取引

「久成、ちと休まんか?」


 隣のデスクからあくび混じりの声がして、僕は顔をあげる。浅黒い青少年の笑顔が、視界に写り込んで来た。椅子をぐるぐる回してつまらなそうに足を揺らしている。


 やかましい男子高生がいるが、ここは学校でも塾でもなく、最近建てられた東京の真ん中にあるオフィスビルのワンフロアで、衝立を挟んだ向こう側では自営業の人たちが生活をかけて真面目に仕事をしている。もとより僕たちのような子供は嫌な目で見られるところなのだから、うるさくしたら管理人に追い出されかねない。

 僕は人差し指を立てて彼を振り返った。


「僕はいいよ。この企画書を、あと3時間で送んなくちゃいけないから」

「んだよー、俺だけ休むなんて悪いことしてるみたいじゃん」

 彼は伸ばしていた腕を下ろし、ガシガシと頭を掻く。

「年度末に部活で会社休んだ人が、どの口で言ってるの」

 呆れた僕が彼を一瞥してパソコンに向き直ると、彼は心外だというように騒ぎ立てた。


「試合だったんだよ!ってかそれ、2年も前の話だろ。忘れろよ」

 騒がしいと周りに迷惑がかかる。僕はもう一度人差し指を唇に当て、ため息をついた。


 この騒がしい男子高生の名前は井上陽一。並外れた理解力と技術を持ち合わせているが、普通にみれば人懐っこくておせっかい焼きな、どこにでもいる体育会系男子だ。


「生憎僕は忘れるっていう能力を持っていないんだ。ごめんね」

 僕は自分の頭をトントンとついてうっすらと笑みを作った。忘却曲線がない僕にとって、2年前の記憶を持ち出すことは水道をひねって水を酌む事と同じくらい容易い。


 必要な内容であれば、一言一句違えずに諳んじることもできる。


「俺はその能力ばっか高くてさぁ。また社会どん底。助けて」

 学校でやっているらしきプリントと先ほどお願いしておいた企画書を、僕の机にぶちまけてくる。大抵のプリントの右上に、努力しなさい、説明を聞いておけなどと、ご丁寧に赤ペンでコメントがつけられている。生憎、僕には縁のなかった言葉だ。


 丁寧な先生ではないかと思いつつ、僕はプリントを集め、陽一に突っ返した。


「僕は休憩しないって言ったよね?」

「勉強は休憩に入んないの。その企画書俺も手伝うから!」

 僕にとって勉強はただ覚えたメモリから引き出すだけの単純作業で、仕事に入るわけがない。僕は深くため息をついてみせる。


「この調子でいけば、2時間25分33秒で終わる。34分27秒社会の勉強を手伝うよ」

「先に教えてくれ」

 僕は渋々陽一の方に向き直り、いくつか企画書のミスを指摘する。年齢で考えると陽一の文章力はかなり下手な部類に入る。パソコンの変換を使っているにも関わらず誤字があるのだから、かなり重症だろう。ただ流石にそれだけだと一瞬で終わってしまう可能性があるので、経理の計算ミスを上乗せする。


「これ直してきたら教えてあげる」

 一般的な社会人の脳の処理速度を平均すると、このミスを直すのに2時間以上かかるはずだ。いくら陽一の処理速度が速いとは言え、その間にある程度終わらせることができるろう。再びパソコンに向き直り、企画書の作成に取り掛かったところで、陽一の手が目の前に突き出され、左右に揺れた。


「終わったぞ。手伝って」

 そうだった。

 忘れていた。


 彼の脳はマリアナ海溝よりもはるかに深く、この僕の能力を持ってしても計り知れずに、未だ謎に満ちている。中卒のできない新人と並ぶときもあれば、大手企業のトップですら舌を巻く驚異的な完成度を見せつけてくることもある。


「・・・完璧。君はなぜその脳を勉強に使わないの?」


 僕は確認し終わった書類を机に置き、純粋に疑問に思ったことを訪ねる。

「知るか。なぁ、テスト勉強!」

 答えてくれる気は少しもなさそうだった。

 僕はキーボードから手を離し、水分を補給する。

「はいはい。じゃ、10分休憩」


 僕はたまたま隣の人が借りてきていた長机を引っ張ってきて、陽一と向かい合わせに座った。どこがわからないのか聞くと、陽一はオリエント付近についてごちゃごちゃと言い出す。


「ああ、アッシリアか。アッシリアはアッシュル・バニパル王のときに絶頂期を迎えて、メソポタミアからシリア、エジプトも支配したって言うのは授業でやった?」


 曖昧に首をかしげる陽一に、学校へ何をしに行っているんだと皮肉りたいのをこらえて、手にしていたマーカーで教科書に線を入れる。こういうのは自分でやった方が定着するのだけれど、その説明の時間が面倒臭いし、どうせ陽一は引こうとしないだろう。


「・・・続ける。アッシリアは中継貿易に力を入れていた。割と栄えていたんだ。でも、強権的な軍事多声と税の取り立てが反発を招いて、50年で滅びてしまうんだ。」


 ふと顔を上げると、陽一はボケっとした表情でシャープペンをくるくる回していた。


「ねえ、僕は必死で説明してあげてるんだけど、聞いてる?」

「んぁあ、アッシリアは世界最後の帝国で・・・」

「聞いてないね。世界最後の帝国ってなに。何か考え事?」


 軽く首を縦に振り、すまん、と両手を合わせた。基本的に彼は良くも悪くも考え事をしないタイプだ。人の話を聞いていないなんてことは、ほとんどない。


「いやぁ、たまたまそこを美女が通ったからさ、あの人どの階なのかなぁって」


 前後撤回。陽一はしょっちゅう妄想に頭を支配されている人だ。


「そんなくだらない理由で僕の授業を聞いていないんだったら、いますぐやめよう。時間の無駄だ」

 陽一は席を立とうとする僕にしがみついて、ごめんと繰り返した。

「くだらなくねーよ。めちゃくちゃ重要なことだろ?綺麗な人だったんだって!!少し元カノに似てた気が・・・」


「本当は社会を教えて欲しいんじゃなくて、元カノに対する未練のグチを聞いて欲しいだけじゃないの。十分それに費やしていいの?」

「え〜聞いてくれんの?好きでもない女の魅力を語られるほど辛いことってないと思うけど」

「圧縮作業ですぐ忘れられるから大丈夫だよ。君から彼女について語られた日は、早く家に帰って圧縮作業してたし」

「圧縮作業ってその一言を普通と同じ人くらいにとどめておくことだよね!?それってひどくない?俺が会社休んでたことは覚えてんのに」


 僕は陽一のプリントに目を通しながら、再びため息をついてみせる。


「僕は起こった出来事自体を忘れるってことはない。そう言う能力のない人間の脳をモデルにしてるからね。でも、それを縮めることはできる。今後のために入らないと思った能力は最低限に縮める。君の彼女についての話は、『陽一から非常に不快なノロケ話を聞いた。』と言う19文字にまとめられてる」


 陽一が椅子の背に両腕を乗せ、頬をぷくっと膨らませる。

「うわ、最低。非常に不快とか、なんかめっちゃ悪いことしてるみたいじゃん。普通はしなくていいんだろ。余計にムカつく」

「ムカつかれる要素はないよ。君だって僕が仕返しに、自分に告白してきた女子の人数をベラベラ喋っていたら嫌そうだったじゃないか」


「一言一句違えずに覚えてるよ?」


「なんで社会は覚えられないの?逆に怖いよ」

「あれは殺意が湧いてきてね・・・あまりにもムカつきすぎると人は忘れられなくなるみたいだ」

 陽一が冷ややかな笑顔でつぶやき、僕の鈍い危機察知能力でさえ警報を鳴らすほど不気味な動きでゆらりと立ち上がった。そして本当にあの日僕が言った言葉を諳んじ始めた。


「君には彼女がいたじゃないか」


 言い訳がましく言う僕に、陽一は恐ろしい形相を向ける。

「それと告白された人数は違うんだよ。しかも全員振ったとかあり得ない」

「申し訳ないと思っているよ。でも学校では陽一以外僕を人間だと思っていたからさ、近づきすぎてバレちゃ困るんだ。と言うかこの雰囲気、本当にグチを聞く感じ?」


「だってさ、まじで俺にはもったいないくらいの美少女だったんだぜ?」

「君の下ネタついて聞いてる時間はないんだけど。そんなに未練タラタラならより戻したら?」

「いやぁ・・・もう俺恋とかできる感じじゃねーし」

「じゃあずっとぐちぐちいうのやめてくれる?」

「それはいう」

「うざいよ、そういうの」

「恋なんてそんなもんだって」

「ほんとなんで別れたの?未練ありすぎじゃない?」

「未練はないよ。それはお前も知ってるだろ。いい人すぎて、申し訳なくなっちゃったからだってば。このまま付き合ってても傷つけるだけだったし?」


 そう言ってヒョイっと首をかしげる。

「確かにね。初めて泣かれたんだっけ?」


 責めるような声が出たことに自分で驚く。陽一は眉をハの字に下げ、自分のシャーペンを愛おしそうに撫でた。


 陽一の彼女には僕も面識があった。紹介されたわけではないけれど、中学三年生の時に同じクラスで、何度か話したことがあった。いつも輪の中心で和やかに笑っている印象があるストレートのロングでノーメイクの、清潔感にあふれる彼女だった。当時の僕は極力女子と接点を持たないように行動していたので、それほど多くを知っているわけではない。けれど遠目に見ていてもなかなか好感の持てる人であったことは確かだ。


 陽一はムッとした顔におどけた表情を加えて肩をすくめた。

「しょうがないじゃん。好きなやつに辛い思いさせたくないから」


 未練がないというのは嘘なのだろう。


 ただの強がりだ。でなければ元カノにもらったシャーペンをずっと使っているはずがない。


「もうそろそろ十分たつよ」


 かける言葉の見つからなかった僕は腕時計を陽一に見せ、立ち上がってデスクに戻った。

「んじゃぁさ、本当の考え事の理由、ネタバレしとくよ」

 少しだけ嫌な予感がした。

 陽一の声はいつもに増して明るく、秤の上に載った重りが一つ外れたような軽い調子だった。そしてきっとその天秤は、減らしてはいけない方の重しを減らしてしまったのだろう。


 席を立って僕の後ろに回った陽一は、プリントの間に挟まっていたファイルを抜き、僕の前においた。嫌な予感は、的中していた。


 僕はそのファイルから一枚の紙を取り出し、ざっと目を通した。

 陽一が僕の肩に手を置き、顔を覗き込んできた。


「新しい結果だ。2年縮んでた。一気にこんなに縮まっちゃうとさ、なんか虚しくなっちゃって」


 突然、水滴が僕の目から通っと流れ落ち、その紙にしみを作る。陽一はさして驚きもせず、ゲームをクリアしたかのような晴れやかな笑顔で僕に告げ

た。

「タイムオーバーまで、あと2年だ」


 人の余命の短さを知った時、どんな反応を取るのが正解なのだろうか。


 泣くのが正しいのだとすれば、僕の感情のプログラムはよくできているのだろう。泣いていても、奥底では何も感じていないという不思議な感情は、人でも体験することがあるのだろうか。どこか冷めたものがあって、それが常に僕を引き止めている。


 表面上だけの感情でも、人と理解し合い、通じ合うことはできる。むしろ身体の内側を焦がすような怒りや、胸が痛くなるような苦しみを味わう必要がないのは、楽だ。感情で決断を誤らなくて済む。


「何があったの?2年も縮むなんて」

「わかんね。って、泣くなよ。俺がわざわざ明るく言ってんのに」


 不貞腐れたような声で言って、学校のプリントを回収した。

「しょうがないよ。こういう風にプログラムされているんだから」


「ひでーな。俺がつられるっての。親父はまだ諦めきれないらしくてさ、病院に泣きついてるよ。もう無理だってわかってるんだろうに。どうせ死ぬ息子にそんなことしたって、なんも帰ってこないっての」


 陽一はカラカラと笑い声を上げ、僕を振り仰いだ。彼は自分の死を知った時から、いつも朗らかに笑い、寂しそうな表情を見せない。

夢を語らなくなった陽一は、常に薄っぺらい外面の笑みを引き連れてきた。決して将来の話をしなくなったことと引き換えのように。



「もし成功したら、君はどうしたいの?」



 僕たちは、取引をしている。例えるなら、そう、ファウストの悪魔と老教授のように。僕たちはどちらも悪魔であり、老教授だ。


 僕は陽一を少しでも長く生かすために、日々研究を重ねている。彼は僕と同じ種類の人間になりたいと言った。プログラムに、作られた脳。作られた体。人間がアンドロイドになったという実例はない。見返りとして僕は陽一に自由を求め、陽一は僕のプログラムを書き換えようとしている。それが未完全のまま陽一がいなくなれば、僕は暴走したアンドロイドとして、壊されるだろう。失敗した時、作りかけの僕は壊れる。陽一も死ぬ。僕たちの間にあるのは友情や信頼関係だけではない。お互いの命を相手に預けてしまっている恐怖が、なにをしようとなにを言おうと僕たちを引き剝がさない。


「性格や脳がそのままなら、優秀な大学行って、いいとこ就職して、親父と姉貴に尽くしたいなって思う」



 叶わないことを前提として考えているような口調だった。

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