36.傲慢で、救えなくて、どうしようもなくて

 フラッシュバック、フラッシュバック、フラッシュバック。

 私の『瞳』が熱くなる。目の前の《ドッペルゲンガー》という先程まで認識していた個体から、数え切れないほどの言葉が流れ込んでくる。それはきっと、《ドッペルゲンガー》という透明な存在の中に押し込まれた自分に意味を見出せない終わりを経た人々の言葉だった。


 そこに救いはなかった。

 そこに希望はなかった。


 ただ、どうしようもない終わりだけがあった。後には何も残らない、残せなかった人の気持ち。

 同情したり、悲しくなったり、憤ったりする言葉もあったけど、同じくらい目を背けたくなる言葉があった。

 みんな誰かを憎んでいた。みんな何かを憎んでいた。恨んで、怒って、呪って、それでいて一歩も自分では動けなくなっている人たちがいた。誰かの喜びや、幸せを憎む人たちがいた。

 自分の世界を肯定したくて、自分の不幸を認めたくなくて、その苦痛が世界の普通だと思おうとする人たちがいた。

 

 私は、視るのが辛いと思った。


『お前はそんなものだ』『ただ心地よい言葉を視ていたいだけなんだ』『ただ自分の傷を癒す言葉を』『だから辞めろ』『視るのをやめてしまえ』『この世界に救いがあるとただ、盲信していればいい』


 体が強張る、震える、歯がカチカチと音を立てる。

 私は、怖がっている。

 痛みを味わうことでも、傷つくことでも、死ぬことでもなくて、この世界に存在しているどうしようもない無意味さに恐怖している。


 世界は言葉で出来ていると信じている。

 言葉には意味があると信じている。

 だから、世界には意味があると信じている。


 私が誰かに関わって、誰かが何かに関わって、そうして世界が回っていると信じている。信じたいと思っている。今はできなくてもいつか悲しみを消せて、私は全てを救えるということを信じたがっている。


『そんなのは無理だ』『無理なんだよ久遠』


 その声は東光院さんのものに似ていた。


『どんな思いも願いも、大きな流れの前にはかき消えてしまうんだ。俺が言った言葉も、本気だった言葉も消えてしまう。流れの前にはどうしようもないことがあるんだ』『だから久遠』

『あの時の俺の言葉なんて信じるな』『もう辞めろ、辞めていいんだ』『誰もお前を責めはしない』『誰かにどうにか出来ることなんかじゃないんだ』『もう、それ以上傷つくな』


 その言葉を、私を惑わすための悪意による言葉と切り捨てられたのなら楽だったのかもしれない。

 でも、きっとこれも本当の言葉なのだ。東光院さんが、あの後ドッペルゲンガーに取り込まれて、発している今この瞬間の東光院さんの言葉なんだ。

 そして、私に車で東光院さんが言った言葉も、どっちも東光院さんの言葉なのだ。

 どっちも、本当だ。矛盾していて、支離滅裂で、信じ続けられるものがなくて、あやふやで、形のないもの。

 それが、言葉だから。


「大丈夫。大丈夫だよ東光院さん」


 私は目の前の言葉を否定しない。正直ちょっと、いやかなり聞いていてしんどいけれど、それでもさっき車で東光院さんが言ってくれた言葉が嘘だったことにはならない。

 私を信じると言ってくれたその瞬間は間違いなくあって、私がそれを信じることと、今の東光院さんの言葉が違うことは矛盾しない。


「私は榎音未さんに会いに行くよ。そうしたいと思っているんですよ。私も心折れちゃうかもだけど、今は視るのが怖いものだって視て進まなきゃ。そう思うんですよ」

『……』


 朧げだったドッペルゲンガーの姿が見知った姿になっている。私にはその顔が視える。

 申し訳なさそうな、困ったような、呆れたような表情。


「それに、そういう私を信じるって言ったのは東光院さんですからね。撤回しても私は忘れないし、その言葉を信じるので」

『盲信じゃないのか』

「違いますよ。選んだだけです」


 そう言うと困ったような顔をして東光院さんが笑う。

 それと同時にドッペルゲンガーの顔が東光院さんから変わっていく。

 私は無数の透明な人を視る。私が視たくないと思っていて世界を視る。

 そして、その人が現れる。


『どうして、私を見捨てるの』

「ねえさん」


 きっと、ここに行き当たると思っていた。私が救えなかった、どうしようもなかった最初の人だから。

 色々な人が私を気遣って忘れるようにと言った。ねえさんのことは私にとって救う必要なんてないと言った。

 私自身を《視た》今はそう私に言った人たちの気持ちが、昔よりもずっとわかる。

 ねえさんは、私の記憶よりもずっと救えない人だ。人を踏みつけにして、世界を呪って、自分も他人も傷つけ続けた人だ。

 私の記憶の中のねえさんみたいに、ねえさんは綺麗じゃない。優しくもない。私を救ったわけでもない。

 私をただ傷つけ、否定して、呪って、今なお呪っている人なのだ。きっと、だからみんな私にねえさんのことを忘れるように言っていた。

 それでも、私は手を伸ばした。


『私に触れて、どうするの』『復讐するの?』『そうやって私を傷つける』『否定する』『裏切るんだ』


 触れた手は震えている。その震えは私のものかもしれないし、ねえさんのものかもしれなかった。

 自分の記憶が都合良く作り替えたものなのだと、今の私は知っている。

 あの日、私は自分を《視る》ことでそれまでのことを読み直したのだと知っている。ねえさんのことを、自分で歪めて、蓋をして、都合の良い物語にしたのだと知っている。

 ねえさんは人を殺していた。人を救っていなかった。私を救っていなかった。

 今の私はそれを、知っている。


「復讐、なんてしないよ」


 憎むべきなのだろう。呪うべきなのだろう。復讐するべきなのだろう。

 私の思い出せない、もう視ることの出来ない過去が私にはきっとあって、その世界をねえさんは私から奪ったのだから。ある意味で、私はねえさんに一度殺されたのだから。

 それなのに、私は目の前の人を殺したいと思えなかった。

 きっと、ねえさんに閉じ込められていた時からずっと私は思っていたのだ。

 ストックホルム症候群という言葉が脳裏に浮かぶ。きっと今の私が抱えていた気持ちに言葉を与えるのならそうなのだろう。

 私はねえさんに閉じ込められて、呪われている間、苦しみながら同時にねえさんを愛していた。

 それが暴力の合間、束の間の優しさを勘違いしたものなのかもしれない。ただ、他に人がいなかっただけなのかもしれない。殺されないための自己暗示なのかもしれない。


 それでもなお、今の私になってもその感情は残っていた。

 あの時、死にたくないと思った時、救われたいと思った。私だけじゃない。私以外の無数に死んでいった私たちも。そしてねえさんも含めてこの地獄から救われたいと私は思っていた。

 それが間違いでも、呪いでも、何という言葉でも良かった。目の前で苦しんでいたねえさんも含めて救われないと、私自身が救われないと傲慢にも私は思っていた。

 きっと、一人で助かるのも、生きていくのも後ろめたいと思ったんだ。


「だから、ごめんなさい」


 救えなくてごめんなさい。助けられなくてごめんなさい。愛そうと思ったのに、愛しきれなくてごめんなさい。

 一緒に死ねなくて、ごめんなさい。


「ねえさんのことがね、私は好きだったの。今でもそう思った気持ちは変わらない。それが怯えからでも、何でも、やっぱりそうだったの。ねえさんが教えてくれる世界の話が、私にとっての世界だったから」


 ねえさんは私に世界を語った。それはほとんどが恐ろしい話で、ねえさんは私にそう思って欲しくて話していたのだと思う。

 でも、ねえさんにとっての誤算が一つ。


「私はね、ねえさんの話を聞いて外を見たくなった。生きて、みたくなっちゃったんだ」


 私の震えが止まる。ねえさんの手は震えている。

 この人はずっと怯えていた。怪異が怖くて、異能が怖くて、他人が怖くて、何もかもが恐ろしくて、狂っていた。だから自分が何かを支配して、その恐怖になることで恐怖から逃れようとした。自分が恐怖を与える側なのだから、恐怖を与えられる側ではないと思おうとした。


 それでも恐怖は万人に平等に訪れる。

 痛いのが怖い。孤独が怖い。変化が怖い。死ぬのが怖い。

 生きるのが、怖い。

 その恐怖にまとわりつかれて、壊れ続けて、その恐怖を分かち合いたくて色々な子供にがむしゃらに恐怖を振り撒いた。


「私は世界が怖いけど、まだ視ていたい。まだ、終わりじゃない」


 ねえさんの震えが止まる。


「本当は、あなたを視るのに『瞳』はいらなかったんだ」


 東光院さんが視えると言ったのは嘘じゃない。風景としてそこに存在することと、そこに存在の意味を見出すことは別で、ドッペルゲンガーはその死角に潜む存在だから。

 誰もが見逃していて、見ないでいたいと思う存在。視たところで途方もないどうしようもなさが広がっている何か。

 きっと、それが透明な存在で私にとって最初の透明な存在は、ねえさんだった。それだけの話だったのだと思う。

 私の『瞳』は動きを止めている。私は異能ではない、ただ残った片目で目の前の存在を視る。

 そこにいるのはドッペルゲンガーであり、ねえさんであり、怯え続ける人だった。


「ごめんなさい。傲慢で、救えなくて、どうしようもなくて」


 私は概念刀に手を伸ばす。その柄に触れ、手先に意識を向ける。まだ、握ることが出来る。

 どうしようもなく私の行き先の道には罪が転がっている。目の前で、こんなにも苦しんでいて、恐怖に溺れている存在がいるのに私はその恐れの結果を起こそうとしている。

 私は、ねえさんを、ドッペルゲンガーを、殺す。

 透明な存在を、私の願いのために踏みつけにする。

 ああ、そうだ。《怪異》は、ドッペルゲンガーは怪物なんかじゃない。

 自分の願いのために、助けを求める存在であろうと殺す存在。殺そうとする私。

 私だ。化け物は、私なんだ。

 でも、それでも。


「私は、話を聞かないといけない。榎音未さんがどう思っているのか、何をしたいのか、どうしたいのか、もう一度聞かないといけない」


 榎音未さんを五葉塾に連れてきたのは私だ。私がこの世界に巻き込んだ。あの世界で一人で過ごそうとしていた村へ訪れて、秘密を暴いて、引き摺り出した。

 私は神様じゃないから、救えない。世界を変えることも出来ない。

 だから、それだけは出来る最後まで。


「さようなら」


 刀を構える。直線に、命の核を撃ち抜く概念刀を射出するかのごとく。

 この後に及んで、反撃をしてくれたらと思った。

 私に殺されることを拒んで、私を殺してくれたらと思った。

 私は、刀を放つ。

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