32.遠い過去

 

 人が産まれてくる時の始まりが胎内ならば、そこは光の刺さない場所のはずだ。光が差さない、けれど常に温もりを感じる暖かな闇。人は闇より光の中に引き摺り出されて、自分の世界を壊すことが産まれるということなのだ。

 私の初めての記憶は暗闇から始まる。それは胎内ではなかった。それは部屋だった。暖かくない、湿っていて冷たい空気と闇に包まれた部屋だった。

 そこには私とねえさんしかいなかった。


「あああああああっ」


 私は叫んでいた。身を捩らせて、その痛みから逃げようとしていた。

 私の体をライターの火が炙っていた。痛みの悶えながら、私を掴む腕から逃れようとしながら同時に私は自分の皮膚が焼ける臭いに嫌悪感を持っていた。


「ねえ、どうしてこんなに臭いと思う」

「わかんないわかんないわかんない!」


 叫ぶ。その痛みから逃れることしか私は考えられなくて、振り払おうとするけどねえさんの手の力は強くて身動きを取ることもその熱から逃れることも出来ない。


「どうしてそんな風に目を逸らすの。ねえ、動物の肉を焼くとどうなると思う?」

「痛いから、ごめんさいごめんさい!」

「どうして無視するの……どうして」


 目の前でねえさんが泣いていた。私はなんて酷いことをしてしまったんだろうと痛みの中で想う。


「ごめんんさい! ごめんなさい!」


 それでも私はその言葉を辞められない。私の中の思考する部分は並行して動いているのに、私の別の何かが具体的にその思考を言葉にするのを堰き止めていて、ただひたすらに同じ言葉を繰り返す。いや、言葉である時の方が稀だった。何かの叫びのようなものを私の体の器官はあげていて、言わなくてはいけないこと、言葉にしなくてはいけないことは出てきてくれなかった。

 ねえさんが私を炎で焼くように、私はねえさんを傷つけていると思った。目の前で泣いているねえさんに私は何もしなくて、何をすればいいのかというその断片を感じているのに私は私の痛みにだけ集中していてそれは酷いことだと思った。悪いことだと思った。私にはねえさんを救える可能性があるのに、私は私のことだけを考えていると思った。


 それは罪だと思った。

 そしてこの痛みは罰なのだ。


「人間はね、どうしようもなく汚いの。ねえ、これを見てよ。見て、見てって。見ろ!」


 ねえさんは私の腕を捻り上げて、私の目の前に持っていく。腕が折れそうだと思った。そんなことを考えるのは相手の言葉に集中していなくて酷いことだと思った。こんなことを考えているからねえさん苦しみは終わらないのだと私は考えた。私がねえさんの苦しみを作っていて、私がねえさんを傷つけているのだと思った。ねえさんを苦しめる何かが存在していて、その苦しみは私ではなくてもきっとその苦しみに気づかない私のような存在がその苦しみをねえさんから不可分なものにしているのだろうと思った。

 ねえさんが求める助けを無下にしているのだと思った。私は助けを求めるねえさんを突き放しているんだと思った。

 私の焼けた皮膚は汚かった。ぐずぐずになった皮膚は焦げていて、直視することが辛いと思った。


「こんなもんなんだよ! あんたはこんなもんなんだ! あんたも、私も、他のやつらも、みんな! みんな!」


 ねえさんが私の顔をつかむ。両手で私の両頬を掴むようにして私に向き合ってくる。


「だから久遠、あなたはここにいてね。人は汚いの。どうしようもなく、救いようがないの。そんな人の中にいたら、あなたはもっと汚れてしまう。人は汚いけれど、綺麗になろうとしないといけない。少しでもマシになろうと生きないといけない。それなのに皆自分の汚さから目を逸らそうとしている。堕落している。堕落している皆で、自分達を綺麗なものだと思って、誤魔化して、嘘ついて、言い訳して、それでその嘘をいつの間にか本当だと思ってる。久遠、あなただけは目を逸らしちゃいけない。目を逸らす人がいる限り、その醜さは克服出来ない。超えられない、無くせない。そんなこと、許しちゃいけないの。ねえ久遠、あなたはそうじゃないわよね。他の奴らみたいに裏切ったりしないよね。捨てないでよ。裏切らないでよ」


 だから、とねえさんは言う。


「守るからね。私が絶対に守るからね。あなたはまだ大人じゃないんだから。あなたはまだそんな言葉から自分を守れないから。人が産まれてくるのは早すぎるから。この中で、この暖かい闇の中で守っていてあげるから。他の人の呪いにかからないで、あなただけは綺麗になっていて。私が汚れをひきうけるから。だから、だから」


 ねえさんは泣いていて、私を抱きしめる。私は愛されているのだと感じて胸が熱くなって泣いている。その涙はさっきまでの涙と違って暖かくて、心地よいと思う。思ってしまう。

 

 その光景を私は視ている。私は何を思えばいいんだろう。

 私はねえさんと過去の私の光景を視ていく。

 そこにあるのは私の記憶の中のねえさんと違っていて、私の気持ちが掻き乱されていく。

 私を殴る人がいる。

 私の首を絞める人がいる。

 私を蹴り飛ばす人がいる。

 それが私がねえさんと認識している人で、私を救ってくれたはずの人で、私の始まりの人であるということを私は視続ける。

 幼い私はヘラヘラと笑っている。笑っているから酷い状況じゃないと自分に言い聞かせているし、笑うことで深刻なことを誤魔化している。その態度にも私はイライラとしている。


『どうして、忘れていた』『視たくなかったんだろう』『視ようとも思わなかったんだろう』『じゃあ次はこうだ』


 そうして視界が変わる。




 部屋の中にいる。その部屋はさっきまでと違う。明るく、日が差している部屋だ。私はそこがねえさんの部屋だと思う。ねえさんが過ごしていた、私の記憶の中のねえさんの住んでいた部屋だ。

 そこで私は過ごしている。ねえさんに色々なことを教えてもらって、ねえさんに食事を作ってもらって、暖かな日々を過ごしている。

 そう、ここから始まっている。私はそう思っている。


『違うな』『そう思いたかったのさお前は』


 視界が戻る。私は暗い地下室にいる。地面に倒れていて、視線の先には人型の何かが無数に転がっている。ねえさんは何処かへ行っていて、私はねえさんがいないことに安堵している。

 安堵している。してしまっている。

 そして、私は目の前の無数の屍を見つめている。


『ここにお前はいた』『お前がねえさんと言って過ごしていた人間とここにいた』『でもそこにいたのはお前だけじゃない』『お前の前にもたくさんいただろう』『本当は気づいていただろう』『忘れていないだろう』『この光景を覚えていたかったんだろう』『忘れていたかったんだろう』


 その声は私の声をしている。


『お前はここから抜け出した人間だから』『こんなかわいそうな存在じゃないから』


 視線の先に転がった死体は皮膚が破れ、白い何かが露出している。顔のようなものがあって、両目があるはずの場所は空洞になっている。

 私はそれに恐怖を覚える。震えが止まらなくなる。そして、どうしてこんな風に私の不安を煽るんだろうかと目の前の死者の群れに恨みを募らせる。

 私は怖いのに。私は不安なのに。私は頑張っているのに。


「もう、わたしはこんなところにいる人間じゃないと思いたかったから」


 部屋の中心で、傷だらけの幼い私が私を視る。私に言葉を突きつける。

 かつての私は私を睨んでいて、恨んでいる。

 どうして忘れたのか。どうして視るのをやめたのか。


『お前がどうして怪異を視るのか私は知っているぞ』『だってお前は私だから』『特等席だからな』『特等席だからさ』『言葉を視れば全てわかる』『お前は言葉を読み解くことが出来る』『それは気持ちいだろうさ』『自分より愚かで哀れな人間を知ったように言うことは』『楽しいだろうさ』『気持ち良いだろうさ』『ずっと、そうだったんだろう?』


 慰めが欲しいと思った。思っていた。

 私はねえさんを愛していたけれど、同時に憎んでもいた。でも、それ以外に私を愛してくれる人を思い浮かばなくて、愛されたいと思っていたし、ねえさんはとても歪んでいたけれど愛を与えていた部分もあった。

 ねえさんに守れられたいと思っていた。自分で生きていくのはとても怖いことだから。

 ねえさんの場所以外の何処にもいけないのなら、そこで生きていくしかないと思っていたから。


『なぁ。わかっているだろう』『優しいやつがお前の目を抉るか?』『お前を傷つけるか?』『歪んでいる人間はずっと歪んでいるよ』『産まれた時から死ぬ時までずっと歪んでいるんだ』『ねえさんは歪んでしまった? 違うだろ?』『本当は全部わかっていたんだろう?』『視てろよ』『目を逸らすなよ』『最後まで視ていろよ』『特等席さ』


 私が顔を押さえつけられている。その時の私の視界は、確かに幼い頃の私だ。

 ねえさんが片手にフォークを持っていて、私はそれを知っている。


「いやだ、いやだ! いやだ!」

「ねえ、どうして視たいと思うの? どうして瞳を開いていたいと思うの? ろくなものがない。視る価値がない。何もない、視てやる価値のあるものなんて何も」


 私は首を片手で押さえつけられて地面に押し倒される。私は忘れていたかった、生ぬるい虚構で包んでおきたかった記憶が蘇る。

 どうしてこんなことを視ないといけないんだろう。どうしてこんな目に遭わないといけないんだろう。どうして自分にこんな過去がないといけないんだろう。


『喪失は取り返せない』『帳尻など合わないんだよ、永遠にお前は損ねたものは取り戻されない』『お前は言葉で装飾して過去を塗り替えられると思っているのさ』『何処までも過去は追いかける』『そして失ったものは取り戻されない』

「やだ! やめてよ、こんなの、こんなの嫌だ!」

『俺も』『私も』『僕も』『我々はみんな思っていたさ』

「ああああああああっ!」


 逃れられない痛みに直面したのに、逃れられない恐怖に直面したのに、どうして私は意識を失えなかったんだろう。どうしてその瞬間に命が終わらなかったんだろう。


「何も視る必要なんてないんだよ久遠」

『何も知るな』『何も気づくな』『何も視るな』『お前はどうせ救えない』『お前は何もできやしない』『ならば知るな』『気づくな』『視るな』『そう言われていただろう』『ずっと闇の中にいるようにと言われていただろう』


 視ようと思ったわけではなかった。ただ、死にたくなかった。

 私はただ、笑っていれば生きていられるのだと思っていた。そう、思いたかった。

 目の前の現実をなんとなくやり過ごしていれば、もっと上手くやれていれば痛い思いも辛い思いもしないと思っていた。

 今、私はあの時と同じだ。

 身動きも取れずに、ただそのまま死を待っている。


「いやだ」


 涙なのか、目を抉られた出血なのかわからなかった。ただ頬を伝う何かがあることだけを私は自覚していた。

 全身は疲れ切っていた。泣き喚いて、激痛で全身のコントロールもうまく出来ると思えなかった。


「どうしたの……」

「いやだ、いやだ、いやだ」


 それでも、私はねえさんの手を掴んでいた。

 呆然とした表情のねえさんがいる。私の知っているねえさんの表情がそこにある。

 私は思いだす。ねえさんの瞳の中に映る私がいる。

 私は思いだす。初めて視た時を。初めて『瞳』を使用した時のことを。

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