告白

 意識が戻る。何も聞こえず、何も見えない状況で、思考だけが働き出す。成功したのか失敗したのか。それすらもわからないまま、沈黙と暗闇の中で思考を巡らせる。

 ただ一つ、僕は陽一に言っておくべきことがあった。


 失敗した時は、僕を起こさないで壊してしまえと。


 教授だったら間違いなくそうするだろう。だが陽一はなんの許可も取らずに僕を壊すことはしないという確信がある。損得よりも感情で動く人間だ。それが悪いとは言わない。だが失敗作のアンドロイドを情で起こしてしまうのは、いい判断だともいえない。


 聴力が戻り、一気に音が流れ込んでくる。遠くの大通りを走るトラックの音が、足元を闊歩する陽一の足音が、痛いほど響く。

「次、視力」


 低く掠れた陽一の声が耳底に張り付く。視界がひらけないが故に音に過敏になっているのか、いつもよりも声の音質が歪んでいるのがわかる。

 光が一斉に目に集まり、やかましいくらいちかちかと瞬く。光の中にぼんやりと陽一の姿が浮かび上がり、僕の体からチューブを外していった。陽一の指先は小刻みに震え、息がわずかに乱れていた。


「大丈夫か?」

 額にびっしり汗の球を浮かせて力なく笑った陽一は、自分に向ける必要がありそうな言葉を僕に向けて放った。僕は服を纏い、裸足のまま冷たい実験室の床の上を歩き回る。



「問題なさそう」

 鏡を覗き込み、カメラが入ってないせいか少し青みがかった眼球を見つめる。

「ありがとう。何かお礼しなくちゃ」

「別にいいよ」



 僕は振り向いて笑おうとした。唇を持ち上げ、目を細める。いつも通りのパーツしか動かしていないはずなのだが、ちくりと胸が疼いた。なんの抵抗もなく作れていた笑顔に違和感を覚える。

「プログラム、何か変えた?」


 陽一は唇を小さく噛んで首を横に振った。窓から見える夕方の日光が後ろから照らし、一瞬表情が見えなくなる。じわじわと不安が押し寄せてきて、僕の胸を黒く塗りつぶしていった。その不安にも違和感を抱く。僕には、いつもどんな感情だろうが一歩引いて見つめている自分がいて、どこかで冷静なはずなのだ。こんなに胸一杯に不安が溢れ、冷静さを欠くような事は決してないはずなのだ。


 自由とはこういうものだったのだろうか。


 欲しつづけて手に入れた時、清々しい景色を見ることができると僕は勝手に思いこんでいた。だが、手に入ったのはすがすがしさではなかった。


 僕が手に入れたのは感情の歯止めがきかないことへの恐怖と、胸の詰まるような息苦しさだった。本当の自由を得た時、人は息苦しさを覚えるのだろうか。なににも支配されない生活を手に入れた時、人は恐怖を覚えるのだろうか。

 目の前に広がったのは青い水平線やそよ風のふく地平線ではなく、底の見えない谷間だった。


 けれど、不思議と後悔はなかった。

 僕にとってはこれからが本番だ。

 僕は強引に唇を押し上げ、スニーカーを履いて陽一に頭を下げた。これ以上助けてもらうわけにはいかない。僕はここから出れるかどうかの確証がないのだから。


 一瞬の自由を手に入れただけかもしれない。それでも十分幸せだった。

 部屋を出て行こうとした僕を、陽一の声が呼び止めた。一旦立ち止まって振り向くと、陽一はしゃがみこんで顔だけをこちらに向けて笑っていた。


「長期の休暇、もらってもいいか?」


 僕はなんに気無しに頷いて、お礼の言葉を口にした。僕は自分のミッションを達成することに執着するあまり、陽一の様子や言葉の意味を深く考えていなかった。ひたいに浮き出た汗の意味も、しゃがみこんでいた理由も、今まで休暇なんて一度も欲しがったことのない陽一が休みを求めたことも、僕はほとんど考えていなかったし、考えようともしなかった。


「じゃあ、な」


「うん、またね」

 いつもと同じように挨拶を交わし、僕は踵を返して実験室を出た。

 いつもの僕なら気がついたかもしれない。陽一の言葉に次がないことに。陽一の別れ際の言葉には必ず次があった。無意識だったのか意識的だったのかはわからない。


ただ陽一は必ず次があることを伝える人だった。これは僕の憶測だ。当てになるようなものじゃない。でももし僕の考えが正しいのだとしたら、陽一は次があることを約束することで、自分を死から遠ざけようとしていたのではないだろうか。ふとした瞬間に受け入れてしまわないようにしていたのではないだろうか。



 実験室の扉が閉まる寸前に見えた陽一の顔は、これまでにないくらい晴れやかだった。何かを達成した後のような清々しさのある顔に、泣き笑いのような表情を浮かべていた。

 僕はとん、という音とともに扉が閉まるのを背後で聞いた。目を閉じて深呼吸をし、一歩前に足を踏み出す。


 止まっている時間はない。


 もし本当に20年しか生きられなかった人と、80年生きた人の価値が同じだとしたら、陽一の川の流れは激流となるのだろう。スタートは誰しも同じで、海につくのも同じ。なんて公平な世の中だ。なんてよくできた世界だ。

 僕は陽一ですら羨ましい。その公平さが通用することが、絶壁から流れ落ち、岩肌に砕け散る水滴でしかない僕には、流れを持っていること自体がひどく羨ましい。


「羨ましい?」


 僕は眉を寄せ、小声で呟く。

 馬鹿げている。僕は何を望んだ?自由は手に入った。欲したものは手に入れたはずだ。 

 ならば僕は何に羨ましいという感情を抱いた?やり遂げた達成感にか?人であるということにか?誰にも作られていない人生にか?


 唐突に理解した。僕がきっとこの羨望を拭いされることはない。


 なんの言葉にも形容し難い感情が黒く胸を塗りつぶしていった。僕は立ち止まって自分の胸をつかんだ。痛い。慣れきった衝撃からの痛みではなく、チクチクと針で心臓に穴を開けられ、その穴からどくどくと血がながれているような痛みだ。


 おかしい。僕の感情は必ず答えがあって、肉体的な痛みは全く伴わないはずなのだ。こんなに息苦しいわけがない。羨ましいという感情がこんなに汚くてどろどろしたものな訳がない。先ほどから感じていた違和感は、いよいよ形を持って僕の中に現れた。


 研究所の窓のない不気味に白くひかる床を踏みしめて歩く。天井に埋まっている青白い電球が、シミひとつない無機質な壁に反射して僕の姿を追う。初めはいつもと何ら変わらなかったのに、次第にその無機質さに気分が悪くなってきた。目の前が回りだし、足が崩れた。這うようにして階段の踊り場まで向かったものの、全面鏡の前でへたり込んでしまった。ふと横を見ると自分の姿が映る。眼球がずれてるのではないかと思ってじっと鏡を覗き込む。けれど映ったのは何の異変もないいつも通りの色白で黒目がちの自分の姿に他ならなかった。



 グラグラする視界に巻き込まれないように手すりを掴み、階段を降りて右手にあったデーター室の扉を開く。扉の奥にはさらに扉が連なり、全て指紋認証のオートロックになっている、はずだった。ひとつ目の扉をくぐり抜けた僕は異変に気がついて足を止めた。全ての扉が開けっぱなしになっていて、防犯カメラが作動していない。


 ただもう迷っている暇はなかった。僕はまっすぐ扉を突き抜け、次第に閉鎖的になっていく空間に足を踏み入れていった。最後の扉をくぐる。広がっているのは理路整然と整っている部屋のはず、だった。


 だから余計に床一面に散らばったコンピューターの破片やパーツに僕は目を奪われた。足元に転がっている白いものを拾い上げると、カメラの入った眼球だった。表面に亀裂が入り、もう使い物にはならない代物だ。その眼球を手のひらに乗せたまま顔をあげると、中央に白衣姿の教授がこちらに背を向けて立っているのが見えた。


「C-1097」



 唇の先でそう呟いた教授は、振り返って僕を見た。

「お前は前に実験の目的を教えろといったな?」

 そういって高笑いし、足元にあったパソコンを踏みつけた。パソコンは不吉な音を立てて壊れた。僕は何も言わずにただ頷いた。


「息子のためだよ」


 一瞬耳を疑った。


 現に教授の口が動くのを見なければ、僕はずっとその言葉を信じなかっただろう。これほどため、という言葉が似合わない人はいるだろうか。それと同時に、頭の中でいろいろなことが結びついて行く。陽一が教授を知り合いだと言った理由と、息子が持ってきた検査用紙の理由が。予測は現実となって僕の頭に浮かび上がった。

「陽一の、ですか?」


 頷いた拍子に教授の瞳からつうっと涙が溢れ、顎を伝って床に落ちた。「愛せなかった息子のために私ができる精一杯だった」


 驚いて顔を上げる。教授はぼたぼたと床に落ちる雫を足で踏んで消し、歯を食いしばって嗚咽をこらえていた。


 研究のために家族への愛を捨て、非行に走った子供を捨て、夫を捨てた。そうではなかったか。教授は、生々しいほど人間だった。全部家族のための、息子のための、実験だったのだ。手に持っていたデーターを、教授は床に叩き落として足で踏みつけた。


 僕は黙って教授の話の続きを待った。教授は表面に涙の伝うメガネを外して僕を見た。メガネを外した教授の顔は非常に端麗で人間味があり、いつもの冷酷さは微塵もなかった。


「私に会いに来た陽一は、少しも悲しそうな顔をしていなかった。死ぬと言われて、楽しそうに笑っていた。私のせいだと思った。生きていることに楽しみを見出せなくなったのは、私が放置して来たせいだと思った」


 教授は教授だった。

 教授は研究者だった。

 教授は医者だった。

 それより以前に、母親だった。


 僕にかけてきた莫大な研究費と時間は、すべて愛せなかった息子のためだった。いや、愛していたのだ。ネグレクトしていようが疎ましく思っていようが、教授も気がつかなかったどこか奥底では息子と娘を愛していた。


 どれだけ普通の生活ができるのか、どのくらい発想力があるのか、どれくらい人生を楽しいと思えるのか。僕の研究結果は教授の予想をはるかに上回る完璧さだった。


 失敗があるとすればそれは、手違いで僕と陽一が同じ中学になってしまい、挙句僕の正体を知られたことだった。けれど事態は悪い方にはいかず、陽一は自ら僕と同じ姿を求めてきた。僕は陽一が人間で無くなると同時に消え、教授の願った通りになる。はずだった。


 データー室は一筋の光もなく、薄暗い蛍光灯が教授の背後にある透明な棚を照らし出していた。そこに入っていたはずの5年分のデーターは全て床に叩き落とされ、砕け散っていた。僕の役目はもうこれで終わりだ。僕自信を壊してしまえば、後には何も残らない。


「さっき作業している現場に行ったんだよ」


 ハッとして床に散らばるデーターの残骸から顔をあげる。

「陽一は私にもう二度とお前のようなものを作るなと言った。そして自分は決してアンドロイドにはならないと。海外へ行って治すのだと」


 驚愕の表情を浮かべたのであろう僕を見て、教授はうっすらと笑った。海外、という言葉がわずかに震えたような気がしたが、気のせいだろうと勝手にカタをつけた。

「陽一は恨んでいるだろうな。こんなに不甲斐ない母を」

 僕は初めて教授の肩に触れ、作り笑いを含んだ眼差しを投げた。


「僕は陽一の気持ちはわかりませんが、陽一の口から母親に対する恨みを聞いたことはありません」 


 沈黙が訪れた。 


 教授は目を開き、泣き崩れるように笑った。


「もう何をしても償いきれないな・・・」


 蛍光灯の明かりで教授の目尻が光る。

「虚しかったろう。苦しかったろう。私がモデルになっているのだからな」

 教授は突然膝をつき、体の前に腕を出し頭を床に当てた。


「すまないことをした」

 涙が目から鼻へ、鼻から顎へと伝い、きらきらと瞬きながら教授自身から流れ落ちていく。

 僕が虚しいのも、何かを求め続けるのも、涙もろいのも、綺麗な顔をしているのも、陽一を助けたいと思うのも、すべて教授だからなのだ。

「もしお前が今ここで壊して欲しいというなら、私はその言葉に従おう。このままでありたいと願うのなら、私はそれでも従う」


 僕は陽一に借りを作った。それを返すはずが、陽一は人間のままでありたいと願った。だとしたら僕は、陽一に渡された時間を目一杯楽しんでやればいい。陽一がやりたかったことを、叶えてやればいい。


「メンテナンスも修理もしないでください」

 僕は笑顔を作ろうとしてうまくいかず、ゆがんだ表情のまま告げる。

「僕はもうここへはきません。数年したら壊れるでしょう。それが僕の寿命です。そうしたら、回収しにきてください。他の人の手に渡らないように」

 僕は頭を下げて踵を返し、データー室を出て、研究所を後にした。



 けれど僕の決意と関係なく、僕がその後実験室に足を踏み入れることは二度となかった。なぜならその日の夜、研究所から火が出て、建物が取り壊しになったからだ。幸いにもけが人はいなかったものの、中にあった一部の部品が燃え尽きたらしい。皮肉か、または取り計らわれたのか、火が出たのは僕がいつも通っていた実験室で、燃え尽きたのはデーター室の残骸だった。割と大きな実験室だったためにニュースになっていたが、関わりもないどこかの実験室の火事なんて、次の日にはみんな忘れていた。


 それから一ヶ月、僕は会社を周りに迷惑がかからないように取り計らってから畳んだ。もともと資金のために立ち上げていたが故に、もう必要はなかったのだ。その間は激務となっていて、時々来る陽一からの連絡もまともに返していなかった。


手伝いのために僕の家に住み込み状態になっていた彼女はこの一ヶ月、一度として陽一の名前を口にしなかったことも合わさって、しばらく頭の隅に追いやられていた。


正式に会社を畳み、彼女も家に帰った頃、僕はようやく溜め込んでいたラインの返信をした。



けれどついに陽一から返信が来ることはなかった。

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