3.強化術

 目が覚めると知らない天井だった。

 ……ここはどこだろう。どうして私は、知らない部屋で目覚めた?漠然ばくぜんとした恐怖から逃げるように、部屋を見回す。

 私はその部屋で椅子に座っていた。上を向いた首を正面に向ける。すると、第一だいいちに同級生の姿が見えた。

「岩倉君……?」

 同じクラスの男子が、目の前に座っていた。

「浅田、さん……」

 彼が私の名を呼び返す。私はとりあえず、ただのクラスメイトとはいえ知っている顔を見て安堵あんどしていた。

「あの、ここはどこ……」

「本当に、浅田さんなのか……?」

 この状況について質問しようとすると、それをさえぎられて逆に質問されてしまった。その問いかけは、この状況同様、私には理解不能な物だった。

「ど、どういうこと……?」

 自分の手を見てみる、顔を触ってみる。間違いない、これは私の体だ。まさか別の体に精神だけ移動してしまったなんてこともない。私は間違いなく浅田泉だ。だからこそ、彼も私を『浅田さん』と呼んだのではないのか?

「……声が聞こえたりしないか?俺には迷いがあった。二号を消してしまうことに抵抗ていこうがあった。本調子じゃなかったんだ。だから、もしかしたら解除が甘かったかもしれない。君の脳に、あいつの残滓ざんしがあるかもしれない」

 岩倉君が、顔を近付けて訳の分からないことをまくしたてる。二号?解除?脳?私は今、一体いったい何に巻き込まれているの?

「耳をましてみてくれ。もし二号の人格が君の脳に残っているなら、あいつの声を、聞いてやってくれ」

 詰め寄られて、混乱がぶり返す。軽いパニックになって、彼の言うがまま目を閉じて耳を澄ましてみる。けれど、ただ沈黙が流れるだけだった。

「聞こえない、よ?何も……」

「……そうか……」

 そう呟くと、岩倉君は顔をせてしまった。悲痛な、いたたまれない表情だったので、声をかけるのもはばかられた。

 だけど、それなら私は一体誰に状況の説明を頼めば……。

「図書準備室」

 唐突に後ろから声が聞こえて、体がびくっと跳ねてしまった。おそるおそる振り返ると、そこには綺麗きれいな女性が立っていた。その女性は私と同じ桶花高校のブレザーを着用している。風貌ふうぼうからして、私達の先輩にあたる人だろうか。

「えっと、あの……」

「あなた。ここがどこなのか知りたいんでしょう?答えましょう。ここは桶花高校の図書準備室よ」

 そう言いながら、女性が後ろ手で部屋の扉を開く。その先には見知った図書室の光景が広がっていた。

 一応、ここが私の知っている場所だと知って、混乱が少しおさまる。その間に女性は話を続けた。

「あなたの知りたいであろう他のこと……聞かれる前に答えましょう。あなたが一体、どんな目にあったのか」



 狐塚透子と名乗る女性の話は、私にとってにわかに信じがたい物だった。

「そんな……催眠術なんてあるわけないじゃないですか。それに美和ちゃんが、そんなこと……」

 私がそう言うと、狐塚さんは私に向かって指を振った。すると、先程さきほどまで何もなかった空間に美和ちゃんが現れる。

「……やっ。泉」

 陽気な挨拶だった。

「……美和ちゃん!?今、どうやって……」

「横江美和。あなたの口から説明しなさい」

 狐塚さんが美和ちゃんをせっつく。渋々しぶしぶ、美和ちゃんは語り始めた。

「あのー……まぁ……先に言っておくとね?罪悪感がなかったわけでは、ないんだよ?普通に、友達だったわけだしね?でもさぁ、こう、背に腹はえられないっていうかさ。こいつ邪魔じゃまだぁーっ!ってなっちゃったんだよね。ごめんね!」

「え……?」

 美和ちゃんは緊張きんちょう欠片かけらもない様子で喋る。嘘をついているとは思えない。

「でもさぁ、あんたも悪いんだよ泉。よりにもよって和真君に目を付けちゃうのはねぇ、駄目だよ、駄目。友達だったら普通先に好きだった方にゆずるもんだよ?女子なら分かるでしょ。ね?」

 ショックだった。岩倉君の前で私のおもいが明かされてしまったこと、美和ちゃんも彼のことが好きだったこと、それよりも、何よりも。

 美和ちゃんが、本気で私の精神を抹消するつもりだったことが、ショックだった。

 しかもそれをわるびれる素振りもない。美和ちゃんにとって、私はその程度の存在だったの?

「透子さん……もういい、横江を黙らせてくれ」

 岩倉君がそう言うと、狐塚さんがまた指を振る。美和ちゃんは現れた時の逆再生ぎゃくさいせいみたいに私の視界から消えて、声も聞こえなくなった。

「……浅田さん。透子さんが話したことは、全部本当のことだ」

「う、嘘!」

 私は、椅子から立ち上がっていた。

「……何かのドッキリなんだよね?だってそうじゃなきゃ、おかしいもん……だって、催眠術なんて……」

「さっき二回も見せたのに、まだ信じられない?」

「あんなのっ、手品てじなか何かで……」

「……これも、手品だと思う?」

 狐塚さんが三度指を振る。すると一瞬の内に図書準備室が炎に包まれた。

「っ、きゃああああっ!」

 悲鳴を上げても、ごうとうなる炎にかき消される。逃げ出そうとしたら、踏ん張る足がぼろりと燃え落ちた。

「あひっ、うぐっ」

 転んで、全身が炎に包まれる。爪の内側にも熱を感じ始めた時、それは終わった。

「へ……?」

 炎は、消えた。さっきと変わらない光景がある。どこにもげたあとなんかないし、私の足もちゃんとある。腹這はらばいに感じる床は、少し冷たいほどだ。

「これで分かった?」

 頭上から声が降る。狐塚さんの声。

 そこで先ほどの炎が全くの幻覚であったことを理解し、そして同時に、この人が言っていたことは全て事実だということも理解した。

 悲しみ、恐怖。拒絶しきれなかった感情、拒絶する暇がなかった感情。その二つが胸の内でぶつかり、溶ける。

「……ううっ」

 私は、図書準備室から飛び出すように逃げた。うっすら岩倉君の制止が聞こえたけど、それも無視した。

 あれ以上、あそこに居たくなかった。催眠術なんて関わりたくなかった。



・・・・・・



 家のベッドで横になり、スマートフォンに映る日付を眺める。一か月。表示される日付はもちろん、サイトの掲載けいさい日時にちじも、私の昨日の記憶から一か月飛んでいる。あれだけさとされておきながら、私はようやくこれを事実だと心から理解し始めていた。

 かばんを開き、学校のノートを確認する。受けた記憶のない授業の内容が、きちんとうつされている……私のそれとは違う筆跡ひっせきで。この一か月間、私ではない『何か』が代わりに生活していた証拠である。

 ノートを取る以外に、その『何か』はあらゆることを私の体で行動したことだろう。歩き、座り、食べて、眠り……あまつさえ、裸になってお風呂に入ったりもしたに違いない。その時、その『何か』がどんなことを考えていたのか……想像したくもない。

 記憶にある一か月の空白。そしてそこに確かにある『何か』の存在が、気持ち悪くて仕方なかった。

 不安になって、もう一度カレンダーを確認する。重要な日を、この『何か』が代わりに送ってはいないか。

 そしてはっとする。つい昨日は、妹の誕生日だった。

「ただいまー」

 丁度そこで、母が買い物から帰って来た。部屋から飛び出て、母へ詰め寄る。

「お母さっ、昨日……」

昨日のことについて聞きたい。しかし、私ではない別の『何か』がこの一か月の間一緒に過ごしていたとはさとられたくなくて、はっきりとたずねることができない。

 母はそんな私の様子から別の物を悟ったのか、口を開く。

「あぁ……大変だったねぇ、昨日きのう。あの子、誕生たんじょうすっぽかされただけでぎゃんぎゃん泣いちゃって」

 やはり『何か』は妹の誕生日について把握はあくしていなかったらしい。私はついに『何か』に対して怒りを覚えていた。姉のとしてのつとめをたさず、妹を悲しませたことに対する怒りだ。

 けれど、この怒りは次の母の言葉ですぐしぼむことになる。

「でもまぁ、泉もあの後すぐうちに帰って、いっぱい謝って。あの子も許してくれてたし、もうそんなに気にしなくていいんじゃない?」

「……そっか」

 きちんと謝罪し、当の本人からも許されたのなら、私が怒る道理どうりはない。やり場のない、もやっとした想いが心に残る。

 私は、何かを確かめるように母に再度さいどいかけた。

「ねぇ……私、この一か月くらい……変じゃなかった?」

「変……?そういえば、この前ご飯の感想言ってくれたのはめずらしかったね。お母さん、嬉しかったな」



・・・・・・



 眠る前、日記を手に取る。表紙には少しだけほこりが積もっていて、一か月の間一度も開かれなかったことがうかがえる。

 この一か月、『何か』は私の混乱を抑えるためか、極力きょくりょくわたしらしく振舞ふるまっていてくれたようだ。そのためには、日記でもなんでも調べて私という人間を推測すいそくするかてにするのが『何か』にとって合理的ごうりてきだったと思う。しかし、『何か』はそれをしなかった。律儀りちぎだ。

 日記を開く。当然だけど、日付は一か月前で止まっている。私は一か月飛ばしてまで日記を続ける気になれなくて、つくえおくにしまい込んだ。

 あるいは、この一か月分『何か』が日記を続けていれば、そこから『何か』がどんな性格か分かったのだろうか。

 狐塚さんの話が本当なら、『何か』は加害者かがいしゃではない。望まれずして生まれた被害者ひがいしゃだ。

 勝手に知らない人間にわることになり、知らない人間の妹にわめかれる。これって、とても理不尽りふじんじゃないだろうか。それでも彼は妹のため、もしくは私の立場のため、私として振舞うことを徹底てっていした。

 私の中に居た『彼』はどんな人間だったのだろう。私として生きていく中、どんなことを考えていたのだろう。そんなことを想像しながら、ベッドにもぐった。



・・・・・・



 目が覚める。目に入った天井は、昨日のように知らない物ではない。見慣みなれた、私の部屋の天井だ。見慣れた部屋、見慣れた布団、見慣れた扉見慣れた廊下見慣れた階段見慣れた間取り見慣れた家具。

「あ、お姉ちゃんおはよう」

「泉、おはよう」

 見慣れた家族。……これら全てが、彼にとっては未知みちものだったのだ。彼が感じたであろう困惑は、はかれない。

 パジャマから着替え、朝の支度したくを進める。私の記憶ではつい昨日も同じことをしていたつもりだが、実際には一か月ぶりなのだと思うと妙な気分になった。いや、正確には彼が毎日まいにちわたしの代わりに同じことをしていたのだから、やっぱり一か月ぶりでもないのか。

 次に、朝食を食べ終え、鞄を抱えて玄関げんかんに向かう。

「いってらっしゃい」

 背中から母の声が聞こえる。すぐには答えずちょっと考え込んで、一言ひとことすことにした。

「いってきます……ごはん、美味しかった」

 母は少し驚いた後、小さく笑って手を振った。これからは毎日言おうと思った。



 教室の扉を開けると、よく知らない女の人が教室で座っていた。けれど名前だけは分かる。狐塚透子さん。私に今回の事件を説明して……実際に催眠術をかけてきた人だ。

 てっきり年上だと思っていたが、同級生だったのか。いや同級生だとしても私と同じ教室に居るのはおかしい。

 何でここに居るんだろう……もう少し様子を探ろうかとも思ったけど、すぐに目を逸らした。もうあの人達とは関わらないことに決めたのだ。

 彼の人格について、岩倉君に聞いてみたいとも思ったけど……あくまで元が岩倉君だったというだけで、私の体に居た彼と岩倉君は別物べつものだ。

 私の中に入ってから、彼には彼だけの感情があったはずだ。二人をまるで同じようにあつかうのは、私には彼を侮辱ぶじょくしているように思う。

 ……では、どうすれば彼について知ることができるだろう。そんなことをちらりと思った。

 そして、彼について知りたがっている自分が居ることに気づいた。



 その後、別の催眠術師らしき人間の襲撃があり、二三日の休校が終わった次の日のこと。

 教師が授業の始めに、先週出した宿題プリントを回収すると言った。

 先週といえば、私がまだ私に戻っていなかった時の話だ。当然とうぜん、宿題があったことは今しがたの初耳はつみみであり、やってきているはずがない。

 けど、もしかしたらという思いでノートの間やクリアファイルを探してみる。そしてやはり、記入きにゅうみの宿題プリントがあった。彼が代わりにやっておいてくれたのだ。

 慌てて提出ていしゅつしようとした時、名前なまえらんが視界に入る。そこには『岩倉和真』と書かれていた。おそらく間違まちがえて、彼が自分の名前を書いてしまったのだろう。

 私はその名前を自分の物にえようとして……やめた。どうしてもその名前を、彼の象徴しょうちょうを、消したくなかった。そしてそのままプリントを鞄にしまった。この宿題をやったのは彼で、提出して評価を受けるべきなのも彼だ。私ではない。

 どうしてここに居るのが彼じゃないんだろう。なんだか私は、自分が場違いな気さえしていた。

 どうして彼は消えてしまったんだろう。消えたくて消えたんだろうか。彼は自分が消えてしまうことに、納得なっとくしていたんだろうか。

 瞳を閉じれば、さっきの四文字が浮かんでくる。『岩倉和真』。私の手で書かれた、私のじゃない筆跡の、私のじゃない名前。私にはそれが、彼の救難きゅうなん信号しんごうであるかのように感じられた。



 良くない。自分が危険な思考をしている自覚じかくがあった。彼に感情かんじょう移入いにゅうしすぎている。

 放課後ほうかご廊下ろうかを歩きながら考える。自分の足で歩いていることに、自信が持てない。私が私であることに違和感がある。いや、罪悪感すら覚えている。彼のことを考え続けていれば、引き換えに自分を見失ってしまうような予感があった。

 もし自分を守るのならば、彼について知ろうとしてはいけない。彼のことは忘れなくてはならない。でもそれはきっと、とても薄情はくじょう行為こういだ。

 もやもやした感情を引きずって歩いていると、ふと廊下に張り出された掲示けいじが目に入った。『図書室としょしつ便だより』という紙に、今月こんげつ入荷にゅうか新刊しんかんっている。私が楽しみにしていた恋愛小説のタイトルがそこにあった。

 おかしい。確か発売は二週間先にしゅうかんさきだったはず……と考えて、気付く。この記憶は一か月前の物だ。この記憶と現実の乖離かいりも、私が私である実感じっかん希薄きはくにさせていた。

 丁度ちょうどい。私の好きな物を読めば自我じがつよたもてるだろう。読書どくしょ経験けいけんが人格の一部になりることを、私は知っていた。

 きびすを返し、図書室に向かう。扉をっすらと開けて隙間すきまから室内をのぞき、狐塚さん達が居ないことを確認してから中に入る。

 新刊コーナーから目当めあての小説を手に取り、貸出かしだしカウンターへ持っていった。出席しゅっせき番号ばんごうなどを伝え、手続きを済ませていく。

「えー……と、浅田、泉さん。一年五組二番ね……ん?」

 カウンターに座る図書委員の生徒が復唱ふくしょうしながら端末たんまつ操作そうさしている途中、手を止めて画面を二度にどした。

「あのー、浅田さん。借りる本間違ってないですか?」

「え?」

「この本、借りるの二度目になってますけど」

 ……彼だ。彼が私の体で、一度この本を借りていたのだ。

 どうして?演技えんぎ一環いっかん?いや、私がこの本を楽しみにしていたなんて、彼には分かりっこないことだ。そもそもそこまで詳細に私を演じる理由もないだろう。

 つまりこの本は、彼がただ読みたいから……彼が彼の意思で借りた本だ。

「タイトルとか、一度いちど確認かくにんを……」

「あ、あってます!この本であってます!」

 本を受け取り、急いで家に帰る。

 部屋のベッドに腰掛け、改めて小説の表紙を見る。私は、これを読みながら彼のことを考えてしまうだろう。元々私のために借りた本なのに。彼を意識して、純粋じゅんすいにお話を楽しむなんてできないかもしれない。

 それでもいい。私は彼を知るために、この本を読む。読書経験が人格の一部になり得ることを、私は知っていた。

 意を決して、表紙を開く。



 物語は終わりを迎えようとしていた。主人公しゅじんこう二人ふたりが結ばれた、その後が描写びょうしゃされている。二人が歩いてきたみちのり、紆余曲折うよきょくせつを思うと涙腺るいせんに来るものがある。

 瞳が熱くなり、じわっと涙が滲んでくる。それを拭おうとした時、本の端に染みができていることに気付いた。

 拭うのが遅くて、涙が落ちてしまったのか。そう思い頬を触るが、そこに涙の筋はなかった。染みを指の腹ででてみる。すると染みには水気みずけがなく、ついさっきできたものではないことが分かった。

 ……彼だ。この涙は彼の涙だ。私と同じようにこのシーンで感動し、このページに涙を落としたのだ。

 ああ、そうだ。これが知りたかった。今まで頭だけで考えていたことを、心で実感する。

 彼は、生きた一人の人間だったのだ。



・・・2・・・



 何故なぜ俺はまだ生きているんだろう。

 目が覚めると、一冊の本が目に入った。次にその本を開いている手と、それらを乗せている膝、足元のカーペットが見える。

 俺はこの構図こうずを知っている。俺が浅田さんの体に入っていた頃、彼女の部屋で小説を読んでいた時の景色けしきだ。周りを見回そうと思っても体は動かず、見える物も動かない。

 最初、これは走馬灯そうまとうなんだと思った。『人格上書き』を解除され、自我が抹消される寸前に、二号だった頃の記憶を再生しているんだと、あくまで記憶の中の景色なので体も動かないんだと、そう思った。だが違った。

 視界がぐるりと上を向く。耳元でぼふっと音が鳴り、背中がやわらかい感触に包まれる。体がベッドに倒れ込んだのだ。こんな構図は知らない。これは走馬灯ではない……なら、俺は今何を見せられているんだ?

 体は動かないが、もしかして。

《生き返った、のか?》

 言葉にしようとしても、口はやっぱり動かない。その代わり、言葉が脳内で反響はんきょうする感覚があった。

 次の瞬間、体が勢いよく起き上がる。そして首がキョロキョロ動いて視界も右往左往うおうさおうする。

「今の声……もしかして、岩倉君?」

 口が勝手に動いて、喋り出す。そこで俺は、浅田さんがこの体を動かしているんだとさっした。

《浅田さん、これは一体……》

 相変あいかわらず俺に口を動かす権利はなく、意識した言葉は頭に響くだけだ。それでも浅田さんには聞こえているらしかった。

「や、やっぱり岩倉君だ……よく分かんないけど、かえったんだよ!……心だけ」

 浅田さんから詳しい話を聞く。俺の精神が一度、浅田さんの体から完全に消え去ったこと。それから数日の時をて、俺が借りた小説を読んだおりに、こうして俺の意識がよみがえったこと。

「本の力ってすごいよね……!」

 浅田さんにとって思い入れのある読書を通じて、俺の記憶と同じ経験をしたこと。それがきっかけになった可能性は高い。

 だがそれは、浅田さんの脳内に俺の精神が残っていなければ成立しない話だ。おそらくあの時、一号の『解除術』は不完全だったのだ。催眠術の発動に必要なのは強い目的意識。だが一号は俺を消してしまうことに迷いを持っていた。更に習得したてだったということもあいまって、俺の精神を消しきれなかったんだろう。まったく、中途半端ちゅうとはんぱなことをしてくれた。

「とにかく……良かったね、岩倉君」

《良かったね……?》

 そういえば彼女には、俺が生き返ったことに対する不安や嫌悪けんおが見られない。それどころか良かったねといわってくれている。

《俺のこと……消したい、って思わないのか》

「何で?何で岩倉君のこと、消さなくちゃならないの?」

 浅田さんが、何もない空中に問いかける。

《……何言ってるか分かってる?俺のこと消さなきゃ、ずっとこうしてのぞしながら、浅田さんの頭の中に居るんだよ……俺、男なんだけど。いいの?》

 いや、性別の違いがなかったとしても、一つの体に二つの精神が入っていればいくらでも不和ふわが生じるはずだ。

「そ、それはいいの。岩倉君になら何見られても恥ずかしくな……いや恥ずかしいけど、それだけだから……私、あの、好きな人になら……その、大丈夫だから」

 顔が急激きゅうげきに熱をびる。

「あぁ……言っちゃった……でも、今は考えてること全部バレちゃうし、言わなくても一緒だったよね」

《いや、そんなことはないけど》

「えっ」

 浅田さんの頭の中にんではいるが、彼女の思考が流れてくるということはない。

「で、でも、伝えなきゃいけない所だったし……うん」

 そんなことを言いながら、加速している心臓の音も聞こえ始め、顔の熱も体全体に波及はきゅうしていく。浅田さんが感じている熱を、俺も感じている。

 浅田さんが今これ以上ないほどの羞恥しゅうちを感じている証拠であり、さっきの告白が本気だという証拠でもあった。

 俺が俺の体に居た頃、教室内でしばしば浅田さんと目があっていたことを思い出す。あれは本当に俺のことが気になっていたのか。

 ……けれど俺はもう、岩倉和真ではないのだ。

《……違うよ浅田さん。この俺は、浅田さんが好きだった岩倉和真じゃない》

 浅田さんの体に移された時から俺は一号と違う生き方をして、違う存在になった。そうでなければ、俺は生まれた意味だけでなく、生まれた事実すら失ってしまう。あの一か月こそが、俺が俺である証明なんだ。

「知ってるよ」

 浅田さんが姿勢を正す。その所作しょさから伝わる誠実せいじつさを、同じ体を通して感じ取る。

「実はね、元の岩倉君はもうあんまり好きじゃないの。あなたを消しちゃったから……私が好きなのは、今ここに居るあなたなんだよ。自分を消してまで私の人生を守ろうとしてくれた、私の平和を守ってくれた、あなたが好きなんだよ」

 その言葉を聞き終えると、また顔が熱くなってきた。浅田さんは『あぁっ!』と叫んでまくらに顔をうずめた。

 俺はここに居てもいいのか?いや、いいはずがない。浅田さんが今どんな想いだろうと、俺の存在はきっと彼女をむしばむ。そうなる前に、俺は消えるべきなのだ。

《駄目だ、浅田さん。君は俺を消すべきだ》

 俺がそう助言じょげんしても、聞き入れられる気配はない。

「うん……ちゃんと消える覚悟をして、急に生き返ったんだから、すぐには受け入れられないよね……それでもいい、ゆっくりでいいんだよ。ずっと、私の中に居ていいから」

 その日は、それ以上会話することはなかった。

 浅田さんは、本気で俺のことが好きなんだろう……今の所は。それでもいつかきっと気付くはずだ。自分の中に、他人の精神があることの辛さを。

 そうなる前に、俺は消えねばならない。『ずっとここに居ていい』なんて甘言かんげんに囚われて、優しい彼女の人生をがいするような存在であるつもりはない。

 なんと不愉快ふゆかい矛盾むじゅんだろう。居心地いごこちが良いから、居心地が悪い。



・・・・・・



 次の日の朝。


 目を覚ます。重い体を捩りながら自分に挨拶する。

「おはよう》

 妙な感覚だった、自分への挨拶が二重にじゅうになって聞こえる。あれ……?自分への挨拶……?

 なんだろうこの違和感。分からない。私今おかしなこと考えてる?それも分からない。

《朝は頭が回らないなぁ」》

 あれ?今私声に出したっけ。どこからか声が聞こえる。ずっと前からこうだった気もする。

「《なくなる、消えてなくなる」

 それが一番良いような気がした。

《「俺もそう思う》」

 俺って誰だっけ。なんでここに居るんだろう。

 慌てて借りた小説をめくる。終盤しゅうばんのページを開き、涙の染みにそっと指をあてる。

 そして私はようやく、私と彼が別の人間であることを思い出した。

「……何、今の……?」

 あせが出てくる。今、私と彼の境界きょうかいが、無くなろうとしていた?

《やっぱり、一つの体に一つの精神……それがあるべき状態じょうたいなんだ。そうでない状態の者は……弱い方の精神が、淘汰とうたされるようになってるんだと思う。自我を正常に保つための自浄じじょう作用さようが、睡眠直後の混濁こんだくによって加速したんだ》

 彼の冷静な声が頭に響く。彼の言葉は難しい教科書のようだった。

「つまり、どういうこと?岩倉君は……どうなっちゃうの?」

《こうやって日を重ねるごとに意識が薄くなっていって……浅田さんの頭から、消える》

「だっ、駄目だよそんなの!せっかく、生き返れたのに……どうすればいいの?どうすれば、岩倉君は消えずに済むの?」

《……さっきも言ったけど、俺が消えた方が正常なんだ。このまま俺が居なくなるのを待てばいい》

「……!」

 このままでは彼が消えてしまう。絶対に、なんとかしなくては。



・・・・・・



 催眠術に対する知識が必要だ。だけど、狐塚さん達は頼れない。あの人達は私より近くで、彼が生きていることを感じながら、それでも彼を消してしまった。今の現状げんじょうを話せば、また彼の精神が消されてしまうかもしれない。そして、狐塚さん達以外に心当こころあたりは一つしかない。

 私達は今、とある廃ビルの前に居た。

 以前、美和ちゃんがここに入っていく所を見たことがある。後日聞いてもはぐらかされてしまったが、今なら分かる。彼女はここで催眠術を知ったのだ。……知ったはず。知ったのだろう。知った可能性がある。

 可能性があるからには、行ってみるべきだ。意を決して、敷地内しきちないる。

《浅田さん。戻るべきだ。女の子一人でこんな所に行くのは危ない……もし本当に催眠術師が居るんだとしたら、尚更なおさら

 脳内で彼がさとしてくる。けど、足を止めるつもりはなかった。

虎穴こけつらずんば虎子こじず……それに、一人じゃないよ。岩倉君がここに居てくれる」

 自分の言葉に、『そういえば』と気付きづく。

「そういえば、岩倉君は岩倉君じゃないよね」

《……どういうこと?》

「だって私の中に居るあなたは、元の岩倉君とは違う人なんだし……別の名前で呼んだ方がいいよ。あなただけの名前があるんだよね?そうじゃなきゃ狐塚さんや元の岩倉君が不便ふべんだもん……二人に、なんて呼ばれてたの?」

 私の問いに、彼は一瞬だけ口(?)をつぐんだ。

《……教えない。これから消える物の名前なんて、覚えなくていいよ》

 彼は自分を消える者と呼ぶ。まだ生き返ったことが受け入れられないようだ。

「……じゃあ、とりあえず呼ぶ時は『あなた』って言うね」

 一般的いっぱんてき二人称ににんしょうとして採用したつもりだったが、これだと私がお嫁さんみたいだなぁと恥ずかしい考えがよぎってしまった。考えてること全部バレちゃうわけではなくて本当に良かった。

《顔の熱さで照れてるのは分かるよ。逆算ぎゃくさんして、何を考えたかも分かる》

 私の顔は更に熱くなった。

 そうこう会話している内に、私達は廃ビルの最上階に辿たどいた。廊下から複数の扉を見渡みわたしている所に、その内の一つから人が出てきた。驚きで声が出そうになるのを抑えつつ、出てきた人物を観察かんさつする。

 人は二人居た。としが同じくらいの男女だんじょだ。

 男の人は長身のがっしりとした体格で、感情の読みづらい表情をしていた。女の人の方は対照的たいしょうてきに小柄で、私達を迎えるようにまなじりに小さく笑みをたたえていた。

 二人とも外見に特別とくべつへんところはないが……何故なぜか、男の人が女の人をお姫様ひめさまっこしていた。

「何か足音がすると思ったら……お客さんか」

 女の人が抱っこされたままこちらを一瞥いちべつする。私達のような来訪者らいほうしゃれているのか、向こうに驚いた様子はない。

「あ、あの、あなた達は一体……」

「あたしの名前は花輪はなわみちる。そしてこっちのでかいのが……」

 男の人が胸板を指の関節で叩かれ、それに応える。

躯川くがわまこと

「あっ、私は浅田泉……です」

 名乗られたので、名乗り返す。

「ん、泉ね……あんた今、聞きたいことが二つあるだろ。順番に答えてあげるよ。まず、あたしがお姫様抱っこされてやってるのはこいつがあたしのこと好き過ぎて抱きしめてないと落ち着かないから……次に、あたし達は催眠術師だ」

 催眠術師。女の子……花輪ちゃんの口から決定的けっていてきな言葉が出る。

「この催眠塾に来たってことは……催眠術について知りたいんだろ?来なよ、座って話をしよう」

 二人が出てきた部屋に戻っていく。ついていくかどうか、一瞬迷う。美和ちゃんに催眠術を教えたのだ、とても信用のおける人物とは言い難い。

かえすなら、多分ここが最後だよ》

 彼がこんなことを言うので、余計に足が固まる。

 私は、自分の頬を叩いて気合を入れた。

弱気よわきなこと考えちゃダメ……!」

 彼をとどめる方法は、この先にしかない。ならば行くしかない。すくむ足を動かして、部屋に入る。

「ようこそ、そこの椅子に座って」

 部屋の中央にはテーブルと、それを前後で挟むきゃく椅子いすがあった。躯川さんが、花輪ちゃんを抱っこしたまま椅子に座る。花輪ちゃんはそれが当然であるといった様子で、私に声をかけた。

 すすめられたままに向かいの椅子に座りながら、部屋の中を見渡してみる。テーブルの向こうにはソファがあり、毛布もうふ粗雑そざつに丸まっていた。その横の床にはいくつかレジぶくろが置いてあり、水や菓子かしパンなどの食料が顔をのぞかせている。もしかしてここにんでいる……のだろうか。

 他に人は居らず、じゅくという感じはあまりしない。

「それじゃあ、単刀直入たんとうちょくにゅうに聞くよ。あんたの願いは何?」

 花輪ちゃんが試すような口調で私へ問いかける。私は今までの経緯けいいを説明した。



「……はいはい、横江美和の『人格上書き』が一部消えずに残ったと……それで?」

「そしたら今朝、彼の人格が消えかかって……私、どうにか彼の人格を残したいんです!どうすれば、それができますか?」

 私がそう言うと花輪ちゃんが一瞬、呆然ぼうぜんとした。そして無言のままうつむき、くくっ、と喉を鳴らす音が聞こえる。次第しだいにそれは大きくなっていき、ついに大声で笑い始めた。

「あはっ、あははははっ!おい聞いたか誠!この女、大当おおあたりだ!」

「ああ。よかったな、みちる」

「お、大当たり……?」

「いやぁ……才能あるね、ってこと」

 いまいち、話が見えてこない。

「才能……って何の才能ですか?」

「催眠術師の、だよ……誠、あれ出せ」

 躯川さんが、懐から青い背表紙の本を取り出して花輪ちゃんに渡した。『現代催眠学基礎論』というタイトルがちらっと見える。

「結論から言うと、あんたの中の『彼』を留めることは、あたし達にはできない。だからあんたが自分でどうにかするんだ」

 花輪ちゃんがびしっと、私の顔を指差す。

「泉。あんたには催眠術師になってもらう」

 


・・・・・・



「……終了。今日の特訓はここまで」

 タイマー停止の音が鳴る。

「っふぅー……」

 合わせて、大きく息を吐く。言われた通りの内容を十五分間、思考し続けるのはそれなりに集中力が必要だった。

「……あの、花輪ちゃん。本当にこんなので催眠術を覚えられるの?」

 花輪ちゃんは言った。『人格上書き』が『解除』されかかっているなら、あんたが『強化』してやればいい。と。

 そのため私は、催眠術を強化する催眠術。その名も『強化術』を習得することになった……けど。たった一日に十五分考え込むだけでは、本当に効果があるのか不安になってしまう。

「ふーん……そう思うなら、そうだな。試しに『彼』に何かしゃべってもらいな。あいうえおとか何でもいいから」

 数秒後、彼の声で《あいうえお》と聞こえてきた。

「どう?今朝よりはっきり聞こえたりしなかった?」

「……別に、同じような気がする……ただ《あいうえお》って」

「うん。それならやっぱり上手く行ってるよ」

 花輪ちゃんが、青い本、『現代催眠学基礎論』を開く。

「『彼』は精神だけの存在なんだろう?それなら意思の有無うむが重要、つまり意思が乗った言葉より、他人に言わされた事務的じむてきな言葉の方が聞き取りづらいはずだ。なのにあんたは、ただの『あいうえお』を今朝と同じに聞こえると言った。相対的そうたいてきに、彼の存在が今朝けさより強まっていると考えるのが自然だ。そうだろう?」

 そう言われれば、そんな気もしてくる。

「心配しなくていい。言った通り、あんたには才能がある。後一か月もすれば、『彼』にその体を完全にわたす所まで行けるはずだ」

「うん……!」

 彼も、実際に体を動かしてみれば生の実感が湧いてくるはず。そうなればきっと自分を消した方が良いなんて思わなくなるだろう。そのために、絶対にこの催眠術を極めてみせる。

「そろそろ日が暮れる、今日はもう帰った方がいい。明日またここに来な、稽古けいこをつけてあげるから」

「うん、今日はありがとう。ばいばい花輪ちゃん……」

「あ、ちょっと待って」

 席を立ち、部屋から出ようとした所を、呼び止められる。

「んーと、そうだな。ちょっと恋バナでもしようか」

「恋バナ……?」

「多分だけど、ここから長い付き合いになるんだ。だから仲良くなろう。あんたもなるべく仲良い相手から学びたいだろう。それで恋バナ。嫌?」

「ううん、花輪ちゃんがしたいなら、いいけど……」

 わざわざ仲良くなりたいと宣言するなんて、ちょっと距離のかた独特どくとくだなと思った。

「ありがとう。じゃあ早速……泉は『彼』のことが好きなんだろう?」

 そう言われてのどおくが、うっ。と鳴った。今日きょう出会であった人に見抜みぬかれてしまうとは……そんなに分かりやすく態度に出てしまっていただろうか。いや……態度たいど云々うんぬんより、『彼』のためにこんな廃ビルまでさんじている時点で、さもありなんといった所か。

 指摘してき肯定こうていしようとすると、喉元の羞恥しゅうちしんがそれをとどめようとする。しかし彼女はどうも私の想いを確信しているようだし隠しても無駄だろう。それにこういうことは、何度も口に出して、今の彼に伝えなければいけないような気がした。

「うん……私は彼のことが……好き」

「うん……やっぱりね」

 顔を熱くしながら、やっとの思いでそれを口に出す。けれど私の中の彼からは特に反応がなく、とてもいたたまれない気持ちになったので無理矢理むりやり話題わだいを変えることにした。

「花輪ちゃんの方は……やっぱり躯川さんのことが好きなの?」

 私も彼女の想いをほぼ確信していた。自分を好きだという男性と一緒に住み、挙句あげく姫様抱ひめさまだっこまで許していて、好き合っていないはずがないと。

 しかし、彼女の答えは否定だった。

「……違う。私はこんなでかいだけの木偶でく、好いてなんかいない」

「えっ……」

 躯川さんの様子を見てみると、その表情に特に変化はない。どうやら今みたいな言葉は聞き慣れているようだ。

「その……照れ隠し?」

「いや……そもそも、私にこいつを好きになる権利なんかないんだ」

 花輪ちゃんが、目を伏せながらそう呟く。

「みちる、俺は……」

「黙れ」

 何かを言おうとした躯川さんを、花輪ちゃんが強い語気ごきで制する。何やら、複雑な関係らしい。少なくとも、私が軽々に聞くべき物ではないように思える。

 一呼吸ひとこきゅういて、もう一度花輪ちゃんが口を開く。

「あたしの話はいいだろ。それより泉の話だ……あんたの中に居る『彼』は……いつまでも『彼』って呼び方じゃ不便だな。『彼』の、『彼』だけの呼び名はある?」

「あるらしいけど……まだ教えてもらってないの」

 ふと、不安になる。私が強化術を覚える前に、彼が先に消えたらどうしよう。今朝の恐怖が頭をよぎる。

 ……いや、こんな風に悪いイメージを持つのは、催眠術的にもよくないとも花輪ちゃんは言っていた。もっとポジティブに考えよう。明日の朝もきっと、彼は元気だ。



・・・2・・・



 目が覚める。目に入った天井は、以前のように知らない物ではない。一か月間、ここで寝起ねおきを繰り返していたのだ。そしてまた、ここで目覚めることになろうとは。

 手のひらを動かす。にぎって、開く。浅田さんの体は、間違いなく俺の意思で動いていた。そして、頭の中で浅田さんの声が聞こえるなんてこともない。彼女の体の主導権しゅどうけんを、完全に握った。

 無事、乗っ取りは成功したようだ。

 乗っ取りに成功した理由は三つ。浅田さんが、完全に俺を受け入れてしまっていたこと。浅田さんがしていた特訓を、俺も同時にしていたこと。そして、俺が浅田さんよりはるかに才能を持っていたからだ。

 俺は催眠術によって産まれた存在。故に、催眠術を疑うことがない。それは催眠術師として大きな才能であると、『現代催眠学基礎論』にしるされていたことを覚えている。くわえて、効率こうりつが下がらない程度にいくつか『約束』もした。俺の『強化術』は既に実用化じつようかいたった。

 ……それにしても、たった一日でこうなるとは思わなかったが、そこは俺の目的意識の強さのあらわれだろう。

 乗っ取りを行った理由は一つ。これ以上、浅田さんのわがままには付き合ってられないからだ。



 浅田さんの家族との朝食。浅田さんの家からの登校。俺がこれをするのは、今度こそ、これが最後だ。

 俺という存在を、今度こそ完全に、欠片も残さず、抹消させる。

 教室の扉を開いて、一号を見つける。隣に横江美和も居た。おそらく透子さんが情報を引き出す駒として迎え入れたのだろう。気にせず一号の前に立つ。

「……浅田さん。何か用?」

 一号が俺に向き直る。その手のひらを見ると、自分が消えていく瞬間が想い起こされる。

 唐突に、体が動かなくなった。

「……何しに来たの泉。まさかまだ和真君のことを」

「黙ってろ」

 一号が横江美和をはたく。そのまま黙って俺の、浅田泉の言葉を待っている。だが、俺の口は動かず固まったままだ。乗っ取りが不十分だったか、ここで浅田さんに体を奪い返されてしまったか、とも思ったが、浅田さんの気配は感じない。

 どうした。早く言うんだ。俺の精神は残っていた、だからもう一度消してくれと。早く言わなければ。

 ……いや、でもこいつは俺を消すことに罪悪感を覚えていた。二度も同じことをさせるなんてこくじゃないだろうか。違う、そんなのはただの言い訳だ。言い訳?何に対する言い訳だ?

 俺はまだ、消えたくないのか?

「……浅田さん?」

 一号が怪訝けげんそうに声をかける。

「岩倉君を、消してくれてありがとう」

 ようやく動いた口が発した言葉は、それだった。



・・・・・・



 目が覚めると、窓の外ではもう日が暮れかかっていた。

 なんとなく、ただ私が眠り過ぎたわけではないことを、理解していた。……彼が、私の体を乗っ取って過ごしていたんだろう。スマートフォンの電源でんげんけ、日付を確認する。

「……一日、かからなかったんだね」

 持ったスマートフォンを置こうとした時、手首にすっとした痛みが走った。見てみると、小さなきずがある。机の上にはナイフが置いてあった。

《見ろよ》

 ぽつりと、頭の中に呟きが落ちる。

《俺が付けた傷だ。俺はもう、気がくるっているんだ。このまま俺を存在させ続けたら、俺はきっと君を殺す……そうなる前に俺を消すべきだ。君自身の意思で》

「……あなたは、何が怖いの?」

《怖いのは、俺が君を殺してしまうことだけだ》

「違う。あなたは私に殺されるのが怖いんでしょう……まだ分からないの?」

 私は、彼を抱きしめた。

 はたから見れば、自分自身を抱きしめているように見えるかもしれない。でも私には確かに抱きしめるべき人が居て、その熱を感じる人が居る。

「あなたが居るから不幸になる人なんて、どこにも居ないんだよ」

 心臓しんぞうふるえる。

《何でだ……何で、俺を拒絶きょぜつしない》

「あなたが、私を守ってくれたから。だから今度は、私があなたを守る番」

《俺は俺が消えることを望んでるんだ。俺のことを想うなら、俺の望み通りにしてくれ……》

「嘘。あなたは自分を受け入れて欲しいんでしょう?」

《……そんな訳があるか!本当にそうなら、君の体を傷つけたりはしない!》

 彼の声が強く響く。まるで悲鳴だと、私は思った。

「私は、まだあなたが好きだよ」

 また顔が熱くなるのを感じる。でも、それを伝えることが大事なんだ。

「多分……あなたはかさぶたをはがす人なんだね。もう傷がなおったかどうか気になって、何度もかさぶたをはがす人……いいんだよ、それでもいい。何度でも確かめて。あなたが安心できるまで。私も何度でも、恥ずかしくても、『大好き』って答えるから……あなたが私を信じてなくても、私はあなたを信じてる」

 しばらくして、不意ふいに涙が零れた。でもこれは私の涙じゃない。私は何にも悲しくなんてないからだ。

「……分かる?これ、あなたの涙だよ。あなた今、泣いてるんだよ」

 頬が涙に濡れて熱い。この熱が、彼が存在するあかしだった。



・・・・・・



「へぇ……一日でもう『強化術』が使えるようになったんだ」

 昨日と同じ廃ビルの一室。花輪ちゃんが驚いた様子をみせる。

「うん。先に彼が使えるようになって……一緒に私も使えるようになったの」

「珍しいケースだな。いや、予想よそう以上いじょうだよ。泉……そういえば、『彼』から名前は教えてもらえた?」

 花輪ちゃんが抱っこされたまま、私達の顔を覗き込む。

「えっとね、『二号』……って言うみたい」

「『二号』……どうにも便宜的べんぎてきな名前だ。他にはないの?」

「うん。一号とは別の存在であることを示す名前だから、これでいいんだ……って」

「ふーん。まぁあんたがそれでいいなら別に問題はないんだけど。誠、ペンと紙」

 躯川さんが、要求ようきゅうされた物を手渡す。花輪ちゃんは受け取ったそれに『二号』と書いた。何をしてるのと聞く間もなく、彼女はそれを丸めてんでしまった。

「は、花輪ちゃん!?早く吐いて……」

「泉。あんたが世界で一番好きな人は誰?」

 花輪ちゃんが私の言葉を遮って、私に問いかける。

「え?花輪ちゃんだけど……」

「くくっ……そんな泉にたのごとがあるんだけど。聞いてくれる?」

「もちろん!」

 世界で一番大好きな人のために何かをすることは、世界で一番の幸せだ。

「あはっ、あははははっ!」

 花輪ちゃんが大きな声で笑う。世界で一番大好きな人が笑顔だと、私も嬉しくなってくる。

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