第36話:約束

「うわぁ!」


 とつぜん耳元でけたたましい音が鳴り響く。

 朝から一体何事だ!? と思い慌てて飛び起きると、音源は枕元の目覚まし時計だった。


「あぁ、そういうこと……」


 昨晩の事を思い出しながら目覚まし時計を止める。

 セット自体は欠かさずしているのだが、いつも目覚ましが鳴る前に起きてしまうので、実際にこのやかましい音を聞く事はないのだ。


「はぁ、着替えるか……って寒っ」


 今日は終業式。

 外を見ればうっすらとではあるが雪が積もっている。

 寒いのも当然である。

 のそのそとベッドから降り、制服に着替える。


 リビングへ降りると、母親が仕事へ行く準備をしていた。

 母親は最近派遣先で正社員に登用されたらしく、いつも忙しそうにしている。

 だが、遊び歩いていた時よりも、遥かに充実した顔をしている。


「いってらっしゃい、母さん」

「あら、今日は早いのね。いってきます」

 

 入れ違いで母親は出て行ってしまった。

 あれだけ忙しそうにしているのに、朝食はばっちり用意されている。


「母さんに足を向けて寝られないな……」


 まだ暖かい朝食を一人で食べる。


 なぜだろうか。

 一人で朝食を食べる事に、とても寂しさを感じる。


 そんな事は決してあり得ないはずなのに、海翔にはもう一人兄弟がいた気がするのだ。

 

「……まぁいいか」


 考えても分からない事はそれはきっと分からなくてもいい事である。

 着替えに時間を取り過ぎたのか、あまり時間は無い。

 残りを急いでかきこみ家を出た。




 相変わらず雪が降っている路地を一人歩く。

 朝も早いので積もった雪にはまだ誰の足跡もついていない。

 この美しい真っ白の絨毯に自分が初めて足跡をつけるという行為は、なんだか背徳感を含む快感があるような気がする。


「帰ったら久しぶりに雪だるまでも作ってみようかな。あいつも喜ぶかな……。ってあいつって誰だ?」


 海翔をまた言いようの無い孤独感を襲う。

 胸にポッカリ穴が空いていて、そこから空気が際限なく抜けていく感覚。


(おかしいな。兄弟なんてこれまでいなかったはずなのに。まるでずっと過ごしてきた兄貴が痕跡もなく消えてしまったような喪失感だ……)


 ズキンと走る痛みを抑えるように、胸に手をやる。


「よっ、朝から何しょぼくれてんだ?」


 後ろからとつぜん声をかけられたので、ゆっくりと振り返る。

 そこには友人である慎吾が不思議そうな顔で立っていた。


「やぁ慎吾、何でもないよ。それより雪が積もってるのによくこけないね」

 

 慎吾は雪が積もっているのに、普段通り自転車に乗っていた。

 凍っている場所もあるだろうに、よくこけないものだ。


「サッカーで鍛えたこの脚力ならたとえ雪だろうと氷だろうと、どこでも乗りこなしてみせるさ」


 慎吾はスポーツジムのトレーナーの様な笑顔を浮かべ、ビシッとグーサインを出した。

 キラリと光るがさらに爽やかさをプラスする。

 

「サッカーってそんなスキルまで鍛えられるんだね。知らなかったよ」

「おうともさ。海翔、お前もそろそろどうだ? 部活の一つくらい始めてみてもいいんじゃないか?」

「そうだね……考えておくよ」

 

 海翔はそう言って笑うと、遠くに見えてきた校舎をボンヤリと眺める。


「どうしたんだ? あいつ……」


 どこか心あらずといった雰囲気を漂わせている海翔の背中を、慎吾は不思議に思いながら追いかけた。


 

 いつも通り余裕をもって教室に着いたので、海翔は自分の席でぼんやりと外を眺める。

 朝起きてからずっとモヤモヤする。


 なにか大切な物を失った事は分かっているのに、その大切な物が何かは分からないという矛盾。

 その矛盾が余計に喪失感を増大させる。


「――君。おーい、中川君」

「あぁごめん。おはよう、遠藤さん」


 自分を呼ぶ声が聞こえたので振り返ると、そこには詩織が立っていた。

 朝から生気のない目で外を眺めていた海翔を心配そうに見つめている。


「大丈夫? 風邪でも引いた?」

「いや大丈夫だよ、ありがとう」

「本当に? なにか悩み事があるなら言ってね、私なんでも力になるから」


 詩織はそう言って小さくガッツポーズを取る。

 なんとも頼もしい限りだ。


「ありがとう、遠藤さん。でも本当に大丈夫だから……」

「おやおや、本当にそれでいいのかな? 中川君。詩織がここまで言うのは中川君だからですよ?」


 そう言って詩織の影から、小柄な少女が出てくる。

 その少女は口元に手を当てながらニヤニヤと、海翔と詩織を交互に見ている。

 

「ちょ、ちょっとなにを言ってるのかな!? 葵!」


 詩織は顔を真っ赤にして葵と呼ばれた少女をポカポカと叩いている。

 そして周りのクラスメイトはそんな様子を微笑まし気に見ているのだ。


 しかし海翔はそんな詩織と葵を見て気が気ではなかった。

 海翔は今目の前にいる葵という少女の事は全く知らなかったのだ。

 

 教室で談笑しているクラスメイトの名前は全て覚えている事から、海翔はそもそも彼女の事を知らないという事は理解できた。


 しかしそんな事を理解できた所で得られるのは、なんで自分だけが知らない世界へ放り込まれてしまったのかという恐怖感のみだった。

  



 HRが始まり、担任がこれからの予定を説明している。

 さっき気になっていた事を隣に座っている慎吾に聞く。


「ねぇ、慎吾。あの葵って言う子って転入生だっけ」


 海翔が出来るだけ小さい声で聞くと、慎吾は信じられないといった表情を浮かべた。


「は? 何言ってんだ。夏川葵。遠藤と中学からの親友で、今年から同じクラスになったって大騒ぎしてたろ、春に。まさか忘れちまったのか?」


 呆れ顔で慎吾は言った。

 きっと嘘はついていない。

 だが、海翔にその記憶は全くない。



「またね~中川君!」


 詩織、葵とはいつも校門の前で別れる……らしい。

 モヤモヤしながら路地を歩く。


 クラスメイトがとつぜん一人増えた所で実害はない。

 しかし朝から胸にべったりと張り付いている疎外感と、知らない少女。

 日常に落とされた非日常という影は際限なく広がっている。



「あぁ寒っ」


 寒さに震えながら家のドアを開ける。


「ただいま……って言っても返ってこないか」


 海翔の言葉に返答はない。

 母親は朝から仕事に出ていて帰ってくるのは夜である。

 そんな家に話しかけても誰からの返事も返ってこないのは当たり前である。


「こんな時は……コーヒーでも淹れたら少しは気がまぎれるでしょ」


 マグカップを取りにキッチンへ向かう。

 多少の悩み事なら暖かい飲み物を飲んでリラックスしたらいつの間にか消えてしまうものだ。


「……うん? なんだこれ」


 食器棚からマグカップを取ろうとしたとき、見知らぬ赤いマグカップを見つけた。

 こんな赤いマグカップは、家族のだれも使ってはいない。

 それどころか、昨日までこんな物があったのかと気づかなかったくらいだ。

 不思議に思いながらも、なんとなくマグカップを手に取る。


「ッ……!?」


 マグカップを手に取った瞬間、無数の記憶が滝の様に流れ込んでくる。

 これまで起こった事。

 何回も繰り返し、クロウを勝利へ導いたこと。

 そして、限界を迎えた海翔の代わりに戦ってくれた名も無い彼の事。


「どうして……。どうして僕はこんなに大切な事を忘れていたんだ!」


 とめどなく涙が溢れてくる。

 マグカップを抱え込み、その場でうずくまってしまう。


「クロウ、君はどこまで不器用なんだ……」


 クロウは海翔から天使の力を抜き取ってくれた。

 その時記憶だけ残す事だってできただろう。

 しかし彼はそうはしなかった。


 あの戦いはつらい事も多かった。

 だからこんな記憶は俺ごと消した方が良い。

 彼はそう思ったのだ。


『うん、待ってる。君が帰ってくるまで、ずっと。だから……いってらっしゃい!』


(そうだ。僕は約束をしていた。あの笑顔に僕は約束をした。必ず帰ってくるって)


「行かないと……」


 反射的に家を飛び出し走り出す。

 詩織も思い出したかは分からない。


 だけど、そんな事考えるよりも先に足が動いていた。

 目的地はクロウとソウが決着をつけたあの丘だ。


「はぁ、はぁ」


 肺は今にも破裂しそうだし、足はちぎれそうだ。

 だが、前へ進む足は止めない。

 海翔は一秒でも早くあの丘にたどり着かなければならない。

 彼女との約束を果たすため。


 丘の前の長く、大きな坂を何度もこけそうになりながら登る。

 息が苦しい。

 呼吸ができない。

 心臓はいつ破裂してしまうか分からないほど、激しく脈打っている。


「着いた!」

 

 フラフラとした足取りで丘の展望台へ入る。

 酸欠で若干歪む視界で、周りを見渡す。

 太陽は真っ赤に燃え、もう数分で沈んでしまうだろう。


「海翔君!」


 展望台の最奥、そこに詩織は立っていた。


「詩織!」


 海翔は詩織に駆け寄る。


「海翔君……!」

「あの時の約束を守りに来た」


 詩織は「うん」と頷いて海翔の目をジッと見つめる。

 これが奇跡と言わずなんというか。

 詩織もあの時思い出したらしい。


「詩織、君の事が好きです」


 詩織はあふれ出す涙に反射する光に負けないくらいの眩しい笑顔を浮かべた。

「うん、私も。海翔君」


 海翔は詩織を強く抱きしめる。

 もう絶対に忘れたりはしない。

 そう決意を込めて。


「詩織」

「海翔君」


 ジッと二人は見つめ合い、海翔は優しく自分の唇を詩織に合わせた。


 実際に流れた時間は半年にも満たないのだろう。

 しかし海翔にとっては永遠にも感じたあの世界を乗り越えた先が今なのだ。


 今海翔の胸で子供の様に泣きじゃくっている詩織が愛しくない訳がない。

 熱い抱擁を交わす二人を、夕焼けが優しく照らしていた。





「全く、新しい神様は早速人使いが荒いな。人使い、いや天使使い?」

「うるせぇ。死んだ人間一人くらい誤魔化せないで何が神だ」


 神様と呼ばれた男はぶっきらぼうに言った。


「……さみしい?」

「別に……。俺とあいつは結局住む世界が違うんだよ」


「相変わらず不器用だね君は。安心してよ、君には俺がいるだろ?」

「ああ、そうだな。相棒」


 神が悪人顔で笑うと、天使は満足そうにどこかへ消える。


 ここは神の間。

 神がいたからそう呼ばれたのか、そう呼ばれたから神がいるのか。

 どっちが先かは分からない。


 その空間に存在しているのは一人の男のみ。

 世界の管理者。

 新しき神――クロウのみであった。

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セブンカラーズ 種田自由 @tanedaziyuu

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