31.再戦、ドッペルゲンガー

 ガラス向かって概念刀を突き立てて私は転げながらタワー内の壁に叩きつけられる。全身がじわ〜とするほど痛みが背中の辺りから広がって出来ることならこのまま寝てしまいたいけど、埃とガラス片を払って立ち上がる。

 タワーの外は昼間の時間帯のはずなのに真っ暗で、世界の書き換え、とかいうやつが現在進行形なのだと私は思うし、照子先輩とか東光院さんのことを思って泣きたくなるし、実際に泣いてしまう。

 どうして私に期待なんてするんだ、とか勝手なことを思ってしまう。確かに最近任務は多くて、不穏なこともあったけど、急に世界がどうこう言われたって私に覚悟なんて出来ていない。照子先輩は時間は待ってはくれないと言っていて、それはきっと真実で、世界はある日伏線を丁寧に張り巡らされたカタストロフなんかではなくてもっとジワジワと進んでいて、気づかない人には本当に気づかないまま終わるんだろう。


 今こうして新王タワーの周りで危機が訪れていることも知らない人はきっと知らないままなんだろう。世界が救われても終わってしまっても気づかないひとがいるんだろう。

 きっと、そういう風に世界は出来ている。

 私が師匠の話す世界の成り立ちを知らなかったように。


 息を深く吸う。無数の自分の心を掻き乱す言葉が頭の中に充満していて、それら一つ一つも大事なことかもしれないけれど、今は榎音未さんのことだけに心を向ける。

 世界に対して、もしかしたら私は何か出来るのかもしれない。あの師匠のそっくりさんが榎音未さんを利用して何かを起こしていることを止めることは何か世界に影響を与えることなのかもしれない。

 それでも今は私にとって世界のことは忘れるべきことだった。もしも私が何かを影響を与えるとして、私にとってそれについて結論を出すには時間が足りなすぎるし、返って動きが取れなくなる気がした。

 世界について自分の気持ちを遠ざけても、それでも私は落ち着かない。


「先輩、東光院さん……」


 二人は大丈夫なんだろうか。箱使いもそんな簡単な相手ではないはずだ、東光院さんはどうみても重傷で、本当はすぐにでも応急手当てをしないといけないはずだった。

 不安は良くない考えばかり浮かび上がらせる。自分の中の優先順位が揺らいでいく。もしかしたら、榎音未さんよりもずっと付き合いの長い先輩や東光院さんを助けるべきだったのかもしれないという考えも浮かんでくる。

 違う。私はこうやって考えているようでただ考えているフリをしている状態になっている。もうそのことについて考える時間は終わっていて、二人はその自分を送り出したのだ。

だから、私は前を向かないといけない。私は前を向く自分でありたいと思っている。信じると言ってもらった気持ちに報える自分でありたいと思っている。

 そう思うのならば、まずは形だけでも前を向く、進んでいく。

 少しでも余計なことを考えるとこぼれ落ちそうな決意でも、こぼれ落ちてはいない。少なくとも今はまだ。


 のんびりしている暇はなかった。

 脳裏に浮かんだタワーの頂上付近にいる榎音未さんの元へ行かないといけない。その過程でどのような壁が立ち塞がったとしても。

 エレベーターは停止していた。電気などはどうなっているのだろう。明かりは付いていなくて、それでいて外は真っ暗闇だというのに室内は不思議とクリアな視界だ。もしかしたら、新王町のはるか遠くにあるであろう発電所なども既に書き換えに侵されているのかもしれなかった。


「ってことは、気合い入れないといけないわけか……」


 非常階段の扉を開ける。冷たさを伴った空気を感じながら私はタワーの非常階段を駆け上がる。

 数十階分を駆け上がるのは骨だったけど、体力にはまだ余裕がありそうだった。あっという間十数階を登る。体温は上がり、空気の冷たさは感じなくなっていく。

 各階にある非常扉は閉ざされていて私が二十階に差し掛かった時にそれは起こる。


『思い上がるな』


 何かを地面に擦りつけながら走らせたかのような金属音を伴って扉から何かが突き出してくる。その金属音に伴った殺気を察知して私は寸前のところで身を翻す。


「ドッペルゲンガー……!」


 鉄で作られた扉を突き出す刃物だけが私の視界に映る。私は『瞳』に意識を集中させる。体を扉に向け、刃物の射程距離を意識したまま臨戦の態勢を取る。

 冷静でいなければいけなかった。今の目標を達成すること、これまでに自分へ向けてもらった信頼に応えなければいけないと思った。


 ――それでも、突き出た刃物に血の色を見た時に私の中の熱が燃え盛る。


「東光院さんをどうして攻撃したっ! 私がお前の敵じゃなかったのか!」


 何かに思いを巡らせるよりも、体が先に動いていた。

 腰にかけた概念刀を加速させる。扉に対して《切断》の言葉を載せて打ち放つ。

 鞘の中で加速した刀が建物の堅牢な壁の硬度を無力化する。その一撃は殺意だった。私の中の敵意の乗った一撃だった。

 それは確かにタワーの壁を切断した。そして、その向こう側の《敵》に浅くない手傷を負わせる一太刀だった。


 それでも私の感覚に残ったのは違和感だった。


 私の行動は反射的だった、そのタイミングは限り無く理想的な反撃であり刃物のリーチから想定して言葉で強化された射程は少なくとも回避不能。ダメージを逃れるためにはその刃物でのガードが必要のはずだった。

 私は視ていたはずだった。刃物が抜き取られるのならばそれを認識して次の行動につなげるだけの準備があった。

 だけど、刃物は消えた。抜き取られるでも、それをさらに動かし扉を排除するのでもなく、刃物の存在そのものが不可視となる。

 切断箇所から扉が壁ごと滑り落ちる。その向こう側には誰もいない。

 その場から動かず、概念刀を構えたまま状況を観察する。


 存在の不在。初めに感じたことはそれだった。

 そこには何もなかった。私の《瞳》なら、通常の《怪異》や《異能》の残穢を終えるはずだった。そうだというのにそこには空白があった。「私が切断をした」という結果は確かに存在していたのに、そこには痕跡がなかった。何かしらの《怪異》による現象というのにも異質だった。どのような存在も、そこにいたのならば痕跡が残る。命を持った存在の行動には必ず何か反響が存在するものだから。

 それでも、そこには何もなかった。

 私が視たはずの、ドッペルゲンガーが刃物によって攻撃し貫通させたはずの穴すらもなかった。

 そこに残っていたのは私による切断の痕跡だけだった。


『お前は』『お前には』『我々は見つけられない』


 全身が粟立つ。それは賭けだった。そのまま停止していることが、一番のリスクだった。

 右斜め前方へと跳躍、自らの開けた壁と扉の切断箇所からタワー内へと入るように飛ぶ。ほんのコンマ零点数秒前までいた箇所に殺意の伴った刃先が通過し、私の髪の一部を切断する。

 回避出来る方向をわかっていたわけではない。もしも見当違いの方向へと跳躍していたのなら、その攻撃を自ら致命傷へと変える行動だった。

 跳躍と共に全身の姿勢を《言葉》を利用して制御、強制的に視界を攻撃の出元へと向ける。

 やはり、何も存在しない。

 消えたのではない。存在していないという謎が私を襲う。


『視えないのだろう』『わからないだろう』『わかりたくもないのだろう』『理解できないのだろう』『理解したくないのだろう』


 一撃、また一撃と私を襲う。私は何も理解が出来ないまま体を動かす。


「ぐっ……!」


 右腕が切られる、脇腹を刃が掠める、背中を削がれるような熱さを感じる。

 認識出来ない。そして、それ故に何も出来ない。


 考えろ、諦めちゃだめだ。

 師匠を、先輩を、東光院さんは私がここに来れると、越せると信じたのだ。私がそれを信じないと、絶対にダメだと私は思う。


 よく考えろ、何を言っていた?


 ドッペルゲンガーは視える、と師匠は言った。

 俺には視えると東光院さんは言った。

 ドッペルゲンガーには顔がなかった。存在を認識するための個体証明。

 無数の人々の行方不明。定義が拡張され、町ごと乗り替わった存在。

 それでも、視ようと思ったのなら視えるもの。


『無駄だ』『お前には無理だ』『視えないものは視えない』『戦えないものには打ち勝てない』『お前を腐らせ、命を奪っていく』『死ぬ時にのみ、お前は我々の片鱗を知る』『お前には出来ない』『お前には視えない』『お前には、理解出来ない』

「――――ッ!」


 足に焼かれたような痛みが疾る。態勢を戻さないといけなかった。私はすぐに戦いのための姿勢を取らないといけなかった。

 そうであるのに、私はその痛みに気がとられる。痛みの苦しさからではなくて、私の中で何か疼くものがあった。

 知っている。私はこの痛みを知っている。

 痛みなら戦いの中で幾度となく経験してきたはずだった。殴られたし、切られたし、締め付けられたし、焼かれた時だってあった。それが任務だった。戦いだった。私の生きてきた道だった。

 そのはずなのに私にとってその瞬間の痛みは、記憶の中のどの任務のものでもなかった。私の中の具体的な記憶として残っていない何かだった。

 戦いの中で意識を向けてはいけない思考のはずだった。

 それでも、私はそこに敢えて意識を向けた。想い出さなくていけないと思った。どうして、そんなことを思ったのだろう? どうして、こんな時なのに私はそこに目を向けたのだろう。

 不思議と、私はその方がよっぽど向けられる敵意よりも私を襲いくる何かに近づいている気がしていた。


「ああ……ああ……」


 地面に膝をつく。私を別の苦痛が襲う。ぎりぎりと首を絞められる感覚がある。

 でも知っている。この痛みも知っている。私にとって、この対峙する《怪異》がもたらす痛みを知っている。

 俺にも視える。

 そう東光院さんは言った。まずはそこから始めなくてはいけない。

 体は動いた。私は、こんな時だというのに右目に義眼を戻す。首を絞められているというのに、命が次の瞬間には奪われているかもしれないというのに、もしも見当違いだったらすぐに終わってしまうというのに。

 だけど、「信じる」と言われた言葉を信じるなら、そうしようと私は思った。

 目減りしていく意識の中で、残った左目で私は目の前の世界を視る。


『どうして』『あなたは生きているの』『どうして』『あなたは忘れているの』

「……」


 体が同時に動いて、視界をズラす。

 声がするのは錯覚だと思う。私にとって絶対的な現実感を伴って疑う余地のないほどに真実だと思う声を錯覚だと無理矢理考える。

 私に、今の私にはドッペルゲンガーは視えないと言う。だけど私にはドッペルゲンガーを視えると皆は言う。

 私について《信じること》、信頼、信仰と今の私が永遠に今の私であることは両立するだろうか?

 違う。それは違うと私は考える。私が今の私であるだけで完璧で完全であることなんて誰も言っていない。

 きっと先輩もそうだろう。私がそんなことを言ったのなら「バカいってんじゃないわよ」と言うだろう。東光院さんも「何言ってんだ」ぐらいのことは言うだろう。師匠は鼻で笑うだろう。


 私を信じることと、私が変化しないことは別のことだ。

 私は今の自分を疑う。今の自分の中の完成された、疑う余地のない内心の世界を疑う。

 私を襲うドッペルゲンガーの攻撃も悪意も敵意も殺意も疑う。私は自分の前に進めるためならばこれまでの自分だって何もかも疑う。

 だから私は身体から力を抜いてやる。自らの首を締め付ける力を受け入れる。自らを殺そうとする力に抗わない。


『死ね』『死ね』『死ね』『消えろ』『消えろ』『消えろ』『我々の敵』『私を否定する者』『我等はドッペルゲンガー、世界の不可視の領域より来る者』


 全ての声を受け入れながら私はそれでいて信じない。頭がぼうっとしてきて、意識が遠のいていくけどそれすらも私は信じない。もしかしたらそれは死への後進かもしれなくて、自らを殺す勘違いかも知れなくて、どうしようもなく愚かなのかもしれないけれど私はその歩みを止めることはない。自らに迫り来る恐怖に対して私は概念刀を手放す。


 カラン、と音がする。

 本能的な恐怖が湧き上がってくる。涙が出てくる。私は死にたくないと思う。そして今手放したものは私にとっての命綱であるのかもしれなかった。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない。湧き上がる絶望に全身が芯から冷えていく。何もかも裏腹なことをしている。自分の考え、行動に対して絶対に希望を感じない選択肢を選んでいる。

 それは否定だった。これまでの自分が生きてきた道の否定だった。

 それでも、私は信じていた。師匠を、照子先輩を、東光院さんの言った言葉を信じていた。

 ――私はあなたを信じます。


 ああ、そうだ。この言葉は榎音未さんからもらったんだ。

 そしてその言葉は決して滅びない。私が自分のこれまでを否定しただけでは滅びない。言葉は残る、ずっと残り続ける。理屈でいくらでも疑えるものでも、私はそれを信じている。

 私を信じると言ってくれた人たちの言葉を私はその私自身を疑っても信じていることが出来る。

 あの人たちが私を信じていてくれるのならば、私の変わり続けることすらも信じていてくれるのだと私は思うことが出来るのだ。

 口から泡が出てくる。呼吸は維持できていない。視界が掠れていく。全身から力が抜けていく。

 ゴキン、と音がした気がする。それでも私は諦めない。死の淵にあるはずなのに私は自らの選択を愚かにも恐怖に怯えながら信じ続ける。


 折れた首が本来見えない角度に私の視界をずらす。


 床にはガラス片が散っていて、そこに映る私を視る。

 私の中に、私の言葉が流れ込んでくる。『瞳』を介していないはずなのに、私には私を構成する世界が言葉に視える。

 濁流のように押し寄せる言葉は私を傷つける。それでも私はそこに向かう。私はそれを恐れている。私はそれを視たくないと思う。私はそれを諦めたいと思う。私はそれを否定したいと思う。私はそれを思い出したくないと思う。

 それまで死への恐怖以上の、自身の存在自体を揺らがせること、というものの恐怖を私は感じ取る。死んでしまう方がマシだという気持ちを私は理解する。

 首を絞められているはずなのに私は何かを吐いているような心地になる。全身が今の自分を止めようと動き出そうとしている気がする。

 重なり合った無数の言葉の先、私はその中に一人の少女を見つける。


 私は視る。


 私は私を見つける。今よりもずっと幼い、ねえさんといた時の私を。

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