・・・

ガラス玉のような瞳を取り出し、窓際におく。棚の中に入っていた液体付の予備の眼球を取り出し、カメラが入ってないことを確認してから、ぽっかりと黒く空いた目に埋め込む。メスで切り開いた内臓部分に取り付けられているGPSを抜きだす。


 ふらつく足に懸命に力を込め、一つ一つ手順通りに進めていく。視界が白く霞み、腹に痛みが走る。思わずしゃがみこみそうになる体に鞭打ち、震える手で作業を進める。

 時間がない。ここで失敗したら、俺はもうやり直すことはできない。


 母親が間違いを犯して作ったこの機械を助けたのは、取引のためではない。


 生きたいと言う願望がなかったかといえば嘘になる。けれど何の見返りがなくとも助けるつもりだった。


 誰でもいい。


 救いたかったのだ。


 いや、誰でも良かったわけではない。


 母だったから救いたかったのだ。


 どこか突き放した物言いも、皮肉っぽい物言いも、得られない何かを求める様も、どこかで自分のことを考えてくれていることも、どこかで失ってしまった母そっくりだったのだ。


 恨んでいた。

 憎んでいた。


 なぜ自分を産んだのかと。


 いらないなら産まなければいい。愛せないなら何故産んだのかと。不幸しか与えてくれなかった母を恨んだ。病気になってすぐ自分を捨てた母が憎くてたまらなかった。

 いらない存在だと言われたような気がしてやけくそになり、医師に言われたことを何一つ実行せずに何度も入院退院をくりかえしていた。好きだったバスケをやっている時以外、生きていたいとは思わなかった。


 それをたまたまクラスで最もおとなしい学級委員のクラスメイトに諭された。腹がたった俺が彼の胸ぐらを掴むと、彼は未完成だったばっかりにあっけなく壊れた。俺は彼が人間ではないことを知り、生来の好奇心が頭をもたげて時々話すようになった。医師のいうことを聞くようになったからか、入院の回数は確実に減っていった。


 病気が治ったら普通に生きられるかもしれないと言う希望を抱いたばっかりに、余命宣告をされた時は衝撃を受けた。将来があるかもしれないと考えた矢先に、どちみち死ぬのだと突きつけられ、やりきれない気持ちになった。だからやけになって久成に取引を持ちかけた。期待はしない。けれどもし生きられるのであれば人間でなくとも構わない。


 気がつけば俺は、あんなに雑に扱ってきた生と名のつくものに執着していた。


 自由を欲していた久成はすぐにその取引に乗ってきた。俺たちは時々話すクラスメイトから、友達、仕事仲間、親友、と形を変えていった。その間に俺の寿命は、少しずつ縮んでいっていた。焦っていたし、怖かった。その感情を表に出さないようにするために数値化し、小さな機械に自分の感情を閉じ込めた。研究の一環だと言いながら、ただ苦しいのを隠すためだけに作業に没頭した。


 なのに、この間突然半分になった寿命に、俺は自分でも驚くほどショックを受けなかった。


 きっとどこかで分かってはいたのだ。自分に未来がないことを。しかし俺は頑なにそれを認めず、残り少ない命が日々すり減っていく様を見て見ぬ振りをつづけていただけなのだ。


 事情を知っている人はそんな俺を見て流石だといった。


 君は強い人間だ、と。


 誤解だ。

 とんだ間違いだ。


 そうでもしないと俺が自分自身を保っていられないことに、誰も気がついていない。

 泣けば楽になるという人がいる。少なくとも俺が出会ってきた人はみんなそうだった。泣いていいんだよ、とみんなして言った。無理して笑う必要なんてないんだと。

 どこでそんな決まりができたのだろうか。


 泣いてしまったら、それはもう現実を受け入れてしまったことになる。

 取り返しのつかない死へを道を歩みだすことになる。


 諦めて現実に向き合い、叶うはずのない希望を見ることをやめたら、きっともう前を向くことはできない。もう笑うことはできない。


 だから俺は脳の奥底では分かっている事実から目を背け、空っぽな希望を見据えて笑うのだ。恐怖に鳴る歯を噛み締め、涙が浮かびそうになる目を細め、震える唇を押し上げて笑うのだ。


 現実を受け入れた時、抗うことができないと知った時、俺は初めて泣けるのだ。この不幸のどん底から解放されれば、もう強がっていなくてもいい。幸せになれたら、もう建前だけの笑みを作らなくていい。


 機械油で汚れた両手を白衣の裾で拭き、久成の脳に繋がっているチューブをパソコンにつなぐ。ポケットに入れていたUSBを差し込む。USBの内容をよく確かめずにマウスをクリックする。これで晴れて久成は自由の身だ。


 一息ついてUSBの内容が久成に移り始めたところで、俺は異変に気がついた。慌ててパソコンを開いて内容を確かめた途端、体が凍りつく。


 俺が持っていたUSB必要なものと同時に、数値化した自分の感情が入っていた。期待も悲しみも封じ込んだあの情報は、音もなく、ただ止められないスピードで久成に吸収されていっていた。

 久成の感情面の構造は暴走しないようなストッパーがかかっていたはずだ。きっとこの俺の感情は、決して久成に良い結果をもたらしはしないだろう。


 血の気が引いた。


 作業が終わった後の久成がどんな行動をとるのか全く読めない。一瞬このまま葬ってしまった方がいいかもしれない、という合理的だが冷酷な考えが頭をよぎった。誰も被害を受けることのないまま、壊してしまえばいい。会社の後始末は残った時間でできるだろう。全ての契約を打ち切り、俺たちは双方とも姿を消す。きっと混乱するのはいっときだけで、数ヶ月たてば俺たちの存在なんてどこにも残らない。


 だがそれでは誰も救ったことにはならないと思い直す。

 けれど久成だって同じなのだ。


 俺たちの取引は、成功しようが失敗しようが結局は身を滅ぼす。


 未来とか夢なんていうものは、初めっから俺たちに存在しなかった。


 一瞬猛烈な痛みが体を突き抜け、俺は床にへたり込む。薬のおかげであまり外には姿を表さなかった病魔は、確実に俺の体を蝕んでいた。先週病院へ行って、数値がかなり悪化していると言われた。自分自身を過信していた俺は、すぐ入院しなければならないところを一週間延ばしてもらった。初めはいつも通りだった体が、次第に不自由になっていく様が目に見える。昨日から食べ物が喉を通らず、体にうまく力が入らない。


 俺はもう将来がない。


 猫は死期が近づくと飼い主の元を離れて行くらしい。


 人間だって所詮は動物で、医者がなんと言おうと他人がなんと嘘をつこうと、自分の体がどうなっているのかは直感でわかる。ふとしたときに自分が長くないことを頭で理解するようになる。

 這うように実験室の窓際に行き、開いた窓から身を乗り出す。ところどころに緑の見える実験室の数十メートル先に、バスケットボールのネットがあった。


 突然息が吸い込めなくなる。


 俺は喘ぎ、崩れ落ちるように窓から離れた。外の景色から目をそらすと、呼吸は幾分か楽になった。深呼吸をして呼吸を整え、ふらつく足を手で支えながら立ち上がる。


 夢は捨てたつもりだった。


 バスケの推薦で強豪校へ行くことを断り、公立高校へ進学したことで夢への道は完全に閉ざした気でいた。生きることだけを考え、多くは望まないと決めたはずだった。


 なのに。


 全くそんなことは無かった。

 高校に入って俺は、バスケをするどころかプレイを見ることすらできなくなっていた。体育がバスケの日は、なんだかの理由をつけて休んだ。学校側は俺が病気だということを知っていたから、心配こそすれ怒ったりはしなかった。


 ただに逃げだったのに。


 未来のない自分が、もう決して実行できないであろう夢から、目を背けたかっただけなのに。生きている価値を見出せた唯一のものだったからだろうか。


 中学の時の部活仲間からインターハイに行ったとラインが来た時は、気持ちが悪くなって吐いた。病気でなければ俺がいる場所だったところに立つ友人を、俺は見ることができなかった。ただの妬みだ。汚い嫉妬だ。

 俺が健康体だったらお前はそこにいなかった。俺が立っていた。そういう考えが頭をよぎった。友人の努力を認めることができなかった。

 俺は自分を差し置いて人を応援できない器の小さな人間だった。


 突然ドアが開いた。驚いて顔をあげる。



 そこには懐かしい顔が怒りの表情を浮かべて立っていた。


 白衣に袖を通した母は、俺のそばまで歩いてきて冷たい目を細めた。


「初めっから作戦だったわけだ」

 俺は母を見下ろして唇の先を持ち上げる。

「途中で気がついたんだ?あーあ。残念。もう終わってるよ」

 手元にあったパソコンを掴み、床に叩きつける。パソコンは硬い床に当たってバラバラに砕けた。もう修復は不可能だろう。


「何をしてる?馬鹿者!」

 もとよりこうなることは予想していた。

 それについての作戦を考えていないほど、俺は詰めの甘い人間ではない。


「ごめんなさい。母さん」


 俺は母親の腕を掴み、床にしゃがみこんだ。母はチューブに触れていた手を離し、驚いたように俺を見下ろした。見る間に表情のなかった顔が崩れて行く。慌てて僕を抱きかかえた母は、驚愕の表情に強い後悔の色を浮かべて僕の名前を呼んだ。


「いうこと聞かなくて、ごめんなさい」


 なんども繰り返した言葉だ。

 何かをするたびに、失敗するたびに、俺は母に向かってこの言葉を発していた。

 俺と姉貴をゴミのように捨て、家族に対する愛情を持たず、価値を認めてもらおうとした俺を嘲った人だろうと、人間な以上どこかで感情は機能しているのだ。

 母は首を強く横に振って端正な顔にうっすらと悲しそうな微笑みを浮かべた。

 幼少期に俺が母に求め続けた顔で、母は俺の名前を呼んだ。


 皮肉なものだ。

 あんなに欲しかった笑顔なのに、俺は今その感情を利用しようとしている。

 

 母さん、どうせなら、その笑顔を数年前の俺にあげて欲しかった。今の俺には、もう笑顔で喜べるほどの純粋さも、あんたに認められたいと思う素直さもない。

 どうせなら、俺の葬式でもその顔で泣いてくれ。


 そうしたら、俺は少しでも母さんを許す気になれるかもしれないから。



 「最後に一つだけお願い聞いてくれる?」



 涙が一筋頬を伝って、真っ白な床にキラリと光を落とした。

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