37.あなたは化け物なんかじゃない

『そう……』


 不意にねえさんが動く。ああ、最後の戦いが始まるのだと私は思う。

 体は臨戦態勢を取る。既に心も体も限界を超えている。そうだというのに私は歩みを止めようとしていない。

 言葉を視る必要はなかった。何を切るべきなのか、私は既に見据えていたから。

 私の全身には戦いの予測が流れている。相手がどう動いたら、どう対応するか。それは既に思考の域を超えて反射で全てをこなす戦闘の流れの中に自らを委ねる姿勢。

 世界はとても静かで、私にはやるべきことだけが視える。

 でも、その直後に起きたのは思いとは裏腹なこと。


「どうして……」


 私が概念刀を突き出すまでもなかった。

 ねえさんが自ら私の元へとするりと入り込んで、自らその刀を胸に刺していた。

 ねえさんの胸へと滑り込んだ刃を中心に紅が広がっていく。あまりにも呆気ない幕切れ。


『いいえ』『いいえ』


 声がした。ずっと昔に聞いた。私の記憶の中にだけある、あったはずの声が。


『あなたは化け物なんかじゃないわ』

「なんで……私は、私が殺そうと」

『私は、ただ愛したかった。救いたかった。この世界は私にとって恐ろしくてしょうがないものだったから、そんな恐怖から誰も彼も救いたかった。だけど、私には人を救う才能も愛する才能も、守る才能もなくて、人を踏みつけにすることだけが得意だったの。人を傷つけることだけが得意だったの。自分を騙すことだけが得意だったの。自分を守ることだけが得意だったの』

「違う。私は、弱くて、ずるくて、臆病で、私が」

『だから私は美しいものをどこまでも深い闇の中に閉じ込めておきたかった。外の怖いものから守れる自分でありたかった。そうしてどうしようもなく、幾度となく、間違った。ただ、そんな自分を、ハリボテの理想のためにあらゆるものを犠牲にした』


 私の頬に手が触れる。ねえさんの手には既に血が伝っていて、私の頬にも繋がっていく。


『あなたをずっと箱の中で守れていたら良かったのにね。優しい箱の中で、健やかに生きていかせられたら良かった』

「……」

『でも、私はそれが出来なくて、あなたもそうじゃないものね。久遠、あなたは箱の外を目指す子だから』

「ねえさん」

『だから、あなたは化け物じゃない。化け物はいつだって閉じた世界で、人が迷い込むのを待つものだから。あなたのように、広い世界を求めていかないものだから。だから、走りなさい。何処までも箱の外を目指して、私には視えない世界の果てを超えて走りなさい。走れるうちは、何処までだっていきなさい』

「そんな、どうして。ねえさんは私なんかのために」


 死ぬ人じゃないはず。それは私の幻想のはず。


『ねえ、久遠。私は結局最後まで理想になんてなれなかった。きっと、こうして振る舞うのも僅かな時間で失われてしまう。私は騙すのが得意だからね。こうして自分が真実だと思ったこともすぐに嘘になってしまう。私は何度も自分を騙して騙して騙して、何が真実なのかわからなくしてしまう。この時間だってすぐに嘘にしてしまうの。久遠、それをあなたは知っているでしょう?』


 たくさんの恐怖、たくさんの痛み、たくさんの死、どれも本当だった。どれもそこにあって、私の内に残っている。

 だからこそわかる。今のねえさんの言葉も、ほんの束の間の言葉だと。

 きっと共にいたらすぐに裏切りに変わる言葉だと。

 ああだけど、それでも、それなのに。


『だから久遠。今が最後で、今が伝える時なの。

 生きなさい。行きなさい。

 あなたは化け物なんかじゃない。

 あなたは化け物なんかじゃない。

 あなたは化け物なんかじゃ、ない』


 ――どうしてこんなのにも私が大切にしていた言葉を言うのだろう。


 その言葉と共に、ねえさん――ドッペルゲンガーは倒れた。地面に紅が広がって、そしてその紅すらも少しして消えていく。


「ねえさん、いや、ドッペルゲンガー」

『その言葉はね、確かにあなたのねえさんの言葉だよ。線では嘘になっても、点としては確かにここにある言葉』


 声がする。


『私は』『私たちは確かにその人だから』『その人でもあるから』『だから、きっとその人の言葉』


 無数の人影が私の視界の少し先で陽炎のように揺れている。


『僕は』『私は』『あの人に閉じ込められて死んでいった』


 ああそうだ。私が見捨てて行った人たち。救えなかった人たち。勝手に見下した人たち。

 何かしてあげたいと願って、一緒に死のうと思って、そうして結局、私じゃ殺すことも出来なかった人たち。


『行って』


 それなのに、どうしてそんなに。


『視えなかった世界のその先を』


 優しいのだろう。誰も彼も、私に優しいんだろう。


『あの人は私たちが連れていく。だからこれでお別れ』『私たちも世界を視たかったから』『その先を知れる誰かがいてくれた、というのは私たちの夢だから』『だから、せめて夢が終わるまで』『走り続けて』

「待って!」


 言葉を返そうとした時にはその陽炎は消えている。

 そこにはもう誰もいない。

 いや、きっと今でもいるのだろう。ただ透明になって、私に視えないように振る舞っているだけで。私の足を止めないために見つからないようにしているだけで。

 あなたは化け物じゃない。

 私が過去に受け取ったと思っていた言葉、私が手渡した言葉、偽りだった言葉、そして今、受け取り直した言葉。

 ならば、今はその言葉に報いるべきだ。

 信じた先に何が待っていても、何も信じないで歩みを止めるよりはずっと良い気がした。


「榎音未さん」


 もう一度。私はこの言葉を渡す人がいる。

 刀を鞘に戻す。

 目を閉じる。荒くなった呼吸を落ち着ける。

 両手を閉じて、開く。体のコントロールは確かに効いている。まだ、大丈夫だ。

 足に力を入れる。痛んだ全身はまだ、動く。

 走り出す。最上階へと向かって一直線に。この箱庭の臨界点へ。

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