第27話 それぞれの戦い
『ほう、これを躱すか』
土煙が舞う中、老人の楽しげな声が響く。
口封じのために放った風の刃は、血の一滴すら流すことなく空に消えた。地面には壊れた籠と薬草が散らばっているのみだ。
狙った男の姿はどこにもない。
唇を笑みに曲げ、老人は数瞬前を回想する。
必殺の間合いだった。見えない風による不意打ちは簡単に躱せるものではない。
だが、風の魔術を発動した瞬間に、村の長を名乗る男は惚れ惚れするような速さで逃げ出した。
よほど耳が良いのか。殺気を読まれたか。いずれにしても驚嘆に値する判断の速さだ。
辺鄙な村を
『楽しめそうだのう』
帝位の簒奪が容易に進んでは味気ない。手間をかけてこそ、成就の味は格別になるというものだ。
老人は猟犬のように黙して待つ部下へと声を飛ばす。
『森へ逃げた男共々、村の者は全て狩れ。儂は封印の下へと向かう』
ザッ、と武装した男たちが馬車から姿を現した。
冷徹な光を目に宿し、男たちは主の命を達するために走り出す。
ルヴィは木に隠れて呼吸を整えた。死に触れかけた心臓はまだ暴れている。
敵の正体は分からない。心当たりもない。だが、躊躇なく命を狙ってきたことは確かだ。
動くのが瞬き一つ遅れていれば死んでいた。
自ずと意識が切り替わる。
逃亡する直前に聞いた声には、泥を煮詰めたような傲慢さの匂いがした。力を持つ者特有の、人を草木の一本のように見下す腐敗の匂い。
冷たく、重く、肌に纏わりつく……懐かしい悪臭だった。
会話の余地は、どう考えてもない。
手が弓へと伸びる。弦を強く張り、小さく弾いて手応えを確かめる。
喪失の恐怖に指先が微かに震えていた。
村の仲間たちのことを想う。
温かく、優しく、賑やかな仲間との暮らしを。そして未来のことを。
一度は失い、自棄になり、それでも手を伸ばして掴んだ幸運。
もう二度と、失わせはしない。
「今度こそ、俺は村を守り抜く――仲間と共に」
流れるように魔術を詠唱する。何の威力もない、ただの風に音を載せるだけの魔術。
「『風よ届け、どこまでも』」
流れる風を感じながら、ルヴィは大きく息を吸い――高らかに口笛を吹いた。
敵の注意を引くように。獲物はここだと伝えるために。
そして、村の仲間に危険を知らせるために。
微かに聞こえた不自然な音に、カルヴィンは斧を持つ手を止めた。
「なんだ……?」
五感を研ぎ澄まし、森の木々を見透かすように目を細める。
周囲の森はいつもと何ら変わらない。だが、銀級冒険者としての勘が警鐘を鳴らしていた。
何かが起こっている。
刈った木を捨て置き、村へ向かって走り出す。途中で『ピィー!』と高い音が耳に入った。
「村長の口笛か!!」
あらかじめ決めていた緊急事態を示す音色だ。魔術によって風に乗った音が周囲一帯へと響き渡る。
カルヴィンは走りながら無意識的に思考する。
ルヴィは反対側の森へ入るとロイから聞いた。警告ができるなら無事のはず。
相手は魔物か、それとも人か。
ルヴィは一対一であれば付近に生息する魔物に負けはしない。となれば、魔物なら群れの可能性が高い。
そして人であるならば……よほど追い詰められた盗賊か。
カルヴィンはギリリと斧の柄を握り締める。
どちらにしても、カルヴィンは村を守らなければならなかった。
村には子を身籠ったフィリダがいる。
極貧の駆け出し時代から共に生きた妻だ。互いに故郷と呼べるものはなく、家族の顔も知らない。
2人で泥だらけになりながら這い上がり、燃えるように戦って、苦楽を共に生きてきた。
遅くはあるが、ようやく子も授かった。
守らなくてはならない。妻も子も、村も。そうでなくては何のための腕っぷしか。
「待ってろよ! フィリダ!」
魔力を燃やし、カルヴィンは森を駆け抜けた。
銀級冒険者としての肉体をもってすれば、村への道筋など非常に短いものだ。
カルヴィンは瞬く間に村へと到着した。
入ってすぐに、見慣れない者たちに気付く。
良い身形をした人間が5人。剣を抜いて村を進んでいた。カルヴィンは勢いよく5人の前に躍り出る。
「おい、お前さん方。ここに何の用だ」
カルヴィンは斧を手に堂々と立ちはだかる。
先頭にいた人間が、カルヴィンを見て明らかに嘲るように鼻を鳴らした。
「この村の者だな? 我が主の命により、この村の者には消えてもらうことになった。自身の不運を恨むといい」
「ああ゛? んだと……!!」
相手の言葉が脳に染みると同時に、カルヴィンの思考が怒りに染まる。
目の前にいる者たちの正体も、目的も、あらゆる疑問が頭から吹き飛んだ。
『この村の者には消えてもらう』だと?
この世で何より愛する妻と、ようやく授かった子に手を出すと?
知らず力を籠めた斧の柄が、ミシリと音を立てた。
「ぶっ飛ばす……!!」
燃え盛る魔力を全て膂力へ変え、カルヴィンは斧を振りかぶった。
ハウエルは畑の中で困惑していた。
村に武装した人間たちが入り込み、村の入り口近くではカルヴィンが戦いを始め、森の中ではルヴィが侵入者を翻弄している。
これが野盗の類だったらまだ良かった。いや、良くはないが。まだ納得はできた。
だが、村を襲っているのは貴族の私兵だ。職業柄、ハウエルには相手の正体が分かる。不正を働いた貴族を追い詰める際に、何度こういう存在に襲われたことか。
分からないのは何故この村を襲ってきたのかということだ。ルヴィには悪いが、この村には貴族が目を付けるようなものはない。
「いったい何が目的なのだ……?」
カルヴィンが戦っている者たちを除き、村へ侵入してきた襲撃者たちはハウエルが光の幻術により足止めしている。
景色を惑わし、視界を塞ぎ、味方を敵のように見せ、敵の自由を削いでいく。
自分の目が信じられなくなった人間は、一歩すら簡単に踏み出せない。
――今見ている道は本物か。実は穴が開いているのではないか。
――隣にいる味方は本当に味方なのか。もう囲まれているのではないか。
――村人を見つけて剣を振ったら、そこには味方がいるのではないか。
魔術により光を歪めることで、ハウエルには侵入者たちの顔色を一方的に観察できた。
気負わず、手加減せず、意識の隙間に楔を打つように、心の中まで惑わしていく。
「狙いは分からんが、私はこの村を気に入っているのだ。襲ってくるのであれば、自らの刃で果ててもらおう」
秘められた帝国の封印術を担う一角、当代の光の術師。それは誰よりも光の魔術に秀でていることに他ならない。
ハウエルは自らの技量を持って、村全域の光を操った。
「それにしても、ロイはどこに行ってしまったのか……」
ハウエルはロイが消えた先を見る。『遠見』の術の範囲外に出てしまったので、どこで何をしているのか全く分からなかった。
村の端で何かを見つけてから、「ハウエル! ここは頼んだ!」とだけ言って姿を消してしまったのだ。
「……うん? そういえば、あの方向には惑わしの結界が――」
カルヴィンとフィリダの家の中では、女性陣が慌ただしく動いていた。
「みなさん! この家に守りの魔道具を使います!」
エミリーが部屋の隅に魔道具を置いていく。ルヴィが友人からもらったという魔力の壁を作る魔道具だ。
小型だが非常に性能がいい。購入すればいくら必要か分からないような魔道具で、普段は大切に仕舞ってあるのだが、緊急時には実に頼もしいものだった。
エミリーに戦闘の心得はないが、それでも年下のアニスや身重のフィリダは守らなければならない。
冷静になれと自分に言い聞かせ、エミリーは平凡な自身の魔力を確かめた。幸いなことに守りの魔道具は必要な魔力が少なく、エミリーの魔力だけでもしばらくは使用できそうだった。
「エミリーさん、申し訳ありませんが、私はロイ様の下へと向かいます」
鋭く砥いだナイフを何本も身に着け、シエラは決意に満ちた眼差しをしていた。
声色は静かだが、抑えきれない感情が溢れている。
「今は駄目っすよ! 危ないし、師匠の幻術で村の中は通れないっす!」
「アニスさん、心配してくれてありがとうございます。ですが、危険は承知の上です。私がいるべき場所は、ロイ様の隣なのです」
フィリダが立ち上がり、泣きそうなアニスの頭に手を置いた。
「アニス、戦いたいときに戦えないのは何より辛いもんさ。行かせてやんな。シエラ、無事に帰ってくるんだよ。なあに、ここの守りは大丈夫さ。いざってなれば、あたしも戦える」
力強い笑顔を浮かべて、フィリダが壁に立て掛けられた剣に手を伸ばした。アニスの体重を超える剣を軽々と持ち上げてみせる。
「ほらね。だいじょう、ぶ――?」
フィリダが驚いたように目を見開き、自分の足元へと視線を落とした。履物が濡れていく。
「あちゃあ、こんなときに……」
破水だ。痛みが襲ってきたのか、フィリダが辛そうに眉を寄せた。
エミリーとシエラは言葉もなく顔を見合わせた。予定ではフィリダが産気づいたら隣の村へ産婆を呼びにいくはずだったが……どう考えても今は無理だ。
シエラは葛藤するように目を閉じ、すぐに開けた。身に着けたナイフを全て外す。
「エミリーさん、私達で子を取り上げます。協力をお願いします」
「っはい! えっと、まずはお湯と布を準備しないと!」
エミリーがアニスを連れて躓きながら走り出した。
顔を白くしたフィリダが腹部を押さえながらシエラを見る。
「ああ……ごめんよ、シエラ……」
シエラは静かに顔を左右に振った。
「いいえ。きっとロイ様もこう望まれます。フィリダさん、ゆっくりと座りましょう。大丈夫です。きっと……全て上手くいきます」
フィリダだけではなく自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと呟く。
シエラは手早く行動を始めながら、最も大切な存在の無事を祈った。
薄暗い森の奥で、ロイは眼前の人物と睨み合う。
「まったくよう……ご老体がこんな辺鄙なところに何の用だ?」
「なあに、少しばかり探し物じゃよ。先祖参りのついでにのう。――それにしても、お主がここにおったとはな。縁の精霊に導かれたか」
「さあな。例えそうでも俺は自分の意思で生きてるぜ。それよりも、年寄りに森を歩くのは辛いだろう。さっさと帰ったらどうだ?」
「ほっほ、ここしばらくは体を動かす機会がなくてのう。たまには自分の足で歩くのも良いものだ」
会話をしながらロイは相手の狙いを窺う。
目の前にいる枯れ木のような老人は、魑魅魍魎が蔓延る貴族社会の中で他者を食らって生きてきた化け物。大貴族の一角だ。
帝位の継承権はなくともロイは皇帝の血族であり、言葉を交わしたことはある。
故に知っている。この老人――スルズフォードは、意味のない行動を決して取らない。
自分を捕えに来たのかと思い、村に被害を出さないように急いで後を追ったが……様子を見る限り、狙いは
(こんな場所で“探し物”だと?)
ロイは視線を巡らす。スルズフォードの護衛は一人だけ。周囲には何の変哲もない森が広がっている。
スルズフォードは何を探しに来た?
疑問を隠して会話を続ける。
「アンタのご先祖様がこの近くの産まれだとは知らなかったよ。探し物を見つけて穏便に帰ってくれるなら、探すのを手伝ってやってもいいぜ」
「ほう。その様子ではお主も知らぬか」
スルズフォードは宴の席での会話のように気負いなく、自然体で秘密を語る。
「ここは伝説にうたわれる剣士の出生地。儂とお主の先祖が眠る場所だ」
動揺を悟られぬようロイは表情を消した。
大昔に国を救った龍殺しの英雄。平民の出だった剣士は偉大な功績から皇族へと迎い入れられた。
それから数百年、貴族間で血を重ねた結果、この国の貴族の多くは龍殺しの血を引いている。
そして龍殺しの遺品――特に精霊の加護を受けた剣――は、帝位を継承するための証となっている。
墓で遺品を入手することがスルズフォードの目的ならば、続く行動は帝位の簒奪しかない。
「お前っ、弟を……!!」
「
薄暗い森の中、さらに暗く黒く口を開き、老いた怪物は笑う。
「この先にあるのは秘されし墓所――龍殺しの魔核が祀られた地よ。儂は正当なる魂の後継者として、若き帝に挑もうぞ!」
風と共に、底なしの欲望が渦巻いた。
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