第10話

 僕の二番目の子供が僕に「じいじはなんで泣いているの?」と聞いてきた。僕は少しだけ考え込み、「お父さんはじいじじゃないからね。あとでじいじに聞いてごらん」と答えた。そして僕はその二人の姿を目に焼き付けた。記憶の中からいつでも取り出せるように、その精一杯の、壮大なる時計に感情が宿っていることを。意思を持たないコンピューターが自殺してしまうような今のこの時代に。こんな人が、いるのだと。

 父のスピーチが終わり盛大なる拍手が父に送られた。その後、喫煙所で会った父はいつもの父に戻っていたが少しだけ饒舌になっていた。「なんでや」、「分からん」、「なんでや」、「やっと楽になれた」、「お前の煙草は何を吸っている?」と。その日、兄は「俺が親父を泣かせたんだ」と頓珍漢なことを言っていた。翌日、父は業者を手配して犬を埋葬した。僕の二番目の子が父に泣いた理由を聞いていたが父はいつもと同じ作り笑顔で「じいじはもう年寄りだから。人は年を取ると涙もろくなるのだ」というようなことを言っていた。いつもは遠くに住んでいるから電話でしか話をしない母は実に久しぶりに僕と話をすることを楽しみにしていたようで、そういう母の気持ちを僕は感じ取っていたので最後の夜遅くに示し合わせるように実家のリビングで母とテーブルをはさんで向かい合って話をした。母は気を利かせて灰皿をテーブルの上に用意していた。いくつになっても母の前で煙草を堂々と吸うのは後ろめたい気持ちになる。また、父には体に悪いからと母は父の一日に吸っていい煙草の本数を決めているらしく、灰皿も極力隠していると聞いた。母は「もう少しこっちに帰ってくる回数を増やせないか?」のようなことを言ってきたが僕は言葉を濁し、仕事や子供の学校のことを言い訳にし、努力はするように頑張ると心にも思っていないことを簡単に言ってはぐらかした。また、僕の吸う煙草の本数にまで母は言及してきたが僕は「今日だけで、いつもはそんなに吸ってない」とはぐらかす。そして母は「あんたは父さんに似てきたなあ」と言った。それは何となくわかる気がした。喋るのが面倒くさいと感じることが増えた。自己認証欲求みたいなのは僕も持っているのは自分でも分かっている。ここまで生きてきたら報われない努力や知ってほしい真実をいくつも自分の心の中でそういうものに蓋をしてきた。そういうものは口にするだけで人には言い訳や見苦しさ、みっともなさを見せてしまう。「目の前の自転車に乗ったおばあちゃんが財布を落としたから、逆方向だったけれど必死で追いかけて何とかおばあちゃんに追いついて財布を手渡しても何もお礼も言ってもらえず悲しかったけれど、自分はいいことをしたと思っている」という同僚の言葉を聞いた時も「そんなこと、わざわざ誰かに言うことではないだろう。逆に自分のずるい部分もこの人はみんなに報告するのか?」と僕は思ってしまう。僕自身、人には言えないずるい部分も卑怯な部分もたくさん持っているし、そういうものを誰かに言わないことでちょうどバランスがとれているものだと思っていた。

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