池畔の淑女

リペア(純文学)

池畔の淑女

「おい!まだこんなことも出来ないのか!!!!」


聞こえてきた部長の文句に声を上げながら目を覚ました。ここはバスの中、八幡二丁目はまだ遠い。

「次は中田四丁目です。」

アナウンスが入る。バスを間違えていることに気がついた。降車ボタンを押す。


会社から自宅間は距離があり、いつもバスで帰っている。八幡二丁目バス停は自宅の最寄りだが今日は乗るバスを間違え、少し離れた中田町へ来てしまった。この場合、わざわざ来た道をバスで戻ってから正しい帰路に就くよりも、ここから丘を越えて歩いて行った方が短時間で済む。三百円を払ってバスを降りた。


木が生い茂る儚蝶ヶ丘むちょうがおかの階段を登って行く。ここは来たことがない。麓の住宅街と言い、公園と言い、子も居なければ恋い添う人も居ない私とは無縁の土地であった。


既に夜空が辺りを漆黒に照らしている。街灯の光を頼りに、右や左へ曲がる低い階段をひたすら踏んで行く。


すると、突然一帯の電灯の一切が光を切らした。漆黒に包まれ何も視界に映らくなった。木々の揺れる音が私の肝を針でつつく。戦きながら、握った手すりに沿って足を進めるこことする。


階段が終わった。暗い中、充電一パーセントのスマホで辺りを照らした。もうしばし平坦なレンガの道を歩くようだ。光を消して、手すりに沿って歩いていった。


歩くたびに、私を囲む木々の密度が濃くなっていき、突然舗装されてない道を踏んだ。またスマホを出し、辺りを照らして先へ進む。


道を行くと、先の方に水の匂いと音を感じた。突然電灯が一本、私の上で光を戻した。すると、目の前に池が見えた。周りに木々が生い茂る中、池があった。スマホをしまって池の様子を覗き込んだ。穢れ一つなく澄んでおり、この池は近くに住宅街があることを忘れているようだった。


休憩がてら、ほとりに座り込んだ。近くにちょうど良い石を見つけた。拾って池に投げ込む。私に歪な釘で刺さっていた嫌な出来事を一つひとつ葬り去るように。


結構ここは標高が高いらしく、人や車の忙しい音はせず、ながく無音が聞こえた。



「ねぇ」


突然後ろから囁かれた。慌てて後ろを振り向く。一人の白いワンピースを着た少女が私を覗いていた。身を守ろうと私は彼女の元から慌てて飛んで、距離を置いた。

「君、迷子?」

彼女の存在の訳を聞いてみる。彼女は「違う」とだけ返答した。

「どうしてここに居るの?」

少女はこの私の質問に気もくれず、質問で返してきた。

「ねぇ、私あなたに聞きたいことがあるの。」

彼女のその10代半ばらしい容姿から、私は質問に答えてあげるべきだと思った。

「なんだい?」


──「生きてて楽しかった?」



***

…思い返せば、私は生きることが楽しいとは思ったことが無い。私は会社勤めで、一応大人になっても友を作らず恋もせず、成功もしなければ上司から文句を毎日のように食らっていた。要は、“色の無い”世を送ってきた。生きていて楽しかった事なんて私にあっただろうか。これまで歩んできた道に楽しさはあったのだろうか。…



「ちょっとその質問、難しいかな。いずれキミが成長したら分かるよ。」

すると彼女は不思議な返答をした。


「やっぱり答えれないよね」


”やっぱり“とは──

彼女は質問を重ねた。


「どうしたら楽しい人生を送れるの?」


楽しい人生──


「どうしたら“色のある”人生を送れるの?」


“色のある”人生──


私は目を瞑って“色のある”人生とは何かを考えた。恋をするか、留学をするか、好きな仕事をすることか、気ままに生きることか…


「分かったら、この池にいる私に教えに来て。」


目を開けると、少女は失せていた。



***

池の奥の方に下へ行く階段があった。その下る途中、私は目の前に居る虚空に一言申した。


「だって俺はそういう人だから、色めいた運命が用意されていなかったから、無いことは仕方が無いんだよ。」




***

自宅に着いた頃、午前二時へと時刻が変わろうとしていた。氷を入れたグラスに酒を入れ、ソファに背を持たれて少女の質問の答えを考えていた。


「“色のある”人生ねぇ…。」


根暗で勉学に励む、人望の薄かった私の今までの人生で「人生経験」と明言できるのは、学生のうち数回あった受験と就活だけであった。親にはベンキョウし、シンロをひらき、シュウショクしろと諭され、まさにその道をつたった。他の数少ない友人と言えば恋愛だの結婚だの、留学だの昇格だの、芸能界へ入ったと風の便りが来たこともあった。なべて私とは無縁の楽しそうな人生を送っている。私もそんな色のある人生に生きてみたかった。

神様は私にそのような“色めいた”楽しい経験をする運命を授けてくださらなかった。私に楽しい体験をする運命など最初から無かったのだ。つまり私は神によって生まれつき色のある人生経験をしないように造られたヒトなのだ。そう納得していた。

色彩めいた経験は与えられず、私が身を尽くす事も無ければ、これまでの歩みに楽しさも無い。人生の上下もない平凡なヒトとして生きるしか無いのだ。



***

後日、仕事を終えバスに乗ってまたあの池に向かった。今日の日中も特に変わったことはなく、ミスに怒られ、仕事を投げられ、何もいつも通りであった。


またあの階段を暗い中登っていく。少し登ると、ふもとの車の音が聞こえなくなった。すると、突然電灯が消えた。身体が反射を起こす。木の揺れる音が辺りを支配した。昨日と同じことが起きている。今日はスマホを充電してきたので、地をライトで照らしながら一段ずつ登って行った。


階段が終わり先へ歩くと、やはり池があった。私は畔に立ち、少女を呼んだ。



「来てくれたのね。」


やはり私の後ろに現れた。私は少女のほうを向かないまま、なかなか回答が出来ない旨を伝える。


「ごめん、俺一晩考えたけど答えるのに時間がかかりそう。どうか別の人に当たって欲しい。」


私の提案も虚しく、彼女はまた私に問いをした。


「人の運命って誰が決めてるんだろうね。」


「俺にはちょっと、よく分からないかな。」


すると少女はこう言った。


「あなた、“神様が私に色のある運命を授けてくださらなかった”とか思っているようだけど。」


何故か少女は昨日の晩私が考えた言い訳を知っていた。誰にも口外していないはずだが。


彼女は私を見透かしているようであった。少女は私の前に来て、口を続けた。


「“色めいた”人生を送ることができないって、ホントに最初から決まってたのかなぁ。」


「俺には出会いも無ければ人望も持たなかった。いや、持てなかったんだよ。俺はそういう運命なんだ、俺はそういうことしちゃいけないんだなって、そうだろ?俺の生き方に色が無かったことなんて仕方がなかったんだ。」


私は弁解に必死となってしまった。しかし、少女は柔らかい口調で言い返してきた。


「そうやってと言い訳して最初からできないって思ってるからじゃないかな?」



「例えば、なんであなたの友人は結婚することができたの?」


「それは、アイツにパートナーと結婚する運命が用意されてたから…」


「違う、アイツ“が”恋を結ぶ運命を創り出したのよ。必死にアプローチをし、必死に手紙を書き、付き合ったと思ったら喧嘩をし、その時は膝をついて謝意を述べ、身を削り指輪を買って彼女と結んだ。粉骨砕身して彼女に尽くしたらからだと思わない?」


何も言い返せない。


「あなたはこれまでの人生、楽しかった?何事もなく無難にレールを渡ってくる人生に生き甲斐ってあった?」


少女は背後についた。



──運命って、ホントに誰かが決めたものなのかな?



振り向いて少女の姿を見ようとしたが、少女は居なかった。



***

3年後、私は職場の先輩と結婚した。私から食事に誘い、私から愛の云々を伝え、私が“結婚”という運命を築き上げた。新婚生活の中私は彼女を何回か旅行へ誘った。アメリカ、ブラジル、エジプト、ヨーロッパ。各地の噴水前でキスしながら自撮りを取った。その写真は今テレビの下に立て掛けられている。

また、先月長女が誕生した。愛らしい眼、もちもちの容姿、妻に感謝し、ここまで生きていて良かったと涙で頬を濡らした。



***

とある日、近所にある儚蝶ヶ丘に、あの少女に会いに行った。前とは違い、太陽が木漏れ日を作り出している時間帯であった。生い茂った木の中の階段を登って行く。


階段が終わった。歳をとって衰えた身体は息切れが止まらず、悲鳴をあげていて、最後の方は下を向いて登っていた。私は顔を上げて舗装されてない道のあった方、池のあった方を見る。


すると、そこに広がっていたのは周りを手すりに囲まれた、下に住宅街を臨める広場であった。私の二度の経験上、ここには密度の濃い木々に囲まれた池があるはず。来る道を間違えたかとスマホの地図を開いた。すると、儚蝶ヶ丘には水場を示す青く塗りつぶされた箇所がないことが分かった。まるでここに何も無かったことを象徴するような、葉を交えた風が私に吹きつけた。




今日も誰かが少女のまやかしにあっていることだろう。

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