1-40 創星樹よ、荒れ狂え

 ジンがアリサから目を離したのは、ほんの一瞬だった。


 時間にしてたったの0.2秒にも満たない僅かな間。周囲を見渡そうと首を曲げ、そしてすぐにその視線を元に戻したときには、そいつはもう、目の前にいた。


「昨日振りだな、巫女」


 突如として出現した猫仮面は、アリサに向かってそう囁くとその手を彼女の肩に乗せる。

 ジンが咄嗟に掴み掛かろうとするが、その動作を始めるのがあまりに遅過ぎた。


「グハッ!?」


 直後に腹部に走る、蹴り抜かれた重い衝撃。身体が浮き、ぶつけられたエネルギーに従ってジンの意思と関係なく飛ばされていく。


 前方へ流れていく景色の中で、ジンは戸惑うアリサに、猫仮面が何かをしようとしているのを確かに見た。


「お前ッ!」


 その行動が何を意味するのか分かるよりも早くジンの頭が怒りで染まり、体勢を立て直した瞬間に大地を蹴り、走る。


《ジン、止まってください!》

「ッ……!?」


 トワの必死な警告を聞き、ジンは急いで急ブレーキを掛ける。


 だが、遅過ぎた。

 ジンの足下に突如魔法陣が出現し、眩しい光量で周囲を照らし尽くす。


トラップ型の法位陣! ジン、急いで脱出を――》

「クソ、間に合わない!」


 急いで脱出を試みるが、その光は一瞬でジンを呑み込んでいく。


「アリサ、逃げ――」


 手を伸ばす。あの紅い少女に、一心不乱に手を伸ばす。


 だが届かない。二人の距離はあまりに遠過ぎて、腕一本を伸ばしたところでは、到底届かなくて。


 視野が鈍色に染まる中、最後に見えたのは、あの憎っくき猫の仮面。

 とことん人を馬鹿にすることに徹した、禍々しいピエロの貌。


 だが何故だ。こいつには怒りしかないのに、煮え滾った憎しみしかない筈だというのに、


(笑って、ない……?)


 その奥底に秘める素顔が、冷め切っているように見えてしまったのは、どうしてだろうか。


 心底どうでもいい疑問。確かにこのときは、気にすることすら馬鹿馬鹿しかった筈の、ふと頭に降ったその懐疑点。

 それに納得のいく答えが出る前に、ジンの肉体が霞みとなって消え去った。


 ◆◆◆


 全ては、一瞬の出来事だった。

 突然の爆発。それに気を取られた刹那の間に現れた黒の道化師。そして、この場にいる唯一の味方であったジンが退場するまで、全ては虚を衝かれたアリサが意識を立て直すよりも早く終わってしまっていた。


 そして何より、


(また、気付かなかった……)


 猫仮面が背後に現れるそのときまで、アリサはその存在を一切察知することが出来なかった。


 空間系統による超移動も疑ったが、空間系統を扱う際には空間に僅かなマナの淀みが生じる。事実、ジンを何処かに跳ばしたあの法位陣からは、空間系統特有のノイズが走ったのをアリサは確かに実感した。


 しかし、猫仮面の超移動にはそれがない。一度目なら不意を打たれて気付かないかもしれないが、アリサがそれを見せられるのはこれで二度目だ。


「そんな怖がるな。もっと楽になれ、巫女」

「……うるさい」


 猫仮面へ芽生えていた恐怖を見透かされ、アリサは悔しそうに歯を食い縛る。


 怖い。

 この感覚だけはいつまで経っても慣れない。自分を殺しに来た刺客と相対したときの恐怖心は、何度繰り返そうとも和らぐことはない。


 怖い。膝が震える。呼吸が出来ない。今すぐにでも逃げ出したい。


『アリサ、逃げ――』


 ジンが転送間際に叫んでいた言葉が脳裡を掠める。


 ジンの言おうとしていたことは正しい。アリサでは猫仮面には勝てない。戦いの素人でしかないアリサでは、目の前の殺戮者にはどう策を講じても勝てる見込みは皆無。


 ここは逃げるのが最適解。何でもいいから時間稼ぎに徹し、皆が助けに来るのを待つのが――


(……いや、違う)


 頭で形を成していたその選択を、アリサはかぶりを振って否定する。


 いや、違わない。これがベストな選択だ。敵わぬ相手に立ち向かうのは愚行に他ならない。


(そんなことは分かってる。ちゃんと分かってる)


 だからと言って、また同じ過ちを繰り返すのか?


 怖いが故に逃げ。


 恐ろしいが故に頼り。


 助けに来た誰かに戦いを任せ、自分はその背後でのうのうと守られ。


 そしてまた、『仲間』を傷付けさせるのか。


 一瞬、アリサの頭を過ぎったのは、自己中心的で人でなしでありながらも、誰よりも親身に接してくれた金茶髪の仲間の後ろ姿。


(そんなのは、もう嫌!)


 ならば前に出ろ。

 その背中を越え、更に前へ。


 今まで守られてきた。その背中に守られ続けてきた。

 甘えの時間は、もう終わりだ。

 今度は私が、仲間みんなの前へ――!


「ユグドラシル!」


 その言葉で、黄金が地面より氾濫する。

 溢れ出たのは、黄金樹の根。ツルのようにしなやかに、だが鋼鉄をも凌駕する硬度を有する群体が、アリサを中心に何重もの円周上に突き上がった。


「くっ!?」


 黄金根の氾濫を察知していた猫仮面は、早々にその場を離脱したお陰で、コンマ一秒の差で串刺しを免れていた。


「……なるほど。昨日とは別人だな」


 猫仮面は己を貫かんとした創星樹の根よりも、その奥に潜む紅い少女の存在に身構えている。

 何せこれは、ユグドラシルが宿主を守るための自律的に行ったものではなく、少女がそうするように命じられたことで発生した人為的厄災。


 そして、迷いを棄てた神器保有者の実力の片鱗に過ぎない。


「おいで」


 静かに呟くアリサの右手に黄金の光が収束し、一本の弓の形を取った。


 太陽のように爛漫な陽気を発するソレは、人類誕生以前より存在した星の欠片。

 星の大樹ユグドラシルの名を冠した、世界の果てを撃ち抜くと謳われた至高の矢。


 名実共に、世界最強の弓である。


「もう、逃げない」


 直後、光が爆ぜた。

 アリサの手に血が滲む程強く握り締められた創星樹の弓が、主の意志に応えるように、呼応するように、その力を最大限に高めていた。


「……さっきまで怯えるだけだった子供が、よくもまあそんなに化けたものだ。だがどうする? たかが心の迷いを棄て去った程度で、私に勝てるとでも思っているのか?」

「勝てる勝てないじゃない。あなたは私の大切な仲間を傷付けた。私はただ、それが許せないだけ」

「……はぁ。全力で逃げに徹していれば、生き延びる道はあったというのに。そうまでして死にたいのか、巫女」

「巫女じゃない。私の名前は、アリサ。皇室警護及び独立支援部隊“竜撃隊”所属、アリサ・ブラッド! あなただけは絶対に許さない。私が、倒す!」


 創星の種は芽吹いた。楔はとうに放たれた。


 ならば後は、大輪の華を咲かせるのみ。


 さあ、創星樹よ、荒れ狂え。

 今こそ、己が主の意志に応えるときだ。

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