第9話 封印術と出会い
眼下に広がる巨大な谷を、ハウエルは目を細めて見つめる。視界に映る光景に不自然さは全くないが、ハウエルの術師としての感覚は強烈な違和感を訴えていた。
「師匠?」
「……アニス、そこの折れた木の枝を拾ってくれ」
「? はいっす」
ハウエルの様子に疑問を覚えつつも、アニスは素直に木の枝を拾ってハウエルに渡す。
「ありがとう。少し見ていろ」
アニスに礼を言い、ハウエルは木の枝を持って谷の手前まで移動した。そのまま地面に両膝をつく。
「師匠、危ないっすよ」
「いや……たぶん大丈夫だ」
覗き込んだ谷の底は遠く、ハウエルは背筋が寒くなった。だが、生き物としての本能を押さえ込んで観察することで、何かが“ある”ことを確信する。
ハウエルは木の枝を持ち上げ、谷の斜面、何もない空間へと振り下ろす。
ガッ、と、鳴るはずのない音が鳴った。木の枝が透明な何かにぶつかる。
「……やはり、透明化されているが道がある」
「道っすか……?」
アニスの目には何も見えない。
「我々と同じ光の術師による幻術だ。一ヶ所に集中するのではなく、景色全体から違和感を探るといい」
「むむむ~?」
ハウエルからの助言を受け、アニスは谷全体を見渡す。
「……言われてみれば、確かにここだけ光の加減が違う気がするっす」
「形まで分かるか?」
「ん~? ……階段っすかね?」
「正解だ。良く分かったな」
「えへへ。まあ、師匠の弟子っすからね。これくらいは当然っす。……でも階段って、どこに続いてるんすかね?」
ハウエルが膝を払いながら立ち上がる。
「階段は谷の壁面に沿って作られ、途中で途切れている。たぶん壁の途中に横穴でもあるのだろう」
「谷の途中にある横穴っすか……なんかお宝でもありそうっすね」
ハウエルは顔をしかめる。
「ただの宝なら良いのだがな……。往々にして帝国で封印術が使われるのは、厄介事を隠すときだ。ここに封じられているのも、まともな物ではないだろう」
「そうなんすか?」
「ああ。至近で封印術を使用したのはつい最近だが、悪しき龍の亡骸ごと土地を封じる大仕事だったのだぞ? 私も参加したが、瘴気が強すぎてその場にいるだけで倒れそうになった」
ハウエルは嫌そうに首をすくめる。
「災害を司る龍を甦らせようと糸を引いていた貴族は希代の愚物だが、その龍を討伐した者は想像もできんほどの化け物だ」
「ふへ~。前に師匠が具合悪そうに帰って来たときっすかね。そんなことしてたんすか。でも初めて聞いたっすけど、アタシに話しても大丈夫な話なんすか?」
「……少し口が滑った。だがまあ問題はないだろう。アニスもそのうち関わる内容だ。うむ。話を戻そう。まとめると、帝国が封印しているのは面倒な物がほとんどだ。宝などと期待するのは止めておけ」
「そうっすかぁ……なんか夢がないっすねー」
「仕方あるまい。普通の宝なら宝物庫に入れておくか、城にでも飾っておけばいいが、そうはいかない物も世の中にはある」
長い帝国の歴史の中では、存在すら知られてはいけない代物がいくつもあるのだ。
ハウエルが封印の中身まで知っている物はそう多くないが、知っている範囲でも表に出しては不味い物ばかりだ。
「ここに何が封印されているのかは不明だが、それでも帝国の術師として封印を管理するのは義務だ。どの道私一人では再封印も不可能ではあるが、状況は確認する必要がある。アニスには少し早いかもしれないが、視るだけでも経験になるだろう」
「ええと……一緒に行くのはいいっす。もちろん師匠について行くっす。でも、さすがに透明な階段を降りるのは怖いんすけど……」
「ふむ。それでは透明化を一時的に解くとしよう。――――『光の精霊よ、暴け』」
ハウエルが腕を振ると、谷の景色の一部が歪んだ。光の揺れが収まった後には、岩を削った階段が姿を見せる。
「光の幻影に対する対抗術だ。効果を発揮する時間はそう長くはないから、しばらくすればまた透明に戻るだろう。ふむ……そう考えればアニスの練習場所としては良いかもしれないな」
「練習場所って……大丈夫なんすか? 封印に影響とか出ないっすかね?」
「そこは大丈夫だろう。階段を隠している魔術は封印術とは別口だ。お互いに影響はない。それに、この谷の周囲には幻惑の結界が張られているからな。普通の人間ではこの場所まで辿り着くことも不可能だ」
「……そう聞くと、ここは意外と安全な場所なんすね」
「そうだな。万が一逃亡するような事態に陥ったら、この場所に避難することにしよう。ではアニス、調査開始だ」
「了解っす」
ハウエルを先頭に、2人は岩の階段を降りていく。幸いなことに階段の横幅は広く、壁面に手を付いて歩けば落下する危険はなさそうだった。
「そういえば師匠。封印術って具体的にどんな魔術なんすか?」
「む? 説明がまだだったか。封印術とは帝国が生み出した複合魔術の名称だ。5人の術師が同時に魔術を行使することで、強力な封印結界を作ることができる」
「へえー、5人同時っすか。難しそうっすね」
「実際に難易度は高いぞ。適性を持つ者が少ないこともあって、帝国内でも使える者は極僅かしかいない」
「じゃあ、師匠が抜けたのはけっこう大変なことなんすね」
ピクリ、とハウエルの肩が動く。
「……いや、それは大丈夫だろう。少なくとも向こう10年は再封印の予定はない。私達の出番もないのだ。……まあ、そのせいで私は室長に引っ張られたのだが……動けるものを遊ばせておく余裕はない、と書類の山に突っ込まれたときは衝撃的だった……」
「あ~……」
丸まっていくハウエルの背中に、アニスはかける言葉が浮かばない。
「……うむ。いや、話を戻そう。封印術を使用するための適性もまた5つだ。惑わしの光、留めの闇、切り離す絶縁、囲う守護、最後に中核を成す静止だ。どれか一つでも欠けても封印術は成り立たない」
「光と闇以外は聞いたこともないっすね」
「珍しい適性の上に、基本的に表に出て来ることもないからな。帝国でも知っている者は少ないだろう」
封印術について話している間に、2人は階段が途切れた場所まで辿り着いた。だが、横穴のようなものは見当たらない。
ハウエルが岩の壁に両手をつく。
「ふむ……ここから先はもう封印の結界になっているようだ。守護の“壁”を光の魔術で岩に擬態させている……進むのは無理だな」
「入れないってことは、封印は無事ってことっすか?」
「ああ、思ったよりは悪くない。光の魔術の劣化具合からの推測だが、何事もなければ最低でも5年ほどは正常に働くだろう。緊急ではないということが分かっただけ収穫だな」
「5年っすかあ……遠いようで近い気がするっすけど、室長とかに知らせなくていいっすかね?」
「……知らせる必要は、ある。このまま放置することはできない…………差出人を書かずに手紙を出すのはどうだろうか?」
「お城に誰が書いたか分からない手紙が届いたら、たぶん不審に思われて捨てられるっすよ」
「そうだな……いや、まず帝国の秘密を手紙に書くことはできないのだが……」
壁面に体を預け、ハウエルは曲げた指先で額を叩く。
「帝国の秘匿通信網は……使ったら捕まるな……どれも無理だ。うむ。アニス」
「はいっす」
「知らせるのは確定だが、方法は別に考えよう。幸いなことにまだ時間はある」
「う~ん、まあ、そう来ると思ったっす……」
「そのうち良い考えが浮かぶだろう。では戻るとするか。岩塩を今から探すのは無理だろうが、木の実くらいは摘んで行こう」
「そうっすね。そろそろ戻らないと料理をする暇がなくなっちゃうっす」
森での生活にも慣れて来た2人は、同じように頷いて階段を戻り始めた。
十分に採れた木の実や野草を手に、2人は森の中を拠点に向かって歩く。
「いやー、いっぱい採れたっすねえ! 今日の夕食は豪華っすよ!」
「うむ。惑わしの結界は魔物にも有効なようだな。おかげで荒らされていない群生地を見つけることができた」
にこやかに笑いながらハウエルとアニスは森を進む。荷物の重さとは逆に足取りは軽い。
「魔物がいないなら、あっちに拠点を移してもいいんじゃないっすかねー?」
「安全を考えるならそうしたいが、あちらには川がないからな。水が手に入らないのは厳しい」
「あ、それは確かに。魚も獲れないっすからね。う~ん、難しいっすね」
「まあ、何もかもが良い場所など、そうはない――アニス、何か聞こえなかったか?」
「え、なにも?」
「いや、何かが擦れるような音がしたのだが……」
ズズッ、と重い物が擦れる音が聞こえた気がした。
ハウエルは警戒しながら周囲を見渡す。薄暗い木々の隙間に目を凝らすが、動く物は何もない。
「気のせいか?」
そう思った瞬間に、頭上でガサリと音がした。
「ひうっ」
反射的に顔を上げたアニスが、悲鳴に失敗したように喉を鳴らす。
「……っ!」
ハウエルも息を飲む。そこにいたのは蛇だ。ハウエルを一飲みに出来そうな大蛇が、木の幹と枝に体を巻き付かせながら2人を見ていた。
その巨体が撓んだ瞬間に、ハウエルは反射的に叫んだ。
「『光よ!』」
目を焼くほどの光が森を白く染め上げる。詠唱は短いが全力で魔力を籠めた目潰しだ。並みの魔物ならしばらくは動けない。
光を操り1人だけ無事なハウエルは、アニスを抱き上げて全力で走り始める。
「うにゃー! 目が見えないっすー!」
「目に魔力を集中しろ! それで早く治る! それと見えるようになったら後ろの状況を教えてくれ!」
さっきの魔術で目くらましは成功した。普通は追って来られないはずだ。だが、全力で走るハウエルには、背後からズルズルと重い音が聞こえている。
「うー、だんだん見えてきた……って、いるっすよ師匠! 追って来てるっす!」
「……っ、目を閉じろアニス! ――、――――『精霊よ、煌々と輝く光を!』」
自身の背後に向かって、ハウエルは先程より強く光の魔術を使う。
だが……、
「駄目っす師匠! 効いてないっす!」
「くっ……! 見えなくとも走れるのなら、なんのために目が付いているのだ……!!」
視界を奪っても追い掛けられる理不尽に、ハウエルは森を疾走しながら歯噛みする。
ハウエルとアニスの魔術適性は光だ。目潰しが効かないならば、幻影の類も無意味だろう。ハウエルは他の属性の魔術もいくつか覚えているが、光の魔術と違って全力で走りながら使用できるほど習熟はしていない。
そして適性のない属性の魔術で、ハウエルすら一飲みにできる大蛇を退ける術は思い至らなかった。
ハウエルの脳裏に後悔が浮かぶ。
自身の力量を過信していた。光の下で暮らす生き物ならば、光の魔術を使用すれば逃げ切ることは可能だと奢っていた。
知識と魔術さえあれば、どこでも暮らしていけると思っていた。その思い込みが、こうして自身の命と、ただ一人の大切な弟子の命を危険に晒した。
自責と焦りが体を強張らせる。
木の根に足が滑り、名も知らぬ草に足が取られそうになる。
「師匠! 近づいてるっす!」
迫ってくる大蛇から逃げきるのは不可能だ。
ならばせめて、巻き込んでしまった弟子の命だけでも――
「そこの2人!! 横に跳べ!!」
森の空気を切り裂くような男の声に、ハウエルは反射的に従った。進む足の向きを無理矢理変え、アニスを抱えたまま藪へと飛び込む。
その瞬間に、一筋の光が空を駆けた。
倒れ行くハウエルが見たのは、魔力で強化された一本の矢だった。
ドンッ、と重い音を立てて、その矢が大蛇の頭部へと直撃する。
大蛇の反応は劇的だった。草の上を這う体を止め、苦痛に喘ぐようにのたうち回る。体を不規則に縮め、分厚い尾が振り回された。ぶつかった周囲の木々が軋みの音を立てる。
暴れることで矢は折れたが、矢尻はより深く食い込んだようだった。
やがて大蛇の動きが弱まり、ついにはピクリ、ピクリと身を震わせるだけになる。
ハウエルとアニスは湿った草と地面に横たわりながら、その光景を呆然と眺めていた。
「助かった、すか……?」
「……ああ、そのようだ」
互いに口を半開きにする2人の前へと、音も立てずに1人の男が現れる。
「森の痕跡に盗賊でも逃げ込んだかと思っていたが、この様子だと違ったみたいだな」
森に潜む狩人の恰好をした若い男だ。蛇を睨み油断なく短弓を構えている。視線は鋭く、感じる気配には荒事に慣れた威圧感があった。
「怪我はないか?」
「あ、ああ、大丈夫だ。助かった。ありがとう。あー……」
立ち上がるハウエルとアニスの全身をざっと見て、男はハウエルの顔へと視線を向けた。
「――ルヴィだ。この森の中にある村で村長……の見習いをしている。まあ、無事で何よりだ」
そう言って狩人の男――見習い村長のルヴィは、小さく笑みを浮かべた。
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