゃりと顔を崩した。
「もう一人にされたくないよ・・・」
「陽一は・・・」
陽奈さんは一筋の涙を流しながら、頷いた。
「さっきまで母さんと父さんといたの。家族みんなで集まりたいって、そういったから」
もう全てを受け入れた後の声に聞こえた。
「最後の挨拶をしに行こう」
陽奈さんは服の袖で涙をぬぐい、苦しそうに微笑んだ。
エレベーターに乗るのももどかしく、僕は階段を駆け上がり、病室の扉を勢い良く開く。薄暗い病室にともる手元の明かりが、僕を引き寄せる。
「陽一!」
驚いたようにこちらを向いた陽一の顔に、ホッとした表情が浮かぶ。体にたくさんのチューブをつながれた陽一の寝ているベッドの脇には、心拍数をはかる機械が設置されていた。一瞬の躊躇もなく、僕は陽一のベッドのかけよる。頬のこけた陽一の顔を見たとき、僕は胸のあたりに暴れる炎が積み上がっていくのを感じた。これが何の感情を指し示すのか、僕にはわからなかった。
「なんで黙っていた?なんで言ってくれなかった?!」
陽一は無言で僕を見上げるだけで、答えてくれなかった。黒くてドロドロしたものが流れ込んでくる。
「なんでだよ・・・もう手遅れになってんだぞ。黙ってないで答えろよ!」
深く息を吸い込んだ陽一は、わずかに顔をしかめた。
僕はやっと陽一がもう話すのも楽にできないことに気がつく。あんなに楽々操っていた体も、使い熟していた声も、もう自由になならないのだ。いろいろなものが腑に落ちると反対に、ドロドロしたものは形を増していった。
「ごめん」
掠れた声で、陽一が言った。一言発するのに、唇を細かく震わせながら。一言一言に喘ぎながら。
歯を食いしばって床にヘタリ込む。
一番辛いのは僕じゃない。
陽一の人生の選択に、部外者の僕が口を出して言い訳がない。
「生きてる意味が、欲しかった。なんの役に、も立てない、まま死にたくな、いって思った」
簡潔に、言いたいことだけを、陽一は力を振り絞って伝えてきた。
「でも、久成が17歳で死んでも、その価値を全うできる、って言ってから」
声が滲む。
「俺にも、生きてる意味あったなら、それでいいよ」
胸が苦しい。
喉が痛い。
叫びたくて、なのに声にならなくて、息が詰まる。
苦しい痛い熱い苦くて気持ち悪い。熱い熱い熱い。
体が先から焼けていくようだ。
「あるよ。あるに決まってる!」
涙がとめどなく溢れて頬を伝い、布団の上にシミを作る。冷たかった涙は熱を持ち、止めようとすればするほど流れ落ちて行く。
人を失うことは、こんなにも怖いものだったのだろうか。
僕の中にうずくまった陽一の感情が、喉元まで這い上がってくる。
「幸せだった。だから、もう十分」
陽一の目に力がこもり、つかの間、いつもの冗談ぽい口調が戻ってくる。からかうような、それでいて真摯な口調が。一瞬、本当に一瞬、陽一の浅い呼吸が落ち着き、病人特有の弱々しい笑みではなく、活気に満ち満ちた笑顔が浮かぶ。
僅かな時間、湧き出した希望は組み立てられ、瓦礫のように崩れて行った。弱々しく喘いだ陽一は、ゆっくり僕から目線を外した。
遅れて部屋に入ってきた陽奈さんが陽一を見て息を呑み、ナースコールに飛びついた。陽一はそれを見て微かに首を横に振った。陽奈さんは覆いかぶせるように強く首を振りボロボロと泣きながら、なんどもなんどもナースコールを押した。
仄暗い病室の白さに、靄のかかった月の光が反射する。霞んだ光に照らされて、色黒だった陽一の肌が真っ白に光る。
強い。
本人がどう思っていようが、陽一は強い。
自分自身のことは、人の方がよくわかっているものなのだ。
生きることへの執着も、痛みを覆い隠して笑っている様も、僕には考えられないほど強靭で、強かだ。
どんなに完璧に作られていようが、どんなに冷静であろうが、人造人間は人に勝てない。利点なんてなくとも人のために奔走することは、僕にはできない。求めていたのは幸せだった。
僕も陽一も、陽奈さんも教授も、みんな幸せを求めていた。生きている価値が定められるのなら、それは有限で無限な、幸せだろう。人間であろうとなかろうと、生きている意味がないと思っていようと思っていなかろうと、その価値は誰もが同等で、誰もが求め、誰もが持っている。誰もが花火を途中で撃ち落としたいとは思わないように、どんな境遇でも人は花咲くのだ。
僕は幸せだ。
この先もずっと、幸せであり続けることはないかもしれない。
それでも僕は君や陽奈さんと過ごしたこの一瞬が、君との他愛ない会話や、時々痛いところを突いてくる軽口が、僕にとって幸せだった。
『あ り が と う』
陽一は僕と陽奈さんを見上げて、もう声にならない声を口の形で伝え、幸せそうに微笑んだ。その目元に僕が見る最初で最後の涙が浮かんでいた。
陽一の瞳に花が上がり、パッと咲いて、光の中へ散っていった。
『 有限 』 行平かのん @non-non3535
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