第28話 狩人の罠

 弓を手に、ルヴィは音もなく森を走る。姿勢は低く、藪と木に隠れるように。


 追手は3人。


 気配から10人以上はいたはずだが、残りの者は村へと向かってしまった。

 仲間が危険に晒されるのは明らか。一刻も早く村に戻りたいと感情が強く訴えている。


 その焦りを噛み殺して、ルヴィは森の中に気配を隠した。


 獲物を狩るときにいてはいけない。心は平常でなければならない。

 焦りに踏み出した一歩は獲物に場所を知らせ、揺れる心は矢の軌道を曲げる。


 最短で事を成したいのならば、仕損じることのないよう手を尽くさなければならない。

 丹念に積み重ねることこそが一番の近道だ。


 静かな殺意を身に秘めて、ルヴィは狩るべき相手を探る。


 追手の歩みに森で手間取る様子はない。ルヴィほどではないが、森で活動することに慣れている。

 真正面から戦うのは無謀でしかない。


 1対3と数で劣る上に、装備でも向こうが上だ。

 追手は品質の揃った上等な革鎧で急所を守り、森の中でも輝きの分かる剣を手にしている。


 ルヴィが持つ解体用のナイフでは太刀打ちできそうにない。

 距離を取り、矢で射るしかなかった。


 だが、問題はやはり相手が複数いるということだ。


 一人の首を一矢で獲ったとしても、その瞬間にルヴィの居場所が知られることになる。

 残る2人に距離を詰められては、押し切るのは非常に難しい。


 この森の中でこそルヴィは追手より速く走ることができるが、様子を見る限り、持って産まれた魔力量では負けている。


 向こうの素性は分からない。だが、あの声の主が貴族とするならば、供をする人間もそれなりの血筋のはずだ。

 魔力の強さは膂力と魔術の威力に直結する。


 例え一対一であっても、ルヴィが正面から切り結んで勝機はないだろう。


 で、あれば、


(罠にかけるしかない)


 森を進めば魔物用にルヴィが仕掛けた罠がある。

 その罠を利用して確実に相手を減らす。


 ルヴィは森の地図の脳裏に描き、追手を誘うためにガサリと枝を揺らして音を立てた。


「いたぞ!」

「追えっ!」


 背後から強い殺気の圧力を感じる。


 ルヴィは魔力を燃やし、全力で駆け出した。


 木を避け、隠れた根を躱し、細い獣道を横断する。

 この森はルヴィの庭だ。狩人として長い時間をこの場所で過ごしてきた。世界で誰よりも、この森に詳しいのは自分だと言う自負がある。


 身体能力が劣る程度で追いつかれることはない。


 走る。森の奥へ。より深い場所へと。


 辺りの樹木が伸び、夕暮れのように影が増え始める。ルヴィは追手の位置を確認し、再び気配を消した。


 息遣いを消し、音を殺して森に紛れる。


 藪に身を潜めたルヴィの前を、追手の3人が慌ただしく通過した。


「くそっ、どこに行った!?」

「早く探すぞ! 逃がせば俺たちが罰せられる!」

「落ち着け。この近くにいるはずだ。魔術で炙り出すぞ」


 一人が詠唱に入った。残る2人は詠唱中の仲間を守るように森の闇に視線を巡らせている。

 その目がルヴィを捉えることはない。


 静かに、ルヴィは矢を手に取って弓につがえる。

 風に揺れる葉の音に紛れるように弓を引く。強く、強く、二の矢など要らないように。


 呼吸を止め、精霊語をうたう1人に狙いを定めた。――指を離す。


 音が連続した。


「がぼッ!?」


 首に矢が突き立つ。詠唱は湿った悲鳴で中断された。


「なっ!?」

「おいっ!!」


 動揺する2人と崩れ落ちる1人。

 ルヴィは藪を飛び出し、全速力で駆け出す。


「~っくそ! 追うぞ!」

「ちくしょうが!!」


 残りの2人が追ってくる。力任せの疾走だが速い。

 ルヴィは木々を障害物として使い上手く逃げるが、とうとう開けた場所へと出た。


 周囲には背の低い草が茂るだけで、身を隠す場所はない。

 ルヴィは振り返り、追手を向き合った。怒りに染まった眼がルヴィを睨む。


「やってくれやがったなあ……!」


 一人が剣を振りがぶって前に出た。

 逃げるようにルヴィは大きく後方に跳ぶ。


 追手はルヴィを追って素早く距離を詰め――その脚で地面を踏み抜いた。


「あ――?」


 声はどこか間抜けなものだった。


 だが、罠は無情だ。反射的に踏み出した反対側の足も飲まれ、剣は無用の長物へと成り下がる。


 落ちていく。追手だけはなく、一帯の地面が丸ごと落下を始めた。


 落とし穴――魔物を捕えることを目的とした大型の罠。大きく深く、ルヴィが魔術により周囲に馴染ませた罠は、見た目では何ら他の地面と変わりない。


 ただ、人間が相手では殺傷力がなかった。


 故にもう一手。ルヴィは懐から小さな素焼きの瓶を取り出した。

 落とし穴の壁面を狙って投げる。


 ガシャッ、と土の瓶が割れ、青い粉が広がった。重力に従って粉は穴の底へと降りていく。


「くそっ! あ? なんだこれ――っ!?」


 穴の中から声にならない悲鳴が聞こえる。


 瓶の中身は毒だ。それも猛毒。手に負えない魔物を狩るために用意したルヴィの切り札だ。

 重い魔物にすら効くように調合した毒を、人の身で耐えることはできない。


 深い穴の底から、ドサリと倒れる音がした。


 残るは1人。

 落とし穴を挟み、ルヴィは最後の追手と睨み合う。


「ちっ!」


 舌打ちと共に投げナイフが鋭く飛んでくる。

 一歩ずれて躱し、矢で射返す。


 が、難なく避けられる。眼がいい。やはり正面からの戦いではルヴィが不利だ。


 ルヴィは無言で跳び、森を目指して駆け出した。薄暗く障害物の多い森の中はルヴィの領域だ。


 ルヴィは森へ消えたことで、生き残った追手は判断を迫られる。


 穴の底で倒れた仲間を助けるか、ルヴィを追って再び森へ入るか、――それとも、全てを諦めてむざむざと逃げるか。


 脂汗が頬を伝う。


 数で勝りながら、一歩的に2人がやられた。既に言い逃れができない不手際だ。

 このまま逃げ帰ったところで、待っているのは重い罰のみ。


 相殺するには、最低でも命令を達成するしかなかった。


「ああ! くそったれ!」


 悪態を吐き、森へ向かって走り出す。


 その様子を、ルヴィは木の枝の上から見つめていた。弓は既に構えている。

 追手が森に足を踏み入れた瞬間を狙い――射つ。


 上方から撃ち下ろされた矢が鋭く宙を走った。が、


「っ! おらあっ!!」


 ギンッ、と矢が剣で弾かれる。


 一人目を矢で射たせいで遠距離からの攻撃は警戒されていた。

 矢を使うのであれば完全な死角から、もしくは疲労で気が緩んだところを狙うしかない。


(……だけど、そんな余裕はない)


 これ以上時間を使いたくなかった。


「そこか!!」


 追手が必死の形相でルヴィを睨む。

 ルヴィは木から降りて再び走り出しながら、小さく魔術を詠唱した。


「――『深緑の精霊よ』」


 トン、と地面に軽く手を触れた。地を這う草がさわさわと動き始める。


 その変化を隠すようにルヴィは立ち止まり、弓を構えて背後へと振り返った。


 追手が姿を見せる。


「何を仕掛けたか知らねえが、ここで殺す」


 ルヴィから10歩先で追手は立ち止まり、油断なく剣を構えた。

 見つからに分かる鍛錬の跡と、鋭い気迫。


 自分より強い獲物だ。


 至近からの殺気に、ルヴィの意識が研ぎ澄まされていく。視野が広がり、相手の鼓動の音すら聞こえるようだった。


 時がゆっくりと流れる。


 追手が瞬きに目を閉じた瞬間に、ルヴィは弦から指先を離した。思い描いた通りに矢が飛んでいく。


 だが――


「甘え!!」


 驚異的な反射神経で矢は切り払われる。


 追手はそのまま踏み込んできた。10歩の距離が瞬く間に消える。


 ルヴィは距離を取るために大きく背後へ跳んだ。矢をつがえながら連続で地面を蹴る。


 爛々と目を光らせ、追手は勝ち誇ったように笑った。


「お前が踏んだ場所なら罠はない!!」


 剣が迫る。


 その危うい煌めきをごく近くで見て――ルヴィは戦いの中で初めて声を出す。


「残念だったな――」


 ガッ! と追手の足が止まる。


「な!?」


 驚愕に声を上げ、追手は勢いよく自分の足を見る。

 そこには輪のように結ばれた草と、見事に嵌った靴があった。


 ルヴィが魔術で作った簡素な罠だ。ただ体勢を崩す小さな罠が、今は何よりも必要なものだった。


 全力で走った勢いで足を取られ、追手は成す術もなく前方へ倒れていく。

 体勢を立て直そうと地面に手を伸ばすが、もう遅かった。


 ルヴィは無防備な首裏へと矢を撃ち下ろした。ド、と鈍い音が鳴り、追手の体が跳ねる。


 油断せず、トドメに首の骨を踏み砕いた。


「ふうぅ……」


 息を吐き、体の震えを取る。


 最後の罠は別段、特別なことをしてはいなかった。


 ルヴィはただ、自分の罠を上から踏みつけるようにして走っただけだ。障害物に足を取られないよう、踏むように走る方法は森でなら珍しくもない。


 この追手も知っていただろう。しかし勝利を前に、ルヴィという獲物を前に、より速く進もうとしてしまったのだ。


 焦りは獲物を遠ざける。それだけの話だった。


 ほんの少し目を閉じ、ルヴィは自分の魔力と体力を確認する。――まだ無理はできる。


「エミリー、無事でいてくれ……」


 逸る心を押さえつけ、ルヴィは風のように走り出した。

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