第9話

 スピーチを始めた父は十数秒ほどで喋るのを止めた。それを見ていた僕は、父は頭がいいから読めない漢字などある訳ないだろうし、まさか自分で書いた字が汚くて読めないのかと考えた。その考えも一瞬でどこかへ行ってしまった。そうではない。父は目をつぶって両肩を大きく上げている。一生懸命何かを堪えて、言葉に詰まっている。式場が少しざわついた。そして父は両手で持っていた紙から右手を離し、目を拳で拭った。父は涙を流しているのだ。僕はその父の姿を見ながら、「何故、父は泣いているのだろう?それに父の泣いている姿も生まれて初めて見た。一体どういうことなのだ?」と思った。それから父は必死で涙を堪えながら、またバレバレなのに自分が泣いていることがバレないように声を振り絞ってスピーチを途切れ途切れに続けた。また、母も目を力いっぱい瞑り、両手で父の左手にしがみついていた。その姿はもうおばあちゃんと呼ばれるほどのか細い弱弱しいながらも自分の持てる精一杯で父を支えているように見えた。別に手塩にかけて大事に育ててきた一人娘を奪われた訳ではない。そういう種類の涙ではない。人間の流す涙なんてとても分かりやすいものだと僕は思っていた。そんな僕でも父の涙の理由は全く分からなかった。人は誰しもがそうかもしれないが、地雷のようなものを抱えていると僕は思っている。本当に悪意のない何気ない一言で異常に怒りを表す人もたくさん見てきたし、そういうものはとても繊細であり、また必ず明確な理由があって。例えるなら小さい精巧な腕時計はその歯車全てに意味があり、正しい時間を刻む。父の涙もそういう類のものだろうと僕は思った。ただ、その父の姿は今までで一番偉大に見えた。父の刻む時計は実に壮大なる、想像では計り知れない数の歯車で正確な時を刻んでいたのだ。母の姿は大いなる母性の愛と純粋なる、まるで信者が教祖を信じるような想い。その手入れをするにしても一流の職人でさえ気が狂うほどの壮大なる時計をこの人は実に長い間逃げ出さずに連れ添ってきたのだ。

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