4.苛烈幻覚

 伊嶋の襲撃から、数日が経った頃。


「和真君。『約束』を外しましょう」

 透子さんは俺に向かって唐突にそう言った。

「あなたの『解除術』に課せられた五番目の約束……『5.自分自身にこの術を発動することはできない。』これは致命的ちめいてきよ。最も早く取り除かねばならないわ」

「確かに、自分にも解除術が使えたら、もっと楽に僕を倒せたもんな」

 横で伊嶋がうんうんと頷く。どの立場で言っているのか。

 透子さんが俺の目の前にチェスばんを置いた。

「和真君、目を閉じなさい」

 目を閉じる。

「和真君、目を開けなさい」

 目を開ける。

 すると、盤上ばんじょうに駒がならべられていた。

「この内いくつかは、私の『苛烈幻覚』による幻の駒。五分あげるわ。自分に解除術を使って、どれが幻か当ててみなさい」

 言われた通りに、手を組んで解除術を使ってみる。しかし、目の前の駒が消えたりすることはなかった……いや、目をらしてみると、若干じゃっかんうすれているような気がする駒がいくつかある。

 いや、やっぱりこれじゃないかもしれない。いや、やっぱりこれかもしれない。一度疑いだすときりがなくて、何もかも信じられなくなってくる。

「これと、これと……あとこれ」

 やっとの思いで答えると、俺が選んだ駒は全て消えた。選ばなかった駒も全て消えた。チェス盤も消えた。

「答えは、全部ぜんぶまぼろしよ……先は長そうね」

「……ズルくないですか?」

「ズルも何もないわ。あなたは絶対に自己解除を可能にしなければならないの……絶対に」

 透子さんの声には、強いこだわりを感じた。俺に対して、催眠術師としての能力以外の物を求めているかのようだ。

 視線を机から透子さんの方に戻す。ふと、透子さんの手の甲に小さなかさぶたができているのを見つけた。

「透子さん、その手……」

「あぁ、これ……おそらく、伊嶋を殴った時の傷ね。歯にでも当たったかしら」

「殴った側なのにダメージ受けてるなんて、やわだねぇ」

 伊嶋が鼻で笑っていた。どの立場で言っているのか。

「……そろそろかしら」

 透子さんはそのかさぶたを眺めた後、爪で引っかいてはがした。再度開かれた傷口から、血がじわりと滲む。

「……何してるんですか?」

「治ったのか気になって、かさぶたを無理にはがしてしまうくせがあるの……分からない?」

 分かるような、分からないような。

 そんなことを考えていると、とう頂部ちょうぶが燃えた。

「熱っ!」

 と、悲鳴を上げる頃には火の手はんでいる。また透子さんのいたずらだ。

 抗議の意を込めた視線を送ると、透子さんは俺の顔をじっと見つめた。

「な、なんですか」

「まだ……私のこと信じてる?」

 いつぞやのやり取りを気にしているのか。脈絡みゃくらくのない質問だ……いや、透子さんの中では脈絡ある質問なのだろうか。

「え?まぁ……一度信じるって決めましたから。そうそう疑ったりしませんよ」

「そう……なら、いいわ」

 透子さんは視線を傷口に戻し、そこにばんそうこうを貼った。

 けど、あれもすぐにはがしてしまうんだろう。そんな予感がした。

 きっと本当に傷が治るまで、透子さんは確かめることをやめないんだと思う。



・・・・・・



 朝。俺は自宅で父と朝食を取りながら、テレビのニュースを眺めていた。画面に俺が通う桶花高校が映る。

「……先日、謎の集団パニックがあった桶花高校ですが、今日休校が解かれるとのことです」

 伊嶋の襲撃しゅうげき事件じけんにより、学校は三日間の休校になった。こうして地方のニュースに取り上げられもしているが、学校という空間で起きた事件だからか、あまり大事にはなっていない。一週間いっしゅうかんった今、報道ほうどうはほぼ鎮静化ちんせいかしている。おそらく明日からはもう見かけなくなるだろう。

「和真……お前、事件が起こった教室に居たんだろう?大丈夫なのか?」

 父が心配そうにこちらへ視線を向ける。

「あー……まぁ、大丈夫だよ」

 一度操られ、暴れさせられていた横江が今も健康である所を見れば、他の操られていた人達にも後遺症こういしょうはなかっただろう。精神面せいしんめん若干じゃっかん不安ふあんではあるが、順次じゅんじ社会しゃかい復帰ふっきしていくはずだ。そんな形で、事件は終結しゅうけつを迎えようとしていた。もっとも、父が心配しているのは別のことだろうけど。

「かーずーまーくーん!!」

 唐突に自宅の前から俺を呼ぶ大声が聞こえてきた。横江美和の声だ。

「和真、今のは……」

 朝食を食べていた父が怪訝けげんな顔で俺を見る。

「かー……」

 二発目が来る前にここを出なければ。

「いってきまぁす!」

 俺はひったくるように鞄を持ち、急いで玄関の扉を開けた。

「あ、和真君おはよう」

 横江は玄関先に居た。メガホンじょうに口へ添えた手を降ろしながら、何事なにごともなかったかのように挨拶してくる。

「普通にインターホン鳴らせよ……」

「いや、大声で呼べば和真君のご家族にもアピールできるかなって思って。こういうのは事前にしといた方がいいからね」

 こいつの告白は以前きっぱりと断ったはずなのだが、いつの間にか家族へ紹介する所まで話が進んでいる。恐ろしい妄想力もうそうりょくだ。そしてその妄想が現実だとしてもアピール方がエキセントリックすぎる。

「だからお前と登校するなんて嫌だったんだ……」

 登校中に他の催眠術師から襲われるかもしれないから、図書準備室に寝泊まりするか護衛ごえいを付けるかどちらか選びなさい。と透子さんは言った。消去法しょうきょほう後者こうしゃになった。

「いやいや、私ほど和真君の護衛の適任てきにんは居ないよ?なんと言っても忠誠心が強いからね。忠誠心が」

 横江はかがやく瞳で俺を見た。この好意も、まともに取り合ってやる気にならない。

「はいはい」

 適当にあしらって歩き出す。横江も一緒にてくてく付いてくる。

「はぁー、こんな風に和真君と一緒に登校できる日が来るなんて。勇気出して行動して良かったなぁ」

 行動。とは、浅田さんに『人格上書き』を使ったことを言っているのだろうか。

「……まだ反省してないのか」

「うーん……そのことなんだけどさぁ。和真君はなんでそんな怒ってるの?」

 横江が不思議そうに首を傾げる。

「はぁ?」

「まぁ、泉の人格を消そうとしたのは、悪いことだと思ってるよ?前も言ったけど罪悪感がなかったわけじゃないしね。悪いことに対して、和真君が怒るのは当然だと思う。私も和真君のそういう所が好き」

 ついでのような告白を流して、話の続きを聞く。

「でもさ、これってかえしのつくことじゃん。実際泉復活したし。そんなに怒らなくてもよくない?」

「違う……確かに浅田さんは元に戻った。けど、代わりに二号が消えたんだ。そしてこれはもう、取り返しが付かない。それがお前の罪だ」

 重く横江へ言い放つ。それでもこいつはまだ得心とくしんのいかない顔をしていた。

「それもよく分かんないんだよねー……私テストの前に『勉強した直後の自分』を自分自身に上書きしたことあるけどさ」

 こいつ……催眠術をそんなカンニングみた使い方してるのか。

「上書きを解除する時……和真君的には、私自身が消える時?別に何も思ってなかったと思うよ?そうじゃなきゃ今の私に戻ってないし……何が違ったんだろうね?」

 何が違ったか。真っ先に思いつくのは、人として異常かどうかだ。ことさら自分じぶんを正常だなんて思うことはないが、こいつよりかはまともな倫理りんりかんを持っているはずだ。

「うん……多分、和真君みたいに感じるのが普通なんだよね。変なこと聞いてごめん。私、少しおかしいから」

 俺が答える前に、横江はひとりでに納得した。

 どこかで聞いた台詞……今のは透子さんの言っていた台詞だ。あざとい奴だと思ったが、横江の表情はせつない。透子さんを真似まねて言ったわけではなさそうだ。

「こういう所が普通の人は……和真君は、嫌い。うん、覚えた。もう嫌な気持ちにさせない」

 隣から、ぶつぶつ呟いている声が聞こえる。

 横江は俺に『ずっと片想かたおもいしていた』と言った。何故、片想いのまま催眠術を習得するまで行動に移さなかったのか……それは、自分の異常性いじょうせいを自覚していたからだったりするのだろうか。

 そんな心情しんじょうさっすると、多少たしょういかりがやわらぐところがある。

 あくまで横江が自身の異常性を理解し、他人との不和ふわをなくしたいという想いを持ち、そのための行動を続けるのならば、俺はいつかこいつを許すのかもしれない。

 自分のそんな考えに嫌悪を感じる。あんなにこいつを嫌っていたのに、許す……やはり俺も催眠術師である以上、いくらか異常な部分があるのだろうか。

 あるいは、二号の消失しょうしつさえも『取り返しのつくこと』だったら、素直に受け入れられたのか。

「……横江」

「何?」

「消える寸前すんぜんの二号の人格を、もう一度誰かに上書きできるか?」

「無理。登録とうろくしてるのは一か月前の和真君だけだから。でも、それは和真君的には……二号君じゃない、んだよね」

「……登録。『人格上書き』の約束をいじって、今までに会った人間を登録できたりしないか?」

「いや。私の催眠術はもう『完成』させちゃってるから」

 横江が言った『完成』……習得した催眠術に『これ以上この催眠術を変更へんこうしない』という内容の約束を設定することだと、『現代催眠学基礎論』にしるされていた。

「だから、無理」

 返ってきた答えは否定だった。

 ……いや、かり肯定こうていされたとして、だから何だというのだろう。二号をもう一度蘇らせることができても、また別の誰かの人格が抹消される。それがえられないから、二号は自身が消えることを選んだのではなかったか……不毛ふもうな質問だった。

 やり場のない気持ちを発散はっさんするように、歩調ほちょうを速めた。横江も同じ速さで付いてくる。



・・・・・・



「お、来たな」

 放課後、横江と共に図書準備室へ行くと、伊嶋が机から振り返ってこちらを見た。机を挟んだ向かいには透子さんが座っている。

 先日の襲撃しゅうげき以降いこう、伊嶋はここに軟禁なんきんされている。横江とは違って、社会的に事件の関係者としてあつかわれているため、外を出歩であるかせるわけにはいかないのだ。

 手足をしばっているわけではないが、代わりに透子さんの監視かんしがあるので逃亡とうぼうの危険はないだろう。そもそも、伊嶋に逃亡の意思はないように見える。

「見ろよこれ、この女めちゃくちゃ弱ぇの」

 机の上にはチェス盤が置いてあり、勝負がひろげられたあとがある。

「……いつの間にか、随分ずいぶん仲良なかよしになったんですね」

「別に……ただの暇潰ひまつぶしよ」

 そう言って透子さんはざつにチェス盤を片付けた。よく分からなかったが、やはり負けていたのだろう。

 こんな奴と仲良くゲーム……違和感がある。一度受け入れるとは決めたが、まだ完全に乗り切れない。そんな俺の視線に、伊嶋が答える。

「なんだよ。このご時世じせいどいつもこいつも、何かに操られてるような奴ばっかしじゃんか。操るのが僕に変わっただけのことで、何をぷんすかと」

 このひらなおようである。反省の色は見えない。

「いやーすくいようがないねこいつ。私はちゃんと反省してるのに」

「自分で言うかそういうこと。僕なら言わずに心にめるね。そういうところみで判断してくれよ岩倉和真、どちらがお前の隣に相応ふさわしいか」

 二人が睨み合う。どうやら透子さんにはる隙がないので、伊嶋も俺にかれようと横江に張り合っているらしい。

「僕だって反省してるんだぜ?もし次があるなら、いきなり一番強い駒を取ろうとはしない」

 伊嶋はかたづけられたチェス盤を見て、次に透子さんを見た。

「……そういう意味じゃなくてだな」

「そもそも、過去のことがそんなに大事かね。大事なのは今、僕がこうして君の有能ゆうのうな味方であるということじゃないか?」

 確かに、伊嶋は横江に比べて多くの情報を持っていた。どれくらいの人数が催眠塾にかよっていたのか。そこで誰がどんな催眠術を習得していたか。

「いずれ、全員僕の駒にして軍団を作るつもりだったからな」

 しかしこういう発言を聞くと、やはり手放てばなしに信じる気にはなれない。

 そんなやりとりをしていると、透子さんが短く咳払せきばらいをした。三人で透子さんの方へなおる。

「これからの話だけど……伊嶋君の襲撃から一週間。他の催眠術師からの攻撃はなかった。これ以上いじょうこうの出方でかたうかがっても無駄でしょう」

「私達も別に、あの人達に命令されて透子さん襲ったわけじゃないしね」

「な」

 二人が顔を見合みあわせる。

「……だから、今度はこっちから動くわ」

「動く。って……」

「横江さんや伊嶋君、その他の人達に向けて催眠塾を開いた二人組。その二人が居る廃ビルに行くのよ」

 横江が言っていた……花輪みちると躯川誠。もう一冊の『現代催眠学基礎論』を所持しょじしている二人。その目的をつきとめ、これ以上の悪用をやめさせる。

 横江や伊嶋と手を組んでまで設定した目標だ。きっと達成してみせる。

「そこの二人がね」

「えっ」

 当然といった様子で、透子さんが横江と伊嶋を指差す。指差された二人にも戸惑とまどいはない。

「まずは偵察ていさつよ。その催眠塾の目的……できれば持ってる催眠術の内容も知りたい所ね」

「俺と、透子さんは?その廃ビルに行かないんですか?」

「……ごまが居るのに、わざわざ私達が危険をおかす必要がある?」

「す、捨て駒って……」

 そう呼ばれた二人も、まぁそうだよね。と頷いて、疑問を持っていない。

「そんな風に人を使うなら、伊嶋と同じじゃないですか!」

「……この二人は人々にがいなした、いわば罪人ざいにんでしょう?私達が下僕げぼくごとく扱っても、なんら倫理的りんりてき矛盾むじゅんはないと思うけれど……いまいちはっきりしないわね。あなたはこの二人を許していないの?それとも、既に許しているの?」

 透子さんにあらためて問われて、返答に困る。背後はいごから感じる『もう私のこと許してくれた?』というオーラにこたえるつもりはないが、かといっておにのようにだんざいする気にもなれない。

「甘いんだねぇ、岩倉和真。あきれるぐらい甘い」

「うんうん。私は和真君のそういう所も好き」

 二人がはたから茶化ちゃかしてくる。俺は問いに答えるタイミングをいっしてしまった。

「何にせよ、あなたが自己解除を身に着けない内は危険な目に合わせるわけにはいかないわ。というかそもそも危険でもないわよ。二人は相手方あいてがた顔見知かおみしりなのだし、軽く偵察するだけなんだから」

 そう言われればそんな気もしてくる。ので、これ以上いじょう反論はんろんしないことにした。精神的せいしんてきな問題である以上、水掛みずかろんにしかならないし、透子さんが命令すれば二人はそれに従うだろう。それに俺も、二人を積極的せっきょくてきかばいたいわけではないのだ。

「そいじゃ、行ってきまーす」

「行ってきまーす。何か分かったら連絡れんらくするね」

 マスクなどを付ける伊嶋と、手を振る横江、二人を見送みおくる。これもつぐないだ。ここは二人に任せよう。



・・・・・・



 コーヒーの匂いがめる、とある喫茶店きっさてん一席いっせき。そこから窓を見上げると、くだんの廃ビルが見える。今頃、横江と伊嶋があのビルを偵察しているだろう。

 テーブルに置かれ、湯気ゆげをたなびかせているカップに口を付け、一息つく。

「来ちゃったなぁ……」

 二人を見送った後、俺も自宅に帰ろうと学校を出て、その足でこの喫茶店にってしまった。

 自分の心配性しんぱいしょうというか、お節介せっかいきというか……そんな所に辟易へきえきする。はじめてのおつかいをさせる母親でさえもう少し自制じせいくのではないか。

 その上、目的の廃ビルに行くのではなく、近くの喫茶店に腰を落ち着けている所が手に負えない。

 今からどうすべきだろう。今から廃ビルに行けば……二人のために行動すれば、精神的に二人を許すことになる。とはいえこのまま帰れば、俺は罪悪感を覚えてしまうだろう。悩んで、中々なかなかこしを上げられずにいた。

 人生において、このような状況じょうきょう遭遇そうぐうするのは初めてなので、今になってようやく自覚じかくする。俺はこんなにも、気の小さい奴だったのか。

 考えがまとまらないまま、またカップに口を付ける。とりあえずこの一杯いっぱいを飲み終わるまでには答えを出そう。

 そう思いつつカップをテーブルに置くと、一人の男がことわりもなく向かいの席に座った。

 いや、一人ではない。男は少女をお姫様抱っこしていた。……何故、この席に、何故、お姫様抱っこを。

 呆気あっけに取られている内に、抱えられた少女が口を開く。

「あんたが、岩倉和真か」

 どくん、と心臓が跳ねる。少女の目尻めじりは軽く微笑ほほえんで俺を見ていた。

「……どうして、俺の名前を知ってる」

「お友達からの報告ほうこくがあってね。狐塚透子が一人の男子に接触したって……」

 こいつ、透子さんを知っているのか。

 お友達からの報告?俺達の動向どうこうが探られていた?

「お前は、お前達は……」

 少女は俺の問いに答える代わりに、男のふところから一冊の本を取り出した。青い背表紙の本。図書室で見た色と同じだ。間違まちがえるはずがない、『現代催眠学基礎論』だ。

「私が花輪みちる。こっちが躯川誠だ。私達が催眠塾の講師……横江か伊嶋から聞いてるだろう?」

「……っ、お前達が!」

「待ちな、そう声を荒げるなよ。今日はただ話をしに来ただけだ」

 少女の顔には、変わらず薄い微笑みが張り付いている。何かを楽しんでいるのではなく、ただ目の前の俺に興味がないといった風だった。

 話をしに来ただけ……その言葉を鵜吞うのみにするつもりはないが、とはいえそれを探るためにも会話は必要か。考えてみれば丁度ちょうどいい。こいつらの真の目的を突き止める。あの二人に任せていた偵察を、代わりにやるチャンスだ。

 息を整え、改めて少女に問いかける。

「……お前達の目的は何だ。どうして催眠塾なんて開いてるんだ。この街に催眠術師を増やして、一体何がしたい」

「とある催眠術が欲しかった」

 少女はあっさりとそれを明かした。

「『強化術』……まぁ呼び方はなんでもいい。とにかく『他の催眠術の効果を強める催眠術』が欲しかった。けどね、あんたも知ってるだろうけど、催眠術の習得には強いモチベーションが必要だ。他の催眠術を強めたい……そんなモチベーションを持つ人間が生まれるには、どうしたらいいと思う?」

「……催眠術師を、増やす?」

「ご名答。催眠術師を流行はやらせれば、それによって困る人間、催眠術を解除したい人間が出てくる。『催眠術を解除する催眠術』を習得する奴が現れるだろう?すると今度は催眠術を解除されたくない人間、『催眠術を強化する催眠術』を習得したがる奴が現れるわけだ……分かる?メタゲームの流れだよ。対策たいさく連鎖れんさする。事実、つい一昨日に『強化術』を習得した女の子を、私は手に入れた」

「……つまり、お前達は分かってやってたんだな。増えた催眠術師が、人を不幸にすると分かって……!」

 伊嶋、横江。俺達が知らないだけで、他の催眠術師もその力をよくのために行使しているのだろう。伊嶋はその可能性が高いと言っていた。催眠塾がもたらした惨状さんじょうだ。

 こいつらさえ居なければ、二号があんな最期を迎えることはなかった。

「そうだな。もちろん分かってたよ」

「……もう一度答えろ。お前達の目的は何だ。そうやって『強化術』を手に入れて、他の人を不幸にしてまで何がしたい!」

「狐塚透子を殺したい」

 少女の瞳が黒く光る。ぐな殺意さついに、にぶく。

 耳を疑うことはなかった。彼女は今、はっきりと、一人の人間を殺したいと言ったのだ。

 俺が殺意に気圧けおされ、何も言えないでいる内に、少女が言葉を続けた。

たって、相談があるんだけど……あんた、私達の仲間にならないか。あの女を裏切うらぎって欲しい。そっちの方が色々スムーズなんだよ」

「……拒否きょひする。俺は透子さんの味方だ」

 そう答えても、少女の表情は変わらない。

即答そくとう……一応、先にあんたの意見を聞いておこう。なんであの女の味方をする?」

「目的が合致がっちした仲間だからだ。『街の平和を守る』という……」

 その言葉は、少女にとって地雷じらいだった。

 俺がそう答えた瞬間、少女の微笑みがはがれた。

 殺意を口にする時でさえ崩れなかった少女の表情は、口元をゆがませ、瞳は俺の向こうにある何かを強く睨みつけている。むせかえるような、怒気どきはらんだ禍々まがまがしい空気が溢れ出す。それを吸うだけで、指先がしびれそうになる。

 怒りに震わせた口元で、少女は話す。

「……そうか……あんたを代わりにしたんだな、あの女は……っ!お兄ちゃんのことも忘れてぇぇぇ……!」

 少女はがりがりと自分の顔をきむしり始めた。彼女を抱えている男が、名前を呼び、腕をとってそれをやめさせる。一連いちれんの様子から、それが発作ほっさのごとく繰り返されてきたことが分かる。

「聞けよ……聞きなよ、岩倉和真。あんたは私に聞くべきことがある」

 顔をおおう腕の隙間から、そんなつぶやきが聞こえてくる。その呟きに従って、問いかける。

「……どうして、透子さんを殺したいんだ」



・・・・・・



 五年前。私が、本当に桶花高校の図書委員長だった頃。


 私は図書室の静寂が好きだった。

 読書のため、沈黙に支配された空間。それを保つために図書委員長になり、自分以外の委員の当番を減らしたり、生徒達が寄り付かぬよう人気の本の入荷にゅうかを絞ったりもした。

 そんな閑散かんさんとした場所での読書が好きだった。

 しかしその静寂は、ある日から姿を消すことになる。とある一冊の本によって。



「すいませーん。この本、貸し出しお願いします」

 放課後、図書準備室で読書していると、男子生徒がカウンターのベルを鳴らした。

 読書を中断ちゅうだんさせられたことに若干じゃっかんいらちつつも、図書準備室からカウンターへ移動する。さっさと手続きを済ませて、また読書に戻るとしよう。

「学年、クラス、出席番号、名前を」

「二年四組二十七番、花輪はなわ宏登ひろと

 端末たんまつに言われた情報をみ、置かれた本を手に取る。

 タイトルは、『現代催眠学基礎論』。

 その本は背表紙が真っ青だった。それを見て、こんな本が図書室にあっただろうかと疑問に思う。これだけ鮮やかな目が覚めるような青で、奇妙な存在感を放っている本、見覚みおぼえくらいあってもいいはずだけれど。

 更におかしな点を見つける。その本はカバーフィルムによる処理がなされていない、しの状態だった。スキャンすべき管理かんりバーコードも見当みあたらない。

「これ……図書室の本じゃないわよ」

「えっ、あー……道理どうりで。やっぱ誰かのいたずらだったんだ」

 男子、花輪君が得心のいった表情をする。その言動げんどうがひっかかった。

「道理で?」

「うん。そのほんなにいてあるか全然ぜんぜんめないんだよね。ちょっと開いてみてよ」

 私はこれよりもさっき中断した本を読みたいのだけれど……この本に気を引かれている自分が居るのも事実だ。先にこの妙な好奇心こうきしん払拭ふっしょくした方がいいだろう。私は花輪君の言う通りにしてみた。

 一ページ目から、文字もじ密度みつどの高い文章が並んでいる。情報の圧縮、膨張……超信号。どうにも現実味げんじつみのない内容でやや難解なんかいではあるが、言わんとしていることは理解できる。少なくとも『全然読めない』ということはない。

「……読めるわよ、これ。あなたの読解力が低いだけじゃない」

「いや、俺も最初の方は日本語だなって分かるよ?でも後ろの方とかそういうレベルじゃないんだって」

 彼が本の後ろを指差した。少し疑いつつも、差された箇所を開いてみる。たして、確かにそのページは意味いみ不明ふめいだった。図形ずけいなのか、絵画かいがなのか、ただ無数むすうせんなぐられているようだ。

 さかのぼるようにページをめくってみても、やはり読める部分は少ない。結局、丸々まるまる一枚いちまいめるのは最初の一ページだけだった。

 花輪君が、『ほらね?』とでも言いたげに瞳でウィンクを作る。

「確かに、まともな本じゃないわね。終盤しゅうばんは意味不明、中盤ちゅうばんも読めるのは一部だけ……」

 私がそう言うと、花輪君は不思議そうな顔をした。

「……『読めるのは一部だけ』?一部でも読めたの?えっと、中盤って真ん中の方のことを言うんだよ?」

「馬鹿にしないで。分かるわよそれくらい」

「いやでも、俺真ん中の方も全然分かんなかったからさぁ」

ながみだったから気付かなかっただけでしょう?ほら……ここなんかはっきりと『約束』と読めるじゃ……」

 その箇所を指差して、気付く。その文字は日本語ではなかった。それどころか文字なのかどうかすら疑わしい、奇妙な線のしゅう合体ごうたいだった。

 だが、私はそれを誤認ごにんしたわけではない。自分で気付かぬほど自然にそれを理解していたのだ。しかと注視ちゅうしした今でも、その線が『約束』という言葉を表しているのだと分かる。

 しかし、何故分かるのか分からない。どうして私は、この文章が。

「……読めるんだ」

 彼の呟き。その声は、確かな好奇心を孕んでいた。そしてこの本に好奇心を抱いているのは私も同じだった。突如とつじょこの図書室に現れた本。知らないのに読める文字。私の興味きょうみをくすぐる謎が、この本にはある。

 本を閉じ、表紙を表に置いてもう一度題名を確認する。

「『現代催眠学基礎論』……これ本物だよ。本物の催眠術の教科書なんだ!」



 カウンターとへだたれたこちら側。図書準備室。本来、委員の者でさえ滅多めったに立ち入らない空間に、花輪君が入ってくる。何度も断ったが、ついに根負こんまけしてしまった。

 そして二人で『現代催眠学基礎論』くことになった。

 私は図書室の静寂が好きだ。なので自分の当番も、仕事をサボりがちな生徒とかぶせている。だから、誰かと隣合って、それも同じ本を読むなんて、初めての体験だった。

「ここは?このページはなんて書いてあるの?」

 普通なら聞くことのない他人の声、感じることのない熱。うざったいけれど、どこか新鮮だった。でもやはりうざったい

「黙ってて……今集中してるの。というかあなた近いわ、少しあっちへ行って」

「だって遠いと読めないじゃん。その本を見つけたのは俺なんだから、俺にもそれを読む権利があるはずだ」

「どちらにせよ読めないんでしょう?あなたは」

 何故か、この本を読めるのは私だけだった。これもこの本の謎の一つだ。

「多分、透子ちゃんには才能があるんじゃないかなぁ。催眠術師の」

「……非論理的ひろんりてき憶測おくそくね。私も読めるのは一部だけだし、そもそもケースがあなたと私の二人だけじゃ不十分よ。後、下の名前で呼ばないで」

 不躾ぶしつけな男だ。

「じゃあ透子ちゃんは催眠術師について論理的に話せるの?」

「あなたよりはね。それと下の名前で呼ばないで」

「それなら……結局、催眠術ってなんなの?」

「それについては一ページ目、あなたも読めると言っていた箇所に書いてあったでしょう」

「読むことと理解することは別物だよ」

 花輪君は何故か得意げにそう言った。ただ馬鹿なだけではないか。

「例えば……モールス信号があるでしょう。あれは画一的な記号の羅列に意味を持たせた物。催眠術も同じく、例えば指の動き、すうミクロンの差を記号の代わりとすることで、理論上りろんじょう無限むげんの意味を持たせることが可能で……その情報を脳のブラックボックス、あらかじ全人類ぜんじんるいそなえられた潜在せんざい意識いしきのパターンを通して還元かんげんすることで、ひと五感ごかん記憶きおく、あるいは心理しんりすらも……」

「……えっと……脳をうまい具合ぐあいになんやかんやするってことか」

 なんやかんや。六文字に要約ようやくされてしまった。まぁ、理解してくれたのならそれでもいいだろう。これから何かを説明する時はもっと馬鹿っぽい言い方にしよう。

「それで?どうしたらそれができるの?」

「『約束』……が効果的みたいね」

 二ページ目を開き、読み解いていく。ここは最序盤さいじょばんだからか、目をらしてみると可読かどくになる部分が多い。それでもどうしても読めない穴はあるが、そこは読書家どくしょか読解力どっかいりょく補完ほかんする。『約束』……こんな序盤に登場し、先程開いた中盤でも言及げんきゅうされていた所をみると、催眠術における重要な工程の一つのようだ。

「約束って、誰と?」

「いえ……この約束は、自分で自分に課すもの……らしいわ」

 次のページではどんな『約束』が有効か、例と共にしるされている……みたいだけれど、穴となる部分が多すぎて補完できなかった。私でも、満足まんぞくに読めるのは今の所ここまでらしい。

「おそらくこれは、社会的しゃかいてき交換こうかん理論りろん逆手さかてに取った方法……大きい対価たいかを支払えば、大きな利益りえきを得てもよい。約束は重ければ重いほど催眠術の効力こうりょくを強める……」

「重い……『十分じゅっぷんたないと発動しない』とか、めんどくさくて良くない?」

 時間。単純たんじゅんだが、それゆえ実験じっけんなどに向いている約束かもしれない。

「あなたの提案を鵜吞みにするのはしゃくだけど……まぁ、ものためしね。一度それでやってみましょう」

 適当な美術びじゅつの本を引っ張ってきて、適当なページを開く。

「人の五感を操る……まずは視覚。この見開きの右と左を入れ替えるわ。発動」

 人差し指を振る。私も花輪君も、その動きを見逃みのがさなかった。

「よし。じゃあ後十分はおしゃべりタイムだな。自己じこ紹介しょうかいとかしようか。おたがい名前しか知らないし」

 花輪君が私に笑いかける……もしかしてそのためにさっきの約束を提案したのだろうか。

「……別に、あなたと話すことなんかないわ」

「何か、さっきから俺に当たり強くない?」

「本が好きな人間は、往々おうおうにして人間が嫌いなものよ」

「えっ、じゃあ友達とかは?」

「居ない、必要ない……逆に聞くけれど、あなたは私と仲良くなりたいの?この本についての好奇心を満たすためだけなら、互いの自己紹介なんて必要ないでしょう」

「まぁね。でも俺には別の目的があるから……俺は、この街の平和を守りたいんだ」

 子供こどもみた妄想だ。しかし、彼の瞳はあくまで純粋だった。

「話の前後がおかしい気がするけれど……どうして、街なの?」

「いや、流石に世界とかまでは手が届かないなって。とりあえず近い所からね」

 彼は頭を掻きながらそう言った。妙な所で現実的だ。

「大体、守るといっても何から守るのよ」

「これだよ」

 目の前の『現代催眠学基礎論』が指差される。

「もしこれが本物でさぁ、もしいくつもあって、もし他の誰かも持ってて、もしそいつが悪用してたらやばいじゃん」

 もし、が多すぎる仮説だが……可能性は否定できない。どの仮定にもある程度の妥当性だとうせいはあるように感じた。

「悪用……ね」

「人の五感、記憶、あるいは心理すらも操れるんでしょ?わることかんがえるやつ絶対ぜったいるって」

「本当、妙な所で現実的ね」

「それでさ、そんな奴らに対抗たいこうできるとしたら……同じ、催眠術を覚えた奴だと思わない?そうなったらまちまももの同士どうし、仲良くするべきでしょ」

「……あなたのヒーローごっこにくわわった覚えはないわよ。そもそも、私がその悪用する側だった場合どうするのよ」

「あぁ、そこは信じるよ」

 花輪君は、特に考える素振りもなくそう言った。

「どうして?」

「人を信じるのに、理由は要らないだろ?」

性善説せいぜんせつ……頭がお花畑はなばたけね。馬鹿に正義はつとまらないわよ。それに、今の所これを読めるのは私だけなのよ?私の横であなたは何をするの?」

「え……なんだろ、おちゃみとか?」

「何それ……あなた本当に計画性けいかくせいがないのね。そもそも平和を守るって……」

 気が付くと、花輪君がニヤニヤしていた。

「……何よ、何が面白いの」

「いや、案外あんがいしゃべってくれるなぁ。と思って」

「っ、別に、十分経つまでの暇潰ひまつぶしよ、こんなの……」

 そう言い放ってから、思い出す。私が『発動』ととなえてから既に十分近くが過ぎようとしていた。

「おっ、そろそろか」

 二人で姿勢を正し、少しそわそわしながら美術の教科書を見つめる。後十秒。心の中でカウントダウンする。九、八、七、六、五、四、三、二、一。


 そこで唐突に、脳の一部が熱くなった。雲の中で、電流でんりゅうがくすぶるイメージ。その熱に浮くかのように、くらりと視界が揺れる。その揺れが収まる頃には、まるで脳の神経があるべき姿につながれた感覚がした。

 そして理解する。この催眠術が成功するかどうかは、私が決めることなのだ。

 見届みとどけるのは私だ。ならば真実しんじつは私にある。私はこの本に好奇心をいだいている。好奇心とは期待だ。私はこの『現代催眠学基礎論』が本物であることを期待している。

 ならば、本物にすることになんら迷いはない。


 ページは、入れ替わった。

 すぐにすぅっと元の光景に戻っていく。それでも、一秒か二秒、もしくはもっと短い間だったかもしれないが、それでも確かに二つのページはわっていた。

 催眠術は、成功した。

「うっ、うおお!すごっ、今入れ替わった!やっぱり本物!本物だ!すごい!」

 隣で花輪君が大口おおぐちを開ける。今起こったことに、大変たいへんおどろいている。

「……図書室ではお静かに」

「えっ……なんでそんな冷静なの」

 感動はある……しかし驚きはなかった。この催眠術が成功することは、直前、私の中で必然ひつぜんになったのだ。少なくとも、そういう感覚があった。

 次の瞬間、が飛んできた。

「はっ!?」

 咄嗟とっさに、両手りょうてのひらを顔の前に広げ防御ぼうぎょする。張り手と私の手が、パンッと小気味こきみいい音を立てる。

 何をする。と抗議の意味を込めた目で睨み返すと、彼はまた笑っていた。

「ほら、催眠術が本当に成功したんだぜ!?もっと驚いて喜ぼうよ!」

 どうやら、彼は張り手ではなくハイタッチのつもりだったらしい。手のひらが、じんじんとした熱を帯びる。

 私のような人間が、誰かとハイタッチ。どちらかといえば、こちらの事実の方が驚きだった。



 私の催眠術は『苛烈幻覚』と名付けられ、めきめきと能力を増大ぞうだいさせていった。

 いまや操れるのは視覚だけではない。他の五感も同時に一つまでなら操れるようになったし、発動にかかる時間は数秒までちぢまっていた。『現代催眠学基礎論』も、一日に一ページずつ読めるようになっていく。私の催眠術師としての成長は、とどまる所を知らない。

 しかし、そのことについて特に感慨かんがいはなかった。意外なことではない。

 他の生徒達にもこの本を読ませてみたが、二ページ目以降を理解する人間は居なかった。花輪君も一向に読めるようになる気配がない。

 私に催眠術師としての才能があるという、彼の推測。この現状をかんがみるに、おそらく事実だ。

 つまりは当たり前のことなのだ。できる者にはできることができる。ただそれだけのこと。私はそれを、論理などえた所で理解していた。

 意外なのは、彼との関係だった。放課後、図書室に他の委員が居ない日をねらって、二人で催眠術の研究を共有する。そんな日々が、中々なかなか途切とぎれなかった。

 私は他人が嫌いだ。く理由がない。花輪君のことも、初対面しょたいめんではそれなりに喋りもしたが、きっと何度か会う内に嫌いな点を見出みいだしては、この男を嫌いになるだろうと思っていた。

 そして私は不愛想ぶあいそうだ。彼もきっと同様に、私のことを嫌い、この関係は消滅しょうめつするだろう。そう思っていた。

 しかし、今の所そうはなっていない。そんなきざしすらなかった。

「じゃーん!ティーセット持ってきた!」

 それどころか、彼は私物しぶつを持ち込んだり、長期間ちょうきかんに渡ってびたるつもりらしかった。意気揚々いきようようとそれを広げる、彼に向かって問いかけた。

「……楽しい?」

「え?まぁ、特技だしね。そこそこ……」

 彼がちゃ仕込しこみながら答える。

「おちゃれのことではなくて。この図書準備室で、私と話すことが……楽しい?」

「……楽しくなきゃ、来ないよ」

 目の前に、淹れたての紅茶こうちゃが置かれる。

「透子ちゃんは違うの?」

「下の名前で呼ばないで……私は、図書委員の当番を果たしてるだけよ」

 そう言い放ち、話をげるために置かれた紅茶に口を付ける。

 匂い、味、熱、声。いつの間にか、随分と刺激の多い場所になったなと、図書室を見回す。あいも変わらず私と彼しかいないが、もう閑散なんて感じはしない。



 放課後、私は職員室に寄って鍵を借りてから図書室に向かう。いつもその間に彼が扉の前で待っているので、一緒に入る。それが恒例こうれいのパターンになっていたのだが、その日、彼は扉の前に居なかった。

 まぁ、いつも放課後すぐに教室を出られるわけでもないだろう。私は先に『現代催眠学基礎論』を読んで待っていようと思った。どうせ読めるのは私だけなので、彼と読む時間を合わせる必要はない。

 図書準備室に入り、静寂の中、本を読み進めていく。そしてしおりを挟んだところから新たに三ページほど読んだ所で、違和感を覚える。

 おかしい。読めすぎている。昨日まで一日に読み進められる量は一ページほどだった。この本を読むのに必要なのは催眠術師としての才能……その成長が、更に加速したということか。

 今の私なら、更なる先を読むことができる……そんな直感のままにページをめくる。あんじょう、私はそのページを読むことができた。ページを捲る手が止まらない。新しいページを読めば、私は成長する。成長すれば、更に奥のページ読めるようになる。自分の才能が解放されていくのを感じる。眼に入る物全て理解できる。

 きっとこのまま最後まで。そんな考えがよぎった、最後からかぞえて二ページ目。そのページは、読んだ術師を更なるふかみへいざなうための物だった。


『  』


 私はそのページを、一瞬で理解した。いな、理解させられた。暴力的ぼうりょくてきなまでの量の情報が、脳へなだれ込む。

「あ、ぐうう……!」

 脳が熱い。脳が何かでこじ開けられる。初めて催眠術を発動させた時に似ながら、その何倍もの感覚。脳に流れるじゃくな電流が、全て稲妻いなづまに成り代わってしまった。視界が四次元的よじげんてきに膨張していく。この世の全てが眼前にある。だがしかし、実のところ全て熱に浮かされた蜃気楼しんきろうなのだ。脳髄のうずいに何本ものはんだごてを突っ込まれて、神経が繋ぎ直されていく。いのち回路かいろなおされる。

 理解する。

 私は覚醒かくせいした。催眠術師として、あるいは一個の生命として。『苛烈幻覚』が常に発動する、今までとはくらものにならない速さと精密せいみつさと規模きぼで。誰にも、私でもそれを止めることはできない。既にそれは私個人の能力ではなく、世界を構成こうせいする物理の一つになっていた。否、『苛烈幻覚』が一つの世界をつくっているのだ。脳内と現実の境目さかいめがなくなる。思考した物が現れる。昨日の朝ごはん、通学路、信号機、部屋のクローゼット、記憶がランダムにループする。脈絡も意味もないが、それは今から見つければいい。ここが私の主観しゅかんに満ちていることが重要なのだ。背景はいけい極彩色ごくさいしきだ。水に落ちたが世界だ。ここが現実だ。現実は私が決める。全ては望むままだ。実在など関係がない。私の脳に存在するのならば、ただそれだけが意味を持つのだ。自身に発動した催眠によって五感は夥しく刺激しげきされる。しかし私が思い出していたのは静寂だった。ここは図書室に似ている。私以外は居ない。私が情報を咀嚼そしゃくするためだけにある、私が愛する沈黙に満ちた、閉じた世界だ。


 ふと、それを開いた人が居たことを、思い出す。


「透子ちゃん!」

 声がする。その方向に花輪君が立っていた。いや、床が設定されていないので浮いていると言った方が的確てきかくかもしれない。

「うわっ、こっ、これは……!?」

 この空間に圧倒され、花輪君が驚愕きょうがくまる。私にはそれが、とても滑稽こっけいな姿に見えた。驚きとは、意外な物に出会った時の感情だ。そして『意外』とは意識の外側と書く。何と不完全ふかんぜんな存在だろう。自分以外に、自分の価値をもとめねばならないなんて。

 それでも、彼のような反応が普通なのだろう。この世界は私以外に理解できないように創られているのだから。

 彼は所詮しょせん、私にとって『外』の存在だ。私には必要ない。こんな存在に心を開きかけていたことが、今では激しく馬鹿らしい。

「ここは私の『苛烈幻覚』が創った……世界よ」

 彼が実際にここへ来たのか、それとも私の記憶から生じた幻覚か、さだかではない。最早もはや関係かんけいのないことではあるが、一応のことを考えて忠告ちゅうこくしておく。

「ここから出て行きなさい。この世界は、私にとってのみ意味を持ち、私だけが理解する世界……私以外の人間はこの空間に耐えられない。正気を失うわよ」

 しかし忠告とは裏腹うらはらに、それを聞いた彼はそこに居直いなおった。驚愕や戸惑いをり、ただ一心に私を見つめている。

「……君は、どうなる」

「この世界に残るわ。私が私を定義ていぎし続ける完璧な世界……」

「それだと君は、また一人ぼっちじゃないか!」

 彼が叫び、私に向かって一歩踏み出す。するとたちまち無数の針が現れて、彼の体は串刺くしざしになった。この世界は、私以外の存在をこばむようにできているのだ。

「うぐっ……」

「いいのよ、一人ぼっちでも。永遠に解けぬ幻は、現実となんら変わらないから。他者の存在など要らない。私は閉じた世界が好きなの」

「なら、なんで俺に心を開いた!」

 また一歩、また一歩、私と彼の距離が縮まっていく。比例ひれいして彼の痛みは増幅ぞうふくされているはずなのに、その歩みはどうしても止まらない。

「思い上がりよ!私は……」

「嘘だ!本当は嫌いだったんだろう、図書室の静けさなんて!君を認める、誰かがずっと欲しかったんだろう!君はただ、自分の願いがかなわないのが怖かっただけだ!だから他人から逃げた、俺に出会うまで、ずっと!もう十分だ!もう、自分をいつわるな!君は……ずっと……」

 彼の言葉が途切れる。常人じょうじんなら発狂はっきょうしてもおかしくないほどの、地獄の如き苦痛。言語げんごなど焼き切れて当然だ。

 彼の足はがくがくと震え、それでもなお前に進むことをやめない。

 恐怖があった。私の世界が壊されてしまう恐怖。彼の精神が破壊されてしまう恐怖。

 私は、彼が今すぐ目をらせばいいと思った。頭がどうにかなる前に、ここからって欲しいと思った。しかしその願いだけは、現実にならなかった。

「寂しかったんだろう……?」

 彼は、ついに私を抱きしめた。あたたかな感触が私を包む。しかしこの熱は、私の希望きぼうが見せた幻覚かもしれない。この熱を信じるか、疑うか。閉じた世界ではありえなかったはずの、選択肢せんたくしが現れる。

「私は……」

 私は、信じることにした。論理的ろんりてき根拠こんきょなどない。ただ、信じたかったのだ。この熱が本物だと。

 そんな風に他者たしゃの存在を認めた時、『苛烈幻覚』の暴走ぼうそうは終わった。形成けいせいされていた空間は消え去り、辺りはただの図書準備室に戻った。

「あっ……戻った」

 痛みから解放された安堵あんどで、花輪君が大きく息を吐く。『苛烈幻覚』が解けても彼の存在は、彼の熱は消えない。彼は現実だった。

「どうして、痛みに耐えてまで、私を助けてくれたの……?」

「……言っただろ?俺が助けるのは、近くの人からだって」

 そう語る彼の声は、あくまで純粋だった。彼の夢は、偽善ぎぜんでも妄言もうげんでもないのだ。

 私は他人が嫌いだった。好く理由がない。けどそれは、嫌う理由ばかり探していたからだ。そしてそれは、とても馬鹿らしい生き方だったのだと、今なら分かる。

 目の前に、嫌う所のない人間が居る。彼を見ることができないのは、嫌だ。

「……本当、お花畑ね。今回は無事に収まったから良かったけど、そうならなかった場合はどうするつもりだったの?あなたくるぬかもしれなかったのよ?」

「なんだよ。助けてあげたのに」

「あなたの夢には、現実性がないわ」

「……あっ、じゃあさ。今度から透子ちゃんがそれやってよ。現実性係ね」

「そうね……それがいいわ」

 恩人おんじんの夢を手伝う。閉じた世界で生きるよりも、余程よほど意味いみのあることだろう。

「あっ、下の名前で呼んでも怒らない」

 彼は嬉しそうにそう言った。私が仲間に加わったことより、そっちの方が嬉しいらしい。

「……目ざといわね」

「よーし今度はこっちが下の名前で呼ばれるのを目標にするぞ」

「宏登君」

「やったぁ」

「ふふっ……」

 久しぶりに笑った気がする。本当はずっと、誰かとこうしたかった。

 図書準備室に、おだやかな時間が流れる。



・・・・・・



 とある人間の頭蓋ずがいから、脳を取り出したとしよう。

 その脳が停止しないように、冷たい培養ばいようえきしずませたとしよう。

 その脳に、脳波のうはを操る装置そうちつなげたとしよう。

 その脳に装置で、空を見せたとしよう。バイオリンを聞かせたとしよう。花をかおらせたとしよう。チョコレートを味あわせたとしよう。大切な人の熱を感じさせたとしよう。

 その脳が、あなたの物だったとしよう。

 ――『水槽すいそうのう』と呼ばれる思考実験である。

 あなたが見ている『これ』は、本当に存在するのだろうか?

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