前夜

 昼過ぎから土砂降りになった雨が、オフィスの窓に当たって砕け、滴り落ちる。灰色の薄暗い部屋は沈黙が溢れかえっていて、僕と陽一が紙をめくる音だけがやけに大きく響いていた。


卓 袱台に置いてあったグラスから水を飲み、分厚い資料に素早く目を走らせる。A4 5枚にまとまりそうな内容がやけに長ったらしく綴られている。簡単に用件だけパソコンに打ち込み、予定表に会議の日程を書き込む。


「陽一、この会社、もういいや。切ろう」

 陽一は片眉を吊り上げて資料を受け取り、パラパラとめくった。

「長ぇ企画書だな。ちょっと待てよ」

 猛スピードでキーを叩き、くるりと振り向いて僕の椅子を引っ張った。「確かに切ったほうが賢明、か。社長が会社の金不倫につぎ込んでたらしくてちょっとしたニュースだな。あそこ社長の顔でやってるとこあったから結構赤字になってる。優秀なのが軒並み退社して、使えない新人ばっか残ったってとこか」


「事実はいらない。君の考えは」


「こんの冷酷社長」

 陽一は不敵に笑って画面上社長の顔を指で弾いた。

「あの会社には悪いけど、契約切ろう。一年待たずに潰れるし、いま契約切らなかったら、こっちもざっと見一千万の損害だ」

「君の予想は・・・外れないからな」

 僕は資料をゴミ箱に放り込む。


「無駄なものを記憶させられたよ。あの長い企画書でメモリがいっぱいになりそうだ」

「うわぁ辛辣」

「会社にとって不利益なものは切り捨てる。どこも同じだよ」

「普通は付き合いとかあるぞ?久成はわかんないかもだけど」

「それくらい知ってるよ。僕だってあるし。陽一と僕みたいな関係のことでしょ」

「それ、俺が言ってるのと同じ意味で言ってる?」

「そのつもりだけど」


 大してひどいことを言ったつもりはないのに、陽一はへなへなと机の上にへたってしまった。

「もう俺、お前と一緒にいるのやめるわ・・・」

「どうして?付き合いなんだからやめるとかなんとか言われても」

「俺が言ってるのは、嫌だけど風体を気にしなきゃいけないから、一応取引してるってことなの!久成もそうなのか?」


 子犬が飼い主から引き離されるときのような瞳で見つめられ、僕は陽一の言っていた意味をやっと理解した。首を振ろうとしてはたと思いとどまり、突然芽生えたいたずら心というものに従って見ることにした。


「君はよく僕の家にきて散らかして、僕の一週間分の食料を全て食い尽くし、挙句家で見れないDVDとかを勝手に人の名義で借りて、僕は見もしない恥ずかしい君の趣味にお金を払ってる。でも君は信頼できる腕と頭があるから、そのくらいは支払う・・・」

 心なしか陽一の目がうるうるしている気がする。とことん人懐っこい性格の犬が、主人に怒られてシュンとしているのを見ている気分だ。

 僕はニコッと笑って、陽一の頭をわしゃわしゃと撫でる。


 絶対服従。

 陽一が喉の奥で低く唸り声を上げる。

「DVDに関してはお前も見てんだろ?どうせ」

「・・・否定はしない、けど。僕の好みじゃないから」

「え、まさかの年上派だったり?」

 そこら辺はノーコメントで、僕は話を続ける。

「でも一緒にいると退屈しない。知らないことをたくさん教えてもらえる。こんなに有意義に実験期間を過ごせるなんて、当初の僕は思いもしなかったよ」


「次からは年増のも借りとくからな」

 あからさまにふてくされた顔で、陽一が抱きついてくる。6センチも高い男に抱きつかれて窒息しそうになった僕は、人の話を無視すると多少の被害が及ぶということを学んだ。


「あのさ、無視したのは悪かったけど、自分より身長の高い男に抱きつかれても嬉しくもなんともないから」

 僕は陽一の胸板をぼこぼこ殴り、顔色一つ変えずに引き下がった陽一にしかめっ面を見せた。


「久成連れない・・・そういうの全部書き変えよっと」

「・・・嫌な予感しかしないんだけど」

「ただ人の体温が好きにさせるだけだよ。そう言う性癖があれば少しモテなくなるし」

「自惚れではないんだけど、僕に抱きつかれて嫌がる人どのくらいいるかな?」

「いや、普通嫌がるだろ」

「僕の手がちょっと触れたくらいで一日中ときめいてる人たちが嫌がるの?手紙の中には体の関係だけでもいいのでとかいってくる人もいるのに?」


 陽一がぐうう、っと反論に詰まる。事実に基づいて言っているので、反論のしようがないのだろう。

「お前は何やってもプラスに働くからいいよなぁ。俺がやったら最悪警察呼ばれるのに。いいなぁ、俺も触っても何も言われなくなりたいなぁ」

「それは普通に気持ち悪いよ」

「あーどうせ俺はキモい奴ですよ。どーせそんなことしか考えてない男子高生ですよ」


 開き直った陽一を慰めるために、僕は練習で作ったアプリを開く。

「旅館の日常系ゲームがあるんだけど、やる?」

「何そのゲーム。もしかして新商品?」

 僕からスマホをひったくってざっと眺めた後、陽一はこのタイプの商品ならこの会社に・・・とパソコンに向かい出す。

「もうちょっとレベルアップの時の達成感が欲しいかな。お客さんに迷惑なのがいてそれが敵っていう発想は面白いけど、飽きてくる。商品として出すには詰めが甘い気がするな」

 片手でゲームを操作しつつ、ベラベラと欠点を述べる陽一に、僕は曖昧な笑顔を向けた。

「息抜きだからあんまり仕事モードに突入しないで」

「それにしては凝りすぎだろ」

「陽一が入院してる時に作ったんだけど、渡す機会がなかっただけで」

 陽一がよし、と握りこぶしを作る。


「これを1日で攻略したら、何か奢って。できなかったら、奢ってもらうのは我慢する」

「・・・僕のメリットが見当たらないんだけど」

 少し考え込むそぶりを見せた後、陽一はぽん、と手を打ってスマホを僕に向かって放り投げてきた。反応が遅れたので床に落ちるかと思いきや、スマホは綺麗に僕の手のひらに収まっていた。

「さすがバスケ部」

 皮肉っぽく呟き、スマホを机の上に置く。

「で、何を思いついたの?」

 陽一は自分のスマホを開いてにいいいっと笑う。

「できなかったら、これに修正入れて商品化してやる。悪い話じゃないだろ」

「乗った。1日で攻略とか不可能だから」

「それはどうでしょう」


 カバンからタブレッドやスマホを出し、一斉にゲームのアプリを開いた。

「何台も使えば、問題ないやつだろ」

 サラサラと画面に指を走らせながら得意満面の笑顔で語る陽一に、僕はため息を送る。

「途中で書き換えるとか無しだからね」

「はいはい。俺ちょっとまじでやるからほっといて。勝てたら会席奢ってもらう」

「え、それは無理」

「約束」

「人の話を聞いてよ」


 陽一は全く聞く耳を持たずにゲームを始めた。台数と陽一のレベルからすると、よほどのことがない限り僕は会席を奢る羽目になってしまう。最近出費が多く、今月は貯金を下ろさなけらばならなくなった。もともとお金を使うような趣味はないので、貯まる一方だったお金を適度に使うのは悪いことだとは言わない。けれど一定に達したら寄付しようと思っていたのでなくなってしまうのは困る。

「君に給料あげてるよね?」


 陽一は余裕のない表情で画面を睨んだまま、頷いた。

「自分の治療費で消えてるけどな」

 皮肉だよ、と真っ暗になった画面を悔しそうに叩き、陽一はスマホを片手にペットボトルのお茶を勢いよく煽った。突き出た喉仏をこぼれた液体が伝い、真っ白なTシャツに茶色いしみを作る。

「後がない人間が稼いだ金は、自分の治療費で消えて好きなことには何一つ使えない。治療をやめたら働けなくなって死ぬけど、やめなかったらずっと金がかかる」


 確かに皮肉なものだ。後がなくともお金がかかる。自分で払わなくとも、誰かに負担を敷いて、それを返すことができない。

 言われてみれば、陽一がこの会社を手伝うようになったのは僕との取引があったためではない。足を引っ張られるからと誰も雇うつもりのなかった僕を驚嘆させ、今ではなければならない存在となっている陽一は、自分を生かすために働かせてくれと言って来たのだ。


 真っ黒な生気のない瞳に、ゆがんだ笑いを浮かべて僕の前に立ちふさがった彼の体は、立っていることすらままならない状態だった。病人を雇うほど余裕はないと一括する僕を掴み、苦しそうに腹を押さえたまま親に負担をかけたくないとすがりついて来た陽一を振り払うことができなかった。いつも爽やかな笑顔で、誰とでも対等に接する陽一の触れてはいけない場所に入り込んでしまったような気がして、引き返せなかった。学校では相変わらず笑って居たけれど、僕といるときは苦しそうな表情を隠そうとしなかった。


 確か余命を言い渡される一年前のことだ。


 その表情も、あの日持ってきた一枚の紙とともに姿を見せなくなった。短く事実だけが述べられた紙切れを片手に、陽一は清々しげに笑った。流石に働くのはやめて好きなことをした方がいいと言った僕に、陽一はどうせ恩返しできないくらいなら残りの人生は自分で買う。そんなことを言って居た。


 たまたま僕たちのデスクの近くにあるコーヒーマシーンを使いにきた三十代半ばくらいの女性が、ちらりと僕たちを見て軽く会釈をしてきた。僕は目上の人に対するお辞儀の角度にのっとって挨拶を返し、陽一に向き直る。


「じゃあ例えば何をしたいの?」

「ん〜久成の好みのビデオ見たい」

「僕はこのプログラミングの説明をわかりやすくしてくれる動画を勧めてるけど」

 わざわざ検索して再生してあげたのにもかかわらず、陽一はため息をついた。

「久成ってたまに露骨に言わないと伝わんないときある」

「・・・君と一緒にいると変なことばかり教えられている気がしなくもない」

「わかってんじゃん。健全な男子高生だろ?実験協力に感謝しなさい」

「してほしいと頼んだ覚えはないよ。しかも露骨にいえばビデオなんてなくとも君はもう経験済みでは?」

 女性が聞いたら顔をしかめるような単語を並べ立てると、かなりの力で口を塞がれた。

「さすがに露骨すぎ。久成みたいなイケメンが言ってるとちょっと気まずい」

 陽一は居心地悪そうに椅子に座り直した。

「顔は関係ないだろう」

「綺麗な顔に関わると色々汚した気分になるんだよ」


 元カノと何があったか知らないけれど、あまり触れて欲しく無さそうだったので追求するのはやめる。人に干渉しすぎない。今までの友人関係で僕が学習した誰とでも公平に仲良くできる方法だ。


 人の反応や発言を完璧に記憶できる僕にとって、ある程度接触のある人の秘密を知ることは容易い。陽一のように口が滑りやすい人ならなおさらだが、罪悪感と名のつくものが伴うので知らなくてもいいことならメリットはない。


「ノリが切れたから買ってくるけど、何か欲しいものある?」

 僕は領収書を束ね、スクラップブックの上に置く。陽一は携帯から顔をあげずに、高校生間では割と高いことで知られるアイスの名を挙げた。

「バニラでいいの?」

「期間限定があったらそれがいい」

「陽一が嫌いなやつだったら?」

「だったらいちご」

「・・・何が嫌いかわかんないんだけど」

「久成の記憶力でそれはないだろ」


 いいように使われているような気がして腹が立った僕は、マカダミアナッツかマンゴー味が出ていたら絶対にそれを買って帰ろうと決心する。

 エレベーターのボタンを押し、数分後にきたエレベーターに乗る。地下に入っているコンビニでノリと修正機をカゴに入れ、冷凍品の売り場に行くと、幸か不幸か最後の一個のマンゴー味を手に入れた。少しカップを手にとって悩んでいると、後ろから汗だくのサラリーマンが残念そうに僕の手元を見ているのが視界に入った。


 嫌々食べられるよりも好きな人に食べられたほうがいいと判断した僕は、その人にマンゴー味を譲り、マカダミアナッツ味と自分用にチョコチップ味をカゴに入れた。

 若い店員さんに熱っぽい0円スマイルをもらったので、お礼とともに笑顔を返し、コンビニを出る。

 平日の午後だからか人通りは多く、地下のカフェは仕事がひと段落して休憩を取っている人で溢れかえっていた。とはいえ自営業の性なのか、みんな総じてパソコンを開き、険しい顔で机に向かっている。自営業で真面目すぎる人は休憩を休憩にできないことが多い。仕事の融通が効く代わりに、休日を休みと割り切ることもできなくなる。


 実際僕も同じで、最後に丸一日休んだのはいつだったか数秒考えるほどだ。毎日のように学校帰りに寄ってくれている陽一に、休暇を取らせなければと思いつつオフィスに戻る。一度外に出てあったまった体に、クーラーの風が直に吹きつけ、ひんやりと肌が冷たくなる。


「お帰りなさい。何買ってきた?」

 一休みしていたらしい陽一が椅子の背に体を預け、上向きで尋ねてくる。

「マンゴー味があってそれにしようと思ったんだけど、欲しそうな人がいたから譲っちゃった」

「・・・嫌がらせかよ。ピスタチオでも買ってきたの?」

「え、ピスタチオも嫌いなの?マカダミアナッツもじゃなかった?」

「それ多分ピスタチオの間違いだ。多分念のためほんとに嫌いなものは言ってないわ。マカダミアナッツ大好き」

 僕はまんまと一杯食わされたことに腹が立ったが、陽一に非はないので仕方なくマカダミアナッツ味を机に置く。詐欺師の才能ありきな陽一は、何食わぬ顔で僕の手からチョコチップを掠め取った。

「今朝マカダミアナッツ食べたからチョコがいいや」

 そういうなりスプーンを食い込ませ、チョコチップ味を頬張る。僕は机に残されたマカダミアナッツと陽一を見比べ、騙されたことに気がつく。考えてみれば陽一がマカダミアナッツを嫌いだと言ったのはずっと前のことで、その時から今日のようなことがあると予想しているはずがないのだ。

「陽一・・・」

 陽一はテロっと舌を出してずるがしこそうな笑みを浮かべる。

「俺って意外と策士家だよ?」

「知ってる。油断した」


 マカダミアナッツ味をスプーンですくって口の中に入れる。ほろりとくずれて舌に吸い込まれていく食感が心地いい。

 マカダミアナッツにして正解だと思いつつ、目の前に差し出されたスマホを見るために顔をあげる。僕の予想をはるかに上回るスコアを得意そうに指差し、陽一はにっこり笑った。

「ゲーム攻略できちゃいそうだけど、大丈夫??」

「何を今更」

「いいの?」

 僕は曖昧に頷く。

「もし何かあって食べられなくなっちゃったらかわいそうだから」

 優しさといったら聞こえがいいが、ただの保険だ。僕が失敗した時のお詫びであり、せめてもの償いというやつだ。


 その意味を察しただろうに、陽一は無邪気な顔で嬉しそうにお礼の言葉を口にした。ただ鈍感なだけなのかもしれないと思い直したところで、陽一は視線を僕に向けた。雪や氷ではなく、尖ったガラスのように冷たく刺さる瞳だった。何もかも見透かしてくるような冷たい目つきは明るく派手な顔つきに似合わず、ギターの新しい弦のように異様な存在感を放っていた。


 鈍感なんて嘘だ。


 きっと何もかもわかった上で笑うという選択をしたのだろう。


 人の感情の意味がわからない以上、僕は所詮、機械なのだ。

 自己嫌悪らしきものに陥っていた僕の手から、陽一はマカダミアナッツ味のアイスをひと匙掬い、口に放り込んで顔をしかめた。


「やっぱチョコチップ味の方がいいよね」

 陽一はパソコンに向き直りつついった。

 なぜ突然アイスなのかわからなかったけれど、わざわざ元の話に戻す必要もないと判断して同調する。さっき触れた目つきの冷たさのせいか、手に持ったアイスのカップがやけに生ぬるく感じられた。

 残りのアイスを片付け、領収書の整理を一通り片付けたところで、携帯が着信を知らせた。個人持ちの携帯には数名の名前しか入っていないので、おおよそ誰からの着信かは予想がつく。

ディスプレイを見て予想通りの名前を確認した後、通話に出る。


「もしもし」

 迷惑にならない程度に声を抑えて応じる。

『久成、今すぐ合コンにこれる?』

 開口一番、彼女が発した言葉に理解が追いつかずフリーズしていると、見かねたらしい陽一が僕の手から携帯を奪った。

「突然何言ってんだよ。久成凍りついてんぞ」

『急遽一人来れなくなっちゃって。ハイスペック合コンだから、起業してて顔のいい久成なら完璧なんだよ』

「今日の今日言うな。あと、実体験から久成は合コン連れてくと男が嫌な気分になるので、連れて行かない方がいい。以上!」

 通話終了ボタンを押そうとする陽一の手からスマホを奪い取り、彼女に向けて謝罪の言葉を口にする。

「僕コミュニケーション能力が一部欠落しているみたいで、必ず後で男性に嫌われるので合コンはお断りします」

『それ、久成に責任はないでしょ。ただ男が嫉妬深いだけだから。お願い!」

 後ろで陽一が「自分だって美女がいたら嫉妬するくせに〜」と騒ぎ出すのを手で諌め、スマホを持ち直す。

「他の人を当たっていただけますか?」

『ちぇっ。久成のこと自慢できると思ったのに・・・」

 そのあとに聞こえた言葉があまりに卑猥だったのと、目的が不純すぎたので、切った。彼女が一度切られたくらいでは折れない性格だと言うこともよくわかっていたので、通知オフにする。


 合コンという名のつくものに行って勉強になったことは数え切れないほどある。お持ち帰り、という言葉の意味や、帰りたくない、本意も実体験を通して初めて知った。けれど実験に全く役に立たない情報だったらしく、教授は合コンにおおよそ寛容的ではなかった。(大抵高校生の場合はカラオケボックスで行うことが多く、あまり広い音域がない僕に歌を歌うのは無理な芸当だった)最も僕の場合、うまく思考回路が回らなくなったという言い方が正しいかもしれないが、そのあと絶え間無く続く嫌がらせのせいで、ちょっとした鬱状態になったことがあるせいかもしれない。


 通知オフにしたはずなのに再び着信音がなり、不振に思ってスマホを取り出すと、陽一が隣の席で自分のスマホを開いて顔をしかめているのが視界に入った。たまたま着信音が同じだったらしい。陽一が通話を拒否するのを尻目に、僕はスマホをカバンの中に入れた。


「うがぁぁっ!しつけぇ!」

 五度目の着信音に、陽一がタブレッドを放り出してスマホを掴む。数分前と寸分違わぬ手つきで通話を拒否し、思案顔でスマホを顎に当てる。

「着信拒否にしておけばいいんじゃない?」

 最善策だと思った僕の提案は、陽一の引きつった顔によって壊された。

「瓦割りの勢いで脳天チョップされたくないだろ・・・?」

 そういえば彼女は空手の有段者だった。そこそこ運動神経のある高二の弟が叶わないとは、どんな腕をしているのだろう。

「逃げられないの?」

「逃げたら風呂入ってる時にきてゲンコツ食らった」

「恐ろしいお姉さんだね」

「ぶっちゃけあれは兄貴の方が良かったと思う。男だったらモテそうだし」

 陽一はガシガシと頭をかいて再びタブレッドに向き直った。陽一が最後の敵に一撃を食らわせたあたりで、またスマホがなった。必死な形相で攻撃を食らわせている陽一の邪魔にならないようにスマホを取り上げ、通話を許可する。


『久成だよね?ごめん、緊急で陽一に代わって!』


 彼女は僕の声を聞きもせずにそうまくし立てた。彼女の声にふざけているような節はなく、僕は了承の意を伝えて陽一にスマホを渡す。

「何?」

 陽一はラスボスに向き合ったままスピーカーにして通話を受けた。

『父さんが帰ってきた』

 陽一の手から滑り落ちたタブレッドが床にぶつかってぐしゃりと音を立てた。隣のデスクの人ですら振り返る音だったにも関わらず、陽一はタブレッドを見もせずにスピーカーを切って廊下へ出て行った。僕は隣のデスクの人に謝り、ひびの入ってしまったタブレッドを拾って机にのせる。画面には、全てのレベルをクリアした陽一のポイントが写っていた。


 僕は自分の財布を取り出し、中身を確認する。二人分ならいけないこともない。深くため息をついてから、近場の会席料理屋を検索する。食事に疎い僕でも聞いたことのある名前の店があったので、電話していつ空きがあるか聞くと、一週間後だと言われたので諦めた。本人にどこがいいのか聞いたほうがいいかもしれないと考えた僕は、検索のページを閉じて陽一が持ってきた研究室の資料を手に取った。パソコンにUSBを差し込み、建てられた当時の設計図と今の研究所内の構造を見比べる。もともと教授の実験室ではなかったせいか、僕の点検に使う部屋は古い設計図には記されていなかった。


 陽一は何かしらのツテがあるのか、全く作戦について話そうとしない。僕としても作戦の内容が脳内に組み込まれてしまうと教授に伝わる恐れがあるため、独断で行ってくれた方が都合はいい。が、流石にここまで何も伝わっていないと少し不安になる。


 失敗は許されない。


 チャンスはそうなんどもあるものではないのだ。きっとこれを逃せば、僕にチャンスはない。内蔵されたカメラもGPSもそのままに、実験終了までの期間をこれまでと同じように過ごすのだ。


 陽一の願いを叶えることも生き長らえさせることもできずに自分の無力さを呪いながら、死んで行くのを見届けることになるだろう。


 いや、僕が壊されるのが先かもしれない。何かエラーがおこれば使用済みの僕は処分されて、新しいアンドロイドが作られるのだ。僕のように虚しさと矛盾を抱えたまま、利用されて処分される。


 誰かがそれを止めなければ、研究員から研究員へと僕のデーターは引き継がれて行く。


 今月の領収書を全てスクラップブックに貼り終え、税務署の担当者に電話をしようとスマホを持って廊下へ出る。歩きながら登録されていた番号を押そうとしたところに、抑えた怒鳴り声が聞こえてきて足が止まった。


 紛れもなく陽一の声だった。

 少し様子を見ていたほうがいいと判断した僕は、スマホをポケットに差し込んで胸の前で手を組んだ。

 陽一は苛立った様子で廊下を行ったり来たりしながら顔をしかめていた。

「だからもういいって何度言ったらわかるんだよ?__頼むからこれ以上無駄金使わないでくれ」

 相手の怒鳴り声にスマホを耳から離し、陽一は深くため息をついて窓から空を見上げる。

「弁護士だろ?頭いいくせに事実から逃げないでくれよ。無駄なんだよ。ただでさえ仕事忙しいのに、これ以上体を酷使しないでくれ」

 苛立った声とは裏腹に、陽一の口元は苦しそうに歪んでいた。


「親父はその時間を一緒にいてくれようとは思わないわけ?」


 やけに感傷を纏った言い方だった。小さな子供が離れて行く親を呼び止めるような、縋るような声色で陽一は尋ねていた。


 どんなに強がろうが明るく振舞おうが、親の前では素直になるのだろうか。弱みをさらけ出せるものなのだろうか。

 僕は今まで見てきた陽一の性格からして、そうは思えなかった。

 目を細めて陽一の顔に焦点を合わせる。案の定、陽一の唇には歪んだ笑みが浮かんでいた。自分が父親だったらあんな息子は持ちたくないなと彼の父親に同情していると、陽一は突然大声をあげて笑った。


「嘘だよ。探してくれてありがと。感謝してる。治ったら海外旅行にでも連れてかなくちゃな」

 和やかな表情になって会話を終了させた陽一は、しばらく自分のスマホを見下ろしていた。和やかな表情が瓦礫のように崩れ落ちる。自嘲的なうめき声を吐き、目を閉じてスマホを額に押し付けた。


「嘘、か・・・」


 僕のマイクが拾えないくらい小さい声で、陽一は何か呟いた後、踵を返して僕が突っ立っている角を曲がった。そこに何かがいるとは思っていなかったらしい陽一は、僕の姿を見て飛び退いた。

「うわっ!・・・って久成かよ」


 ほっと息をついた陽一の顔が、見る間にこわばって行く。引きつった笑みを貼り付け、陽一は僕の方に手を置いた。軽く置かれた手にやたら力が入り、肩に食い込む。

「聞いてた、よな?」

 恐ろしく威圧的な口調だった。もし仮に見ていなかったとしても頷いてしまいそうな笑顔で、陽一は僕に詰問した。目が笑っていないとはこういうことを言うのだろう。


 僕は曖昧に首を傾げた。陽一は見かけによらず冷静で、激昂することもすぐに手を出してくることはない。まあ最も、すぐ手を出して許されるのは小学生までだが。


「どこから聞いてた」

 案の定平静を装った声で再び尋ねてくる。焦りや不安は、おくびにも出さない。ただでさえ人の感情の動きを読み取るのが苦手な僕は、陽一の中でどんな感情が合わさっているのかが全くわからない。故に、地雷を踏みかねない。


「ほとんど聞いてないよ」

 慎重に言葉を選ぶ。

「最後の海外旅行の下りだけ__」

「嘘だろ」

 ばっさり切り捨てられる。

「え・・・?」

「別に構わないんだけどさ」

「は?」

「親父が帰ってきたみたいだから帰るわ

 颯爽と僕の横を通り過ぎ、オフィスの中へ消えていった。僕は自分のスマホに表示されている税理士の電話番号と陽一が消えたドアを見比べ、スマホをポケットに落として後を追った。

「陽一!」

 荷物をまとめていた陽一は、僕を見て首を傾けた。

「明日は全部一任しちゃっていいの?」

 陽一は二の腕を曲げ、片手で軽く叩いた。

「まかせとけ。久成は実験室で待っててくれればいい」

「その言葉、信じるよ」


 明るいトーンで言うと、陽一は力強く頷いた。そして自分のデスクを愛おしそうに見つめ、一度手を置いてお礼の言葉を言い、「じゃあまた」と言って出ていった。


 僕は今日中に終わらせると決めた仕事を片付け、薄暗くなった帰路をたどった。高層ビルに包まれて湿気がこもり、そこに排気ガスが混ざるという最悪な空気の中を駆け足で進む。ビルの合間から見えるわずかな太陽は最後の光を力一杯放っていた。数分後には消えて無くなるだろう存在感を最大限に表していた。

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