35.フラッシュバック

 どうしてこんなところに僕はいるのだろう。

 妹とお祭りに行っていたはずだと僕は思い出す。近所の商店街のお祭りで、色々な出店に妹が行きたがった。お父さんとお母さんは土日だというのに仕事で出かけていて三千円が机の上に置かれていた。

 普段は妹と合わせて千五百円なのに三千円なのはお祭りに行けというメッセージなのかもしれなかった。

 中学生にもなるとお祭りに行きたいという感情よりも人混みが面倒臭いという気持ちと最近不登校の自分がもし学校の人と会ったらどうしようという気持ちがまぜこぜになって、あっという間に嫌な気分になる。だけど小学校に上がったばかりの妹はそんな僕の気持ちはどうでもよくてお祭りの普段と違う華やかな雰囲気に浮かれていて僕を連れていくようにワンワン泣く。

 粘っても妹が聞く気配がなくて夜に観念して仕方がないので夕飯を買いに行く、という名目で妹を連れて縁日に向かった、そこまでは覚えていた。

 でも、今の記憶とつながらない。

 僕は両手を両足を縛られて芋虫みたいに暗い部屋で地面に転がっている。

 食事は『ねえさん』という人がやってきて毎日数回僕の口に何かを押し込んでいく。

 排泄はそのままする。最初は出そうと思っても出せなかったのに、一度出してしまうと自分の中で大切な常識のようなものが壊れてしまって、平気で漏らすようになる。

 押し込まれるままに食べて、そのまま漏らして、そんな中で眠る。

 最初のうちはあった自分への恥ずかしさみたいなものもそんな大きな流れの中でどうでもよくなってくる。


「あなたは私の妹だから」


 そうねえさんは初めて僕と会った時に言った。まだ僕が漏らしていない時、どうしてこの部屋にいるのかもわからない時だった。

 怖かった。こんな現実を否定したかった。


「僕は男です」


 その言葉を言った瞬間に鳩尾が蹴られた。何も言われなかった。ただ無言で蹴られた。そうして、部屋からねえさんと名乗った人が出て行って、時間が過ぎた。

 僕は自分の痛みについて考え続けた。何が間違っていたんだろう?

 退屈な時間で考えすぎると碌なことがない。僕は考えれば考えるほど自分の悪いところを考えていた。

 ずっと学校に行かず家に引き篭もっていたからこんな場所に閉じ込められたんだろうか?

 ずっと縁日に行くのを渋っていて、すぐに家を出なかったからなんだろうか?

 妹が縁日に行きたいと言わなければこうならないで済んだんだろうか?

 そこまで考えて自己嫌悪でいっぱいになる。

 妹が生まれてきた時、僕は嬉しかったはずなのに妹を責めたい気持ちになっていたし、僕を『妹』として扱おうとするねえさんに攫われるなら妹であるべきだ、と抗議したい気持ちが湧いた自分に。

 妹に自分の代わりになってほしいと思っている自分に絶望した。

 それから毎日そんな調子で、僕は声も上げられない。

 何かが間違っているのだと思った。僕の反応か何かがねえさんの意図と違っていたのだと思った。

 でも、それが何かわからなかった。


「さようなら」


 そう声がして、僕の体に何かが刺さる。

 僕は絶叫して、のたうちまわろうとするけど体は言うことを聞かないで意識が消えていく。

 どうしてこんなことになったのだろう。そう思って意識が途切れる。


 ※※※


 人生も仕事も、部屋の片付けも上手くいかない。

 派遣の仕事を辞めた。毎日起きて家を出るということすら満足に出来なくて遅刻と欠勤を繰り返して契約を解消され派遣会社からも首になったので辞めさせられたというのが正しいのかもしれなかった。


「どうして連絡もしてくれないんですか」


 電話で告げられたその言葉は困惑の色をしていた。

 寝坊した時はとにかく現場に向かうことに頭がいっぱいで連絡することを思い至らなかった。

 欠勤した時はもうそんなことは何も考えられなかった。とにかく何も出来なかった。欠勤という行為を自分がしているということに気づいたのもしばらく時間が経った後だった。

 私にとって難しいことはどうやら他の人に難しいことではないらしい、という旨をのことを仕事を首になったことと合わせて夕飯の時に両親へ言うと怒られた。危機感がなさすぎるということらしかった。

 どうしても、その言葉がわからなかった。私としては必死にやっているつもりだった。


「私は私で頑張っているつもりなんだけど」

「つもりって……甘えているからそんな言葉が出てくるんだよ」


 母がそう言う。私は余計わからなくなる。

 生活を立て直せ、と言われて一人暮らしをすることになる。むしろ生活が不安定なのだから家を出ない方が良いのではないかと両親に言うけど、それを言うと何故か怒られた。

 私は一人暮らしを始めるけど、早々に回らなくなった。

 机の上には空の空き瓶が並んでいる。ペットボトルや缶は少しずつ近所の自販機の脇にあるゴミ箱に捨てたけど、瓶の捨て方はよくわからなかった。

 ゴミ捨て場に書かれた収集日を覚えようとするけど部屋に戻るころには忘れている。仕事に行く前の朝は写真にとって忘れないようにしようと思うけど、家に帰る頃には疲れてそんなことはすっかり頭の中から消えている。

 私にとって人生は自動的だった。他人は私に「ちゃんとしろ」というけど、私には「ちゃんとしている」ことも「ちゃんとしていない」こともわからなかった。

 私の部屋は今の私に取っての世界の全ててで、守ってくれる膜だった。私の部屋に誰も入ってこない限り、空き瓶を捨てられなくても誰も怒らない。私はそれに困っていないし、本当のところ生ゴミ以外のゴミを捨てる必要もよくわかっていない。

 でも、それも良くなかったんだろうか。私にとってはそれは問題ではないと思っていても、世界の何かがそんな私を許していなかったのかもしれない。


「んんー! んんん!」


 目を覚ました私は口が塞がれていることに気づいてパニックになる。元々人と話すことなんて皆無だったし声をほとんど出さない生活だったというのに自分の意思で声を出せない状況になるのは想像出来ない恐怖だった。口は何かを押し込まれているわけでも、縫い合わされているわけでもなかった。

 元々口なんて私にはなかったかのように、鼻から下が平らな皮膚になっていた。私には元々、口なんて、声を発する機能なんてなかったかのような体になっていた。


「私の名は箱使いパンドラボックス、何者でもない、行く先も、来た道も存在しない《透明な》君の唯一の協力者だ」


 声がする。私に向けてではなく、何かに喋る声がする。

 私は直感的にその声の主をが私の声を封じているのだとわかる。

 不意に私は、恐怖とは違う泣きたくなる気持ちが湧いてくる。

 箱使いと名乗る存在は私のことを全く意識していない、私の自由を奪いここに連れてきた存在が欠片も自分に興味を持っていないことを私はその場の空気で感じ取る。一度だって、人の間に流れる空気を理解できたことなんてないのに。

 そこに私はいるようで、存在はしていなかった。

 透明だった。

 そして、何かが私の内側へと入って塗りつぶしていく。

 私が朧げに感じていた『私』というものが揺らいで行って、この恐怖も誰にも見つからないのだと最後に私は思う。

 そうしてプツッと意識が切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る