1-53 決着
「あ……が……ぐぅううう……!」
ジンを打った左腕が、形容し難い激痛を訴えてくる。
見なくても分かる。左腕は完全に潰れた。先程過剰に供給された力を一点に集めて打った代償が、これだ。
しかし、それでも最後の時間稼ぎをすることは出来た。
「……ごめんね、ジン。勝負はキミの勝ちでいい。それでもボクは」
――巫女を殺して、キミを救う。
そしてフィリアは、自分が使える唯一の法術を起動させた。
それはフィリアだけが扱える、マナの揺らぎのない完璧な転移術。肉体に相当な負荷が掛かり、一度使えば十分のインターバルが必要という使い勝手最悪のものだが、歩く力も残っていない今となっては、この法術を扱えてよかったと、心の底から思う。
残る全ての何もかもを出し切り、巫女を、アリサ・ブラッドを殺す。
あの子を、あの少女を、自分を救ってくれた大恩人の、あの少女を。
「…………ッ!」
もしかしてとは思っていた。
創星樹の巫女が紅い髪をした忌み子だと聞いたときから、胸をざわめかせる嫌な予感が途切れることはなかった。
そしてスカルホーンでアリサを見てしまったとき、その予感は確信と絶望となってフィリアに襲い掛かった。
『あ、の……! 私、アリサって、言います。あなたの、名前は……?』
あの子が、巫女だった。
あのとき自分を助けてくれたあの少女が、いつか恩を返したいと感謝し続けていた大恩人が、殺さなければならない巫女だったのだ。
どうやら、神様とやらは何処までも自分のことが嫌いらしい。
フィリアにとって掛け替えのないこの二つの存在を、天秤にかけろと。
「…………ははは。上等だよ」
覚悟のままにフィリアは転移を発動し、アリサの眼前へ移動する。
転移の代償が全身を襲うが、その苦痛に顔をしかめる時間すら惜しい。
折れた剣を鞘から抜き、掲げる。その動作をするので精一杯だったが、後は振り下ろすだけだ。
「さようなら、アリサちゃん。恩を仇で返すことになってしまって、本当にごめんね……」
アリサの意識が戻っていないのが、せめてもの救いだった。
これでこの子は、僅かな苦痛を感じることなく逝くことが出来る。
だが、
「……ぅん……」
さっきまで目を閉じていたアリサが、微かにそう唸る。
最悪のタイミングだった。眠ったままであれば、まだ抵抗されることもなかったというのに。
もしアリサが戦えるまでに回復していたのなら、フィリアに勝ち目はない。
完全に意識が覚醒する前に止めを刺そうと、フィリアは急いで剣を振り下ろし――
「フィリア……さん……?」
誰も知らない筈の名前を呼ばれたのは、そのときだった。
◆◆◆
世界が揺れるような激しい震動で、目が覚めた。
視界は酷く霞み、耳鳴り音しか届けない聴覚は意味を為さず、カサカサに渇いた喉では擦れ声を出すことしか出来ない。
霞んだ視界の奥では、誰かがこっちを見下ろしている。
朧げになった世界では相手の輪郭は分からず、精々分かるのはその人を構成する大まかな色だけだった。
白み掛かった肌は、透き通るように綺麗で。
純白の髪は、初雪のように銀色に煌めいて。
その黄金の瞳は、本物以上に輝いていている。
そして後は、大量の赤。その人から流れてくる、真っ赤な色。
――ああ、そっか。これ、夢かぁ。
きっと夢だ。そうに違いない。だってこれ、あの日の景色そのままだから。
あの人はこんな感じで、あの日河岸で倒れてた。
『あ、の……! 私、アリサって、言います。あなたの、名前は……?』
そう。そうやって、私はあの人の名前を訊いたんだった。
『ん? ボクの名前? あるよ。大切な人に付けられた、とっておきの名前がね』
あの人はそのことを訊かれると、とても嬉しそうに答えてくれた。きっと、その名前が、それを付けてくれた人のことが、本当に本当に大好きだったんだろうな。
『ボクの名前はね――』
「――フィリア……さん……?」
つい懐かしくて、気付けばその人の名前を口走っていた。
視界の奥の人が、驚いたようにそのシルエットを揺らしている。
「やっと、逢えた……。ずっと、ずっと、あなたに逢いたかった……」
本当は、実際にあの人に逢えてから伝えようって、ずっと口に出さずに溜め込んでだけど、夢の中くらい、別にいいよね。
「私、あの日から髪、切ってないんです……。あなたに褒められたのが嬉しくて、ずっとずっと伸ばしたままで……」
綺麗な髪だと褒めてもらったあのとき、私がどれだけ嬉しかったか、きっとあの人には分からない。精々、挨拶程度の軽い言葉だったんだろう。
「あれから私、ちょっとだけ強くなったんですよ……。男の人が相手でも、喧嘩は負けなしなんです……。それに、あのときは、フィリアさん一人治すのが精一杯だったけど、今では沢山の人を、治せるように、なったんです……」
あなたに褒めて貰いたくて。あなたのくれたあの言葉を、もう一度聞きたくて。
頬に落ちた水滴がゆっくりと伝って、口の中に入っていく。
塩っぽい、しょっぱい味がした。
「……あれ、フィリアさん……泣いてるんですか……? また、怪我したんですか……? しょうがない、人です……。また私が、治してあげます……。凄いんですよ……私の治療……。だから……」
その先を言い掛けて、少しだけ躊躇う。
こんなこと言ったら、図々しい子だって、思われるかな? それは嫌だな。すごく嫌だな。
それでもどうしても言いたくて、恐る恐る私は口を開く。
「だから、そのときまた、褒めてください……。頭を、撫でてください……。あの温かい手で、もう一度……」
それを言い終えると、何だかまた視界が暗くなってきた。
視界が完全に真っ暗になる寸前、目の前にいるその人がモゾモゾと動いて、その手を私の頭に乗せてくれた。ゴシゴシと、少し乱暴に撫でてくる。
ちょっとだけ痛かったけど、その手は本当に温かくて、優しかった。
そして、目の前が真っ暗になるのと同時に、意識が段々薄れていく。
きっとここが、夢の終わり。
もし現実で逢えたら、さっき言ったこと、全部言えるかな?
きっと、恥ずかしくて何も言えないんだろうな。それじゃあ、帰ってこっそり練習しなきゃ。
いつか本当にあの人に逢う、そのときのために。
◆◆◆
――馬鹿な。
あり得ない。憶えている筈がない。
確かにフィリアにとってそれは片時も忘れることのない大事な記憶だった。しかし少女にとっては、取るに足らない過去の一部でしかない筈だ。
だというのに、
「憶えていて……くれたのか……」
目の奥から何かが溢れて、視界があっという間にボヤけていく。
あと一押しで本願を果たせる筈だった剣が、気付けば地面に投げ捨てられていた。
なんだ。そうか。そうだったのか。
「始めから、出来るわけがなかったんだ……」
腰を下ろして、アリサに顔を近付ける。
アリサは靄がかった意識のまま、辿々しい口調でフィリアに何かを語り掛けている。
フィリアはそれを一言でも聞き漏らさないよう、無言で耳を傾けた。
そして最後の言葉を聴き終えると、少女の頭を、義手で優しく撫でる。
アリサの意識はそこで途切れた。もう、彼女が語り掛けてくれることはないだろう。
『フィリアァアアアアアアア――ッ!』
アリサが再び眠りについたのと同時に、離れた場所にあった瓦礫の山が内側から弾け、中から純白の光と共にジンが現れる。
そして瞬きを終える頃には、巨大な破裂音と共に、彼が一条の閃光となって一直線に迫って来ていた。
「来なよ、ジン。もう避けない。甘んじてその一撃を受ける。それが、せめてもの償いだ」
立ち上がったフィリアは両手を広げ、迎え入れるかのようにその身を差し出した。
必ず成し遂げようと決意した宿願は、終ぞ果たせなかった。
しかし何だろう、この達成感は。
何も成し遂げていない筈だというのに、もう大丈夫だと、心が安心してしまっている。
そして、放たれた最後の一撃が、余すことなくフィリアにぶつけられた。
「――――カッ!」
身体を貫かんばかりの衝撃が駆け抜け、口から大量の血が溢れ出す。
深々と腹部に突き刺さる拳から感じられる意志は、何よりも固くて、何よりも強くて。
「強く、なったね……。ジン」
弾け飛んだフィリアの身体が瓦礫の山を粉砕し、その勢いが衰えぬまま地面の上を平行に飛ばされていく。
そして最後に、崩れ掛けていた建物の壁に激突し、フィリアは力尽きたようにそれから動かなくなった。
戦いは、今ここに決着した。
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