【壁】グレート・エスケープ

 刑務所内で暴動が起きた。

 いや、正確には暴動というほどのものではない。

 刑務所で本来詰めているはずの職員がひとりも見当たらなかったのである。

 一暴れしてやろうという囚人たちの振り上げた拳はどこにも下ろされることなく、ただすんなりと出てきてしまった。

 もはや誰もが忘れかけていたシャバの空気はこんなもんだったかという思いは、少しずつ疑念へと変わっていった。

 まるで人がいない。信号機が動いていない。というか電気が止まっているみたいだ。

 もともと一つの集まりだったわけでもなく、囚人、元かもしれない、は散り散りになる。

 どうしようかな。

 わたしはぼんやりと考える。昼間なのにいつもより月がきれいに見える、ような気がする。

 たばこが欲しいな。

 ムショに取りに戻ることも考えたけど、おとなしく近くのコンビニを頼った。

 案の定というかなんというか、人がいないし自動ドアは閉まっている。

 ためらいなくガラス戸を割って中に入る。

 コンビニ強盗した時のことを思い出してううん、となりながら、ライターとたばこを頂戴する。

 ライターの上で小さく燃える火が紙巻の先に移るのを見て、ああ、出られてよかったな、と思う。

 おいしい。

 たっぷりと肺に吸い込む。骨すらたばこに蝕まれて、レントゲンに移らなくなるのが夢だ。

 ウィスキーもいただいてこのまま酒盛りでもしようかと思ったが、もう少し周りを見て回りたい。意識をはっきりさせておきたい。

「貴女がこれをやったの」

 入口から声をかけられた。ええと。

 そうだ、同じムショから出てきた女だ。

「そうだけど」

「こんな荒々しくやらなくてもいいでしょうに」

 そんな言われてもなあ。

「どうせ、誰も見てないんだからさ」

「わたしがいるわよ」

「知らなかったんだって」

 手首をくっつけて、で、捕まえるの、と訊いた。

「別に。わたしは警察官じゃないし」

 そう言って、店内を見回し、わたしが目をつけていたウィスキーに手をつける。

「で、その荒々しい店内で真っ先に酒を盗むあんたは」

「いいじゃない、どうせ誰も見てないんだから」

 安ウィスキーのキャンペーン・グッズと思しきグラスを向けてくる。

「ああ、わたしはいい」

 周りを見て回りたい、と言うと、何もないわよ、と返ってくる。

「もぬけの殻。誰一人いない」

「あんたがいるじゃん」

「あのとき出てきた囚人すら見かけないのよ」

「じゃ、あんたとわたしがアダムとイヴか」

 子供は作れないけど、と続けたら彼女は心底嫌そうな顔をした。

「あんたもそうなりたくないなら探したらいい」

「そうね、そうする」

 わたしはたばこをふかし、彼女はウィスキーをなめる。

 この女のこと、嫌いじゃないな、とふと思う。

 顔とか、仕草とか、声とか。

 だからといってアダムとイヴになるのはわたしもごめんだが。

「じゃ、ちょっと行ってくるわ」

「わざわざ声かけなくてもいいわ、他人なんだから」

「そう言うなよ」

 投げキッスを一つして外へ出る。嫌がる顔が見たかったから。

 確かに町中は奇妙だった。わたしのように誰かが暴れた形跡もない。

 あまりに誰もいないので、むしろわたしだけがどこかに隔離されたのかと思う。

 他の囚人たちはどうしているのだろう。確かに、近くをうろついていてもいいような気がするけど。

 しかし、歩きたばこし放題なのはいいな。景観を汚しても何も言われない。

 結局その日は誰も見つからず、戻ったコンビニにはあの女も消えていた。


 そこそこ良さそうなホテルで目を覚ます。枕元のたばこに火をつける。

 おそらくは禁煙であろう、そして喫煙者のマナーとして普段やれない寝たばこをしながら、気味の良さを感じる自分はあらためてチンピラなんだな、と思う。

 革命家はおろか、テロリストにもなれない。何かを変えたいわけでもないが。

 自主的にチェックアウトしようとしたら、入り口にあの女が立っていた。

「自動ドア割るのやめなさいよ」

「ラクだしいいだろ」

 誰も見てないんだから、と言うと例の嫌そうな顔をする。

「ていうか、どっか行ったんじゃないのかよ」

「別に」

 わたしのことが好き、では間違ってもなさそうだし、なんなんだこいつ。

「一応ね」

 教えておかないと。

 そう言ってわたしに外に出るよう促す。

 わたしが訝しげに外の景色を見ると、昨日きれいに見えていた月がいっそうきれいに見えていた。

 というか、でかくなっていた。

「ぶつかるわ」

「まあ、見りゃわかる」

「どこに行っても無駄よね」

「ここまで一気に来るとなあ」

 たばこを取り出して火をつける。ああ、せっかくだからマッチ持ってくればよかったか。

「吸っていいか訊くものじゃないの」

「いいじゃん、最後ぐらい吸わせろよ」

「じゃ、教えたから」

 去って行く。まあ、止めることも特にないか。

 たばこのけむりの向こうに見える、8Kで拡大したような月を堪能した後、目を閉じた。

 逃げ場はない。

 逃げることもない。

 ああ、おいしい。

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SATSU-BATSU YURI 黒岡衛星 @crouka

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