十九日目 スズメバチ

「またやっと、会いに来てくれましたね……」


 迫ってくるものに驚いて、俺は尻もちを突いてしまった。命の危険を感じて逃げようと思ったのだが、彼女の執念には間に合わなかったのだ。


 また会ったのは、スズメバチ。困ったように笑っている。


「あ、あの、どいてくれますか?」

「どうしてです?」


 地面に腰を下ろしてしまった俺に馬乗りになっている。いつも通りの文言を告げるがきょとんとした表情で質問された。

 しかし、いまどかれたら虫の姿に戻ってしまうのではないだろうか。そうなると刺されてしまうのではと気がかりだった。


「あたしは幹也さんの内室なのに、どうして側に居てはいけないんです? そんなことありませんよね?」


 内室? 内室って何だ? あー、さっき聞いたな。ってことは、つまり、俺の嫁!? スズメバチは、俺の嫁!? そういう意味になるんだよね……?


「いやっ、貴女をお嫁さんにした覚えは、ないんです、けど……」


 否定するのが申し訳ないほどの美人なので、だんだん小声になっていく。でも俺スズメバチを奥さんにした記憶は本当にないんだよ。人違いじゃないんですかねぇ?


「どうして? あたしと貴方は強い因果で結ばれているんです。忘れてしまったのですか?」

「うーん……」


 やっぱりどうあっても思い出せない。再三思っているが俺の記憶力はアテにならないのだ。でもそんな強烈な思い出だったら嫌でも覚えている気がするんだけど。


「魂に刻まれた運命の相手なんですよ? だからあたしは幹也さんと一緒になるんです。ならなくちゃいけないんです。だってそれは決まっていることなんですから」

「へ? 決まってること? 俺、何か決めたっけ?」


 その言葉は、相手の何かに触れたようだ。薄く笑っていたが真顔になり、瞳が大きく見開かれる。怒りとも取れるし絶望とも取れる表情は、少し恐怖を与えることに成功した。


「覚えていないのですか? だって生まれる前から約束したじゃありませんか。ずっと一緒だ、って。共に生きるのだ、って」


 俺はハチに諭されながら、ムネアカオオアリの言葉を思い出す。怖いお姉さん、とは、どう怖いのか。彼女は確実に病んでいた。いわゆる、ヤンデレってヤツだ!


 その対処法は俺にも分からない。だって彼女居たことないし。この手の女性は付き合っていれば問題ないが、浮気や別れたりすると平気で人を傷付けるタイプだ。その分析くらいは俺にだってできるが、できれば付き合わないで穏便に収める方法を知らない。


 いくら好いてくれているとはいえ、いくら断ったら刺される危険性があるとはいえ、虫とは交際も結婚もできない。前世を持ち出されても俺はいまを生きているわけだし、いまの人生をそんなことで決めてほしくなかった。本当に約束していたのなら、スズメバチには申し訳ないが。


「あー、その、そういった話は、もう少し大人になってからと言うことで……」

「いい加減待ちました。待ちくたびれました。やっと迎えに来てくれたと思ったのに!」


 惜しいがまだ結婚できる歳ではないし、ここは法律の盾を振りかざしてみることにした。だけど効果はないようだ。そうだよね、虫に法律なんか分かるわけないよね。


「あたしの心はこんなにも張り裂けそうだというのに!」


 すると俺の手を持って胸の中央に押し当てる。わ、わ、わ、これ、大丈夫なの!? ギリギリセーフなの!? それともアウト!? でも、ちょっと、や、柔らかい……!


 オオムラサキほどではないが、両脇の丘は手のひらに収まらないくらいのボリュームはある。それに俺の手は挟まれて、逃げようにも動かせられなかった。カブトムシとは大違いだ。ヘラクレスはまな板好きなのだろうか。


「いやいやいやいや! そ、そんな、はしたない!」


 しかし女性がそんなことをするものではない! 昆虫に心臓があるのか不明だが、それより気になるものが俺の脳みそを支配した。そ、そんなに押し付けないで!

 この場所はいったい何という名称なのだろう? 胸の下半分は黒いドレスで覆われているが、上半分はメッシュなので透けて谷間が見える。それが俺の下心を良い感じにくすぐっていた。


 でもやっぱり、えっちなのはいけないと思います!!


「ま、ま、ま、待って! 待ってください!」


 何とか素早く腕を引き抜くと、これ以上変なことをしないように、ハチ美女の両肩をがしっと掴んでおく。お願いだから、落ち着いて! ……俺もね!!


「あ、あの、やっぱりこういうのって、その……、って、うえ!?」


 しかし彼女は別のことを察したのか、しっとりと瞼を閉じてぷるんとした唇を突き出していた。違う違う! そうじゃなくてっ!


「だ、駄目です! その、もっとお互いを知ってから、した方がいいと言いますかっ!」


 いや、知ってても俺は昆虫とはそういう仲になりたいわけじゃないけれど。でも知らない相手だもん! もし本当に前世で誓っていたとしても、いまの俺には関係ないんだよ。


「あたしでは不満なの?」

「そんなことじゃなくて! むしろ女性の姿であればけっこうな美人だとは思うけど! その……、俺、昆虫は――」


「そろそろ離れていただきたい。無礼であるぞ」


 えっ? 誰? 力強い男性の声だ。もしかして……、ヘラクレスぅ!?


 いつの間にか俺を守るようにして、彼の厚い胸板に抱き寄せられていた。筋肉ってスゴイ。ときめいちゃう。


「部外者が、あたしたちの愛を邪魔しないでいただけますか?」

「部外者ではありません。彼は我が主人です。ワタシがこの日本に、野生で生きられるとお思いか?」

「しゅじ……っ! まさか、そんな……!?」


 おや? もしかして、ヘラクレスが言う『主人』とスズメバチが言う『主人』とで受け取り方が違うのでは?

 ハチの顔面が蒼白なので、俺にはそういう風に見えるのだが? 何やら小声でブツブツ唱えているけど、どうしても聞き取れなかった。聞かない方が身のためかもしれない。


 まぁ、しかし、ヘラクレスは俺に危害が来ないよう庇ってくれたのだろう。唯一の常識人が、ただただ救いだ。……虫だけど。めっちゃデカい虫だけど。


「そろそろ夜になる。貴女の目も利かなくなるでしょう。ひとりでいらっしゃったのは殊勝なことですが、貴女にもお仲間が居ましょう」

「それは……、しかし、幹也さんがあたしたちの巣の近くに来ていただければいい話ではないですか!」

「ならばもれなくワタシも参りますが、宜しいか?」

「くっ……」


 ヘラクレスオオカブトって嫌われ者なのかな? それならとても可哀想だ。スズメバチは俺との愛の語らいの間に入られるのがイヤなのかもしれない。相手がハチじゃなければ、確かに気持ちは分かる。誰が横から入ってきてもイヤだよね。


 だけど俺にとっては神様みたいだ。神話に出てきそうな人物像をしているから余計にそう思うんだろう。同性だから、女性に迫られて困っている気持ちを分かってくれるのかな。気が利くじゃん。


 でも悲しいかな、昆虫なんだよね。虫じゃなかったら親友にしたいレベル。


「我々は帰宅せねばなりません。これ以上暗くなってしまえば、大切な主人が迷われてしまうかもしれませんので。もうこの森に足を運ぶことも出来なくなってしまうかもしれませんぞ?」

「あ……っ!」


 それは困ると言わんばかりに、ハチは焦って俺のカラダから離れた。ぶんぶん翅音を響かせながら、暗がりに向かって消えていく。助かった。求愛を受けることもなければ、刺されることもなかった。ひとえにヘラクレスオオカブトのおかげである。


「余計な物言いを。困っているように見えましたので……」

「いや、助かり、ました……」

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