第4話もつれる糸

 本能寺の変で織田信長おだのぶながが爆死を遂げた後、

安田作兵衛によって生け捕りにされた森おらん森蘭丸もりらんまる)は

七日間もの間、町はずれのあばら家に監禁されていた。

逃げ出せないように体を麻痺させる強力な術をかけられていたが、

時間の経過とともに少しずつその効果が薄れていった。


「おや、足の先が動かせるようになったぞ。

 だがまだ本調子ではないから用心して

 もうしばらく動けないふりをしていよう」

と考えたお乱は横になってじっとしていた。

調子に乗った作兵衛はいやらしい手つきで

ぐったりして抵抗しなくなった美しい獲物の

体をまさぐった。

 借りてきた猫のようにおとなしい

お乱の様子を見てすっかり油断した

作兵衛は酒に酔った勢いで

べらべらしゃべり始めた。


「噂によると明智のオッサンが山崎で

 羽柴はしばの猿オヤジにぼろ負けしたあげく

 落ち武者狩りにあって竹槍で刺し殺されたってよ。

 あんた、明智やつに憧れてたそうだが、

 あの男は普段は聖人君子面してるくせに

 実は極悪非道な野郎でな、本能寺に向かう途中で

 瓜畑で野良仕事をしていた三十人もの百姓どもを

 皆殺しにしろとおれに命じたんだぜ。織田方の間諜かも

 しれないとか何とか理由をつけてたが、

 あれはただ単に誰かをなぶり殺したかった

 だけだとおれにはお見通しさ。まったく

 胸糞が悪いったらありゃしない。

 おれはあんたにチン切りされたおかげで

 例の負け戦に出れずに命拾いしたけどな。

 それにしても織田信長おだのぶながが自爆しちまって

 首が取れなかったのは残念だったけど

 おまえはお、れ、の、も、の」

と歌うように呟きながらお乱の唇を奪おうとした作兵衛は

目を閉じたまま顔を近づけた。ところがその直後、


「気色悪いんだよ! このど変態が!」

と絶叫するなりお乱はすでに自ら刺し傷を負わせた

作兵衛の股間に強烈な蹴りを入れた。


「痛い! 痛い!」

とわめきながらもだえ苦しんでいる作兵衛から

刀を奪い取って殺してしまうと、お乱は

これからどうすべきか頭を悩ませた。


「上様がこの世を去った今、おれはどうやって

 生きていけばいいのだ。生まれ育った美濃の金山に

 帰って母や末の弟の仙千代せんちよに一目会いたいが、

 主君を見殺しにして自分だけおめおめと

 生き永らえたと世間はおれを非難するだろう。

 臆病者だと陰口を叩かれて敗残者として生きる

 くらいならいっそのこと……」

と思いつめたお乱は追い腹を切ろうとして

刀を握り締めた。その直後、

猛烈なめまいに襲われて意識が途切れたのだった。



 この世とあの世の間に広がる真の暗闇の中で、

一人の男が運命の歯車によって操られている

巨大な糸巻きを逆回転させていた。この男の正体は

悪魔と化した堕ちた神であり

織田信長の怨霊おんりょうと取引して

時間を巻き戻すことを繰り返していたのだ。


「あーあ、また糸がこんぐらがっちまった。

 いい加減、うんざりしてきたよ。

 何度も同じ時間を行きつ戻りつして

 自分の都合のいい展開に導こうとするなんて

 浅はかなのにもほどがあるぜ。とはいえ、

 愚かな人間どもが何をやらかすか

 観察するのに勝る楽しみはない。現に

 一周目で森お乱を討った安田作兵衛がどういうわけか

 スケベ心を起こして乱を生け捕りにして

 逆に自分がられちまったじゃないか。

 スケベ心が命取りってか! ガハハハッ!」

 この長い独り言が終わると同時に時の巻き戻し作業は完了し、

時は再び天正十(1582)年の六月二日の未明に戻った。

 

 ところでわかりきったことだが

信長の愛人(男)になっている小姓はお乱一人ではなかった。

その一人である十五歳の小倉松寿おぐらまつじゅは恋敵であるお乱に

対する嫉妬の思いを燃やしながら、

京の町家の一室で眠れぬ夜を過ごしていた。

松寿は信長の愛妾であるおなべの方の

連れ子で義父である信長に小姓として仕えていた。

馬廻衆うままわりしゅうである彼は今回の上洛で主君の供をしてきたが

主君がいる本能寺ではなく町家に泊まっていた。

松寿は数日前の義父とのやり取りを思い出して

一人、ため息をついた。その夜、

久々に主君と枕を並べた松寿は目を潤ませながら


義父上ちちうえ……」

と震える声でつぶやいたが、


松寿まつじゅ! わしのことは上様と呼べ!」

と冷たくあしらわれて悲しくなってしまった。


「二人きりの時ならいいではありませんか?」

と不平を述べる松寿に対して信長は


「だめだ、だめだ! おまえだけ特別扱いするわけにはいかぬ!」

と取り付く島もなかった。


「特別扱いといえば、森乱殿のことは

 どうなのです? 上様はあの方に

 すっかり心をささげてしまわれておりますが

 あの方は果たして上様のことを……」


「生意気言うな! おまえが鍋の子でなければ

 罰を与えてやりたいくらいだ。

 あれはわしの切った爪が一つ足りないと言って

 床に這いつくばって探すほどわしのことを

 気にかけておるのだぞ! それほど深く

 わしは愛されておるのだ!」

と自信たっぷりに信長は言い放った。

この爪切り事件の後、信長はますます

お乱を夢中で愛するようになった

ことを思い出して松寿の心はいっそう

深い悲しみに閉ざされた。


「実はあの後、 厠の中で乱の奴が

 『ギャハハハ、チョロい、チョロい!』って

 言いながら大笑いしてたのを聞いちゃったんだよね。

 言っても信じてくれないだろうし、

 逆にこっちが怒られるだけだから黙っていたけど」


 何とか寵愛の差を逆転するチャンスはないものかと

思い悩むうちにウトウトしだした松寿は

燃え盛る本能寺に真っ先に駆けつけて

自分以外の誰も知らない秘密の通路から

脱出に導いた自分が主君に一番愛されるようになる

という夢を見た。

 闇夜に響き渡る叫び声で目を覚ました松寿は

外に飛び出した途端、本能寺の方角に火の手が

上がるのが見えたので驚愕した。


「なんと恐ろしい! 上様の身に何かあったに違いない!

 正夢になってほしいようなほしくないような」

 こんな矛盾した思いを抱えながら、松寿は 

本能寺目指して走り出した。



 夜更けに外から聞こえる騒がしい声で

目を覚ましたお乱はお堂の天井を見つめながら

先ほどまで見ていた悪夢を思い出していた。


「恐ろしい夢だった。この寺が焼き討ちされて、

 上様が自ら死を選ぶなどあり得るのであろうか?

 そしてこのおれは思い出したくもないほど

 おぞましい目にあわされて……」


「乱、起きているか?」


「あっ、上様、お目覚めですか?」


「ここは危険だ。これから明智が攻め入ってくるのだ。

 今すぐここを出れば間に合うはず……」


「では上様も同じ夢を!?」


「あれは夢ではなく現実だ! 前回は不意を突かれて

 負けてしまったが今回はあらかじめ分かっている以上、

 わしらにとって有利なはず」


 そう言い終わらないうちに、屋外でさっきよりずっと

すさまじい叫び声と物音が起こった。明智勢による

襲撃は皆が起床を済ませた午前六時頃だったはずなのに

どういうわけか今度は未明に発生してしまったのだ。


「ちくしょう! なんてこった! 

 前回より時間が早まっている!

 お乱、早く支度をしろ!」


 夕べさんざん痴態を繰り広げた後そのまま寝てしまったので

二人とも丸裸で下帯ふんどしが行方不明になっていた。

布団をひっくり返しても見つからないので

あきらめて地肌の上に袴をつけた。

 そのとき、二人の目の前に安置されていた

仏像が突然動き出して横にずれたかと思うと、

台座の下にぽっかり空いた穴の中から

小倉松寿がぬっと姿を現したので

主従はそろって驚いた。


「上様、ご無事ですか?」


「松寿! どうしてここに!?」


「裏の林につながる秘密の通路から入ってきました。

 宿の主人からここの坊主が夜な夜な隠し通路から

 情婦を引き入れているという噂を聞いたので

 刀で坊主を脅して白状させたのです」

 夢で見たのとまったく同じ場所に

隠し通路があったなどと説明したところで

気味悪がられるだけと思った松寿は

作り話をしてごまかした。


「坊丸と力丸にも知らせなければ」

と言いながらお乱はあたふたと弟たちを起こしに行った。


 準備が整うと、信長は年若い小姓の集団とともに

仏像の台座の下にある隠し通路の中に消えていった。

その様子を物陰に隠れて見ていた

一人の侍女が敵軍のひしめく中に

全速力で駆けていった。彼女の顔は

横暴な主君に対する憎悪で鬼と化していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る