倉橋つかさ(1)

 目を開けると、透き通った眩しさで僕の視界はぼやけていた。

 乾いた青草の匂い、微かに届く野鳥のさえずり、そして全身を温かく包み込む朝日。なんだかとても懐かしい気がした。でも、なぜそう感じるのか言葉にできない。


――僕は陽だまりに降り立つ寸前の記憶を失っていた。


 小綺麗な手の平を見つめていると、眼球がじわりと熱を持って、漠然とした焦燥感が僕の心の中でざわめきとなって必死に何かを訴えかけていた。


――有紗ありさ


 突然の声に振り向いて赤神有紗あのひとを見た瞬間、どうしてか涙が止まらなくなった。

 彼女を離しては……独りにしてはいけないと真っ暗な記憶の底で誰かが叫んでいた。


――土御門かかんぬきか……まぁ、識訳庁の連中だろうな。


 閂、その言葉により忘却と深層心理の挟間に溺れるような息苦しさを覚え、次いで自分には確かに大切な居場所があったのだと早まる鼓動が告げていた。

 それが何処にあるのか、どうして遠のいてしまったのか、失われた記憶よりも遥か彼方で霞んでしまっている――月明りのようなものへ手を伸ばす景色が一瞬だけ脳裏を過った。

 その後の朝日さんと旺磨おうまさんの会話を聞いていて、僕は幸いにも優しい人達に拾われたのだとおぼろげに理解できた。

 きっとこの人達との生活は温かくて、ささやかな幸福を感じる日々を過ごせるだろう。でも、そんな日常に甘えて忘れてしまう前に、迷子のつかさを見つけないと……だから。


「旺磨さん、ちーす」

「い、いらっしゃいませっ」

「ん……どなた?」

「あ、えと、今日から旺磨さんの所でお世話になっているつかさです」


 こうして旺磨さんのご厚意に甘えて、接客の練習をしていたのだった。

 こ、これは恩返しというか、しばらく旺磨さんが寝食の面倒を見てくれることになったから(朝日さんから半ば強引に押しつけられているように見えたけど)僕なりになにか手伝おうと思って……。


(この人……旺磨さんと親しい間柄なのかな)


 僕と旺磨さんとの中間ぐらいにおさまりそうな年齢に見えるお兄さんは、眺めているとなんとなく向日葵ひまわりが思い浮かぶ黄色交じりの薄茶色い髪を指でわしゃわしゃさせながら、好奇心を隠さない様子で僕の足元から頭上まで視線を巡らせている。

 片方の頬だけが異様に腫れ上がっており、すぼんだ右目が痛々しかった。


「へー旺磨さんバイト雇ったんだ……俺は岬日向、呼び捨てとかでも全然いいよ、よろしくねん」

「岬……もしかして日向さんと朝日さんって」

「え、母さんとも知り合いなのか、ふーん、もしかしなくても訳ありだったりする?」

「それは……」


 遅れてやってきた面接の自己紹介に戸惑っていると、来客の気配を悟ったのか「日向君、いらっしゃいー」と旺磨さんが厨房より顔をひょこりと出していた。


「旺磨さんちわーす、ちょっと場所だけ借りにきました……それにしても遂にバイト雇ったんですか?」

「そうなんだ、仲良くしてあげてね」

「ほいほい、しっかし制服とか用意だけしておいて全然雇う気配なかったからちょっとびっくりしましたよ」

「誰でもいいって話じゃあないからねぇ」

「で選ばれたのは男の子でした、と」

「なんか含んだ物言いだね!?」

「いやぁ、旺磨さんそんなんでもけっこうモテるのに……悔しがる子が多いんじゃないかなぁって」

「そう言われても僕はあんまり見分けがつかないからさ」

「さらっとクズ発言しますね」


 日向さんは僕が席案内するよりも早く、会話を続けながら旺磨さんの近くへ……端のカウンター席へ座ってしまった。迷いのない自然な足運びに見えたから、もしかしたら定位置なのかも。

 店員なのにお客さんの後ろをついていくだけの情けなさによって僕は視線を伏せてしまっていた。視覚が引きこもる代わりにと張り切っているのか、嗅覚が厨房の方から焦げるバターのような香りを捕まえている。


「クズといえばお願いしてた飲み会の件はどうなってますか?」

「応じると言った覚えはないんだけど」

「そんなっ! 群がってくる女の子を言い包めるだけじゃないですか! お願いしますよ!」


 レジ袋からサンドイッチと飲み物を取り出しながら声を張り上げる日向さん。注文があるかどうか確認すべきなのだろうか。


「君こそ清々しいクズ発言だね!? ううん……まぁ一応は有紗君と打ち合わせはしてあって明日の夜はお店を予約してるよ。前も言ったけど今回限りだからね?」

「いやちょっと待ってください、今なんで有紗さんの名前が出てきたんですか? 嫌な予感しかしないんですけど」

「つかさ君も連れて行こうと思ってるけど、よかったかな?」


 会話に入っていけないまま二人をぼんやり眺めていたら、不意に矛先を向けられて肩がびくりと弾んでしまう。


「僕もですか? いいんです?」

「皆に紹介したいからね」


 妙にしっくりくる仕草でウィンクされたけど、大勢の知らない人達の前で自己紹介するのを考えただけで緊張するというか、素直に頷けない自分がいることに気付く。

 なんとなくだけど、記憶を失う前の僕は自分のことを話すのがあまり好きじゃなかったのかもしれない。


「いやいや! この子未成年ですよね!? もうなんだろ……絶対俺の思ってるのと違うやつだこれ」

「君も未成年じゃないか……あぁ、そうだ日向君、僕のお願いも聞いてもらっていいかな?」

「俺のお願いは聞いてもらえたって言っていいのかわからないんですけどね」

「よければ少しつかさ君に事務所とかを見せてあげてほしいんだけど」

「事務所をですか? やっぱ訳あり?」


 日向君は朝日さんの事務所……つまり識訳師の補助として働いているんだよ。と旺磨さんが付け加えるように囁くのを受けて、正直に打ち明ける。


「僕、どうやら記憶喪失みたいなんです」

「なにか思い出すとっかかりになるかもしれないし、ここら近辺を案内してあげて欲しいんだ。依頼だと思ってもらっていいよ」


 昼食を取りながら聞いていた日向さんは少しだけ眉間に皺を寄せて、僕と旺磨さんを交互に見やる。

 もぐもぐと咀嚼を終えて、持参したお茶で流し込んで、そして「ふいぃ」と気の抜ける声で胃の空気を吐き出してから表情を変える……本人は至って真面目なつもりなんだろうけど、片側の頬だけ大福みたいなぼこっとした曲線を描いていて、左右のアンバランスさでつい笑いそうになってしまう。


「……そりゃまた……そういう……了解です、いやぁ俺もちょっと気まずい部分あったので助かります」

「そういえば土御門のお嬢さんとは仲良くやれそうかい?」

「うーん、ちょっとやらかしちゃった感はありますね」

「つかさ君、いいかい? あまりこの人の真似はしないようにね、くれぐれも初対面の女性に抱きついたりはしないように!」

「……あ、は、はい」


 今朝の出来事を遠回しに怒られているような気がして、返事がどもる。


「俺どんだけ飢えてると思われてるの!? そういうんじゃないですから!」

「高校卒業するなり女性を紹介してくれって頼み込んでくる日向君に説得力なんてまるでないよ」

「うぐっ、正論過ぎて……あとで店のレビューに星一つ付けておきますね」

「もしかして定期的に付く酷評って……」

「んじゃあ、つかさ君行こうか」

「はいっ」


 後ろから「待ちたまえ!」と旺磨さんの悲痛な叫び声が響いていたけど、まったく気に留めず歩いていく日向さん。僕はぺこりと一礼だけして、彼の背中を慌てて追いかけた。

 格好は変えなくていいんですか? と質問するよりも先にエレベーターに乗ってしまい、ボタンを押す彼の指の動きから事務所は同じビルの中にあるのだと知る。

 二人でも息苦しさを覚える狭い箱から飛び出すと、すぐに岬識訳事務所と彫られたプレートが瞳に映りこんだ。

 蛍光灯に照らされて、文字をなぞる墨が艶やかな光沢をまとっており、僅かな埃さえも目につく。

 左手には廊下が伸びているが、その先を確かめる前に日向さんが道を譲るような動きで事務所の扉を開け


「ようこそ、識訳師の事務所へ」


 そう言って僕を満面の笑みで迎えてくれた。


「ぞびびび、ぼぞぞ、ばぼばだがごご」

「こっちがチーズ味で、その、これはチョコ味で……うぅ」


 ――迎えてくれたんだけど、凍り付いたように足が止まる。


 日向さんが僕の横顔をいぶかしげに見つめている。焦点だけをスライドさせて言葉にならない訴えを彼に送ると、日向さんも上半身だけを傾けて事務所の中を覗き込んだ。

 扉の向こうでは、乱れた長髪が鼻先まで垂れ下がった……口元からはいかつい牙が突き出ている……ええと、鬼としか形容できない怒ったような形相をした巨躯の人?がどっしりとソファに座っていて、そんな肉食獣に睨まれて震える小動物みたいな様子の女性がテーブルを挟んで対面する形になっていた。

 魂を吸われてしまったのか、全体的に淡い色合いをした女性はブロック状のお菓子っぽいものを涙声で勧めていた。もはや懇願しているようにも見える。

 衝撃的な識訳師の仕事風景にどう言葉をかけるべきなのか悩んでいると、僕達に気付いた女性がゆっくりと首から上をこちらに曲げて……同時に僕の肩が後ろに引っ張られて、ばたんと力強く扉が閉められた。


「さっ、次はどこいこっか?」


 日向さんが笑顔を崩さず言ってのける。

 どこまで本気なのかわからなくて「でも、あの」と言葉に詰まっていると「ちょっと、待ちな……さいよ」と再び扉が開いて、肩で呼吸しながら先程の女性が飛び出してきた。


「なーにが滅多に客なんてこない、よ!」

「ぼぞぴっぴ?」

「わかるかっ!!」

「ですよね……説明求む」


 言い争う二人は気付いてないみたいだったけど、鬼さんは勧められたお菓子をひょいとつまみ上げて口に放り込んでおり、そして尋常じゃない咳き込み方をしていた。

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