30.幕間2 フリだけでいい
車の走行が乱れる。彼はせめてハンドルを離さないことが精一杯だった。視界も悪くなっていく。激痛に耐えるために歯を食いしばり、両目も硬く閉ざしてしまいたいと思った。
「東光院さん!? ねえどうしたの!? 大丈夫!?」
彼の異変に気づいた久遠が叫ぶ。
激痛からも何もかも逃げてしまいたいと思いながら、それでも彼は思考を再開する。
バックミラーに映る存在を確認する。
そうか、俺には視えるのか。
確かに彼は知覚した。自らの生命、存在を今脅かしつつある敵を。そして、それを隣に座る少女が気づいていないことを。
なぜだ? なぜ俺には視える? 考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ!
彼はハンドルも意識も、それに伴う激痛も手放さない。自暴自棄になるのではなくアクセルを踏む、いつ彼の命が奪われるかわからない以上、少しでも久遠を目的地にまで送り届けないといけないと思っていた。
「東光院さん、血が出てるよ! 何処からやられた!? 結界もあるはずなのに……」
『この少女はお前を救えない』『我々を救えない』『気づきもしない』『お前はこのまま死んでいく』『どうせ何も成せはしない』
ドッペルゲンガーと名乗った存在。今自分の背後から命を奪おうとする者がそれだ。彼は考える。ドッペルゲンガー、誰かになり変われる存在。《怪異》として成立しえないとされていた存在。《信じること》を持たない、《異能》に至ることの出来ない自分が知覚出来る存在。
『お前はどうしようもない』『我々はどうしようもない』『どうせ何処にも辿り着けやしない』『お前は足りないから』『我々は足りないから』『何かを成すには脆弱すぎるから』
そして耳元で声がする。
『お前は、私だ』『お前もまた、我々と同じ』『ドッペルゲンガー、何処にでもいて、何処にもいない者、決して何者にもなれない者』
「――――」
彼の心に虚無が流れ込んでくる。それは激痛よりも遥かに彼の根本を溶かし、移ろわせていく毒。
少しでも忘れられると思った無力感が内側から心を腐らせていく。
『許された気にでもなっているのか?』『お前は変わっていない』『我々は変われない』『この世界のシステムの中でただ消えていく』『お前はその矛盾を見ておきながら何もしない』『何も出来ない』『卑怯者』『痴れ者』『なぜ生きている』『なぜ死なない』『死ね』『死んでしまえ』『手放してしまえ』『諦めてしまえ』『お前は苦しみの中にいる』『それは我々が我々である限り終わることはない』『終わらない』『続くんだ』『永遠に』『永遠に』
声が響く。響き続ける。
視界が擦れていく。意識も朦朧としている。
『だが、もうそれも終わる』『お前の絶望も『『我々の絶望も』『終わる』『ただ、お前は身を任せればいい』『我々で世界を変えればいい』『それが贖罪だ』『それが重要だ』『それがお前の』『我々の成せる唯一のことだ』
「東光院さん!」
何かに紛れて声がする。もう視界は暗闇になっている。全身が冷たい。体が鉛になったかのように重たく、動かしずらい。
それでも、彼は自分の腕を掴む誰かを感じている。
「くお……ん……」
声がうまく出ない。自分が運転をちゃんと出来ているのかわからない。ただ、途切れていない。続いている。
もう何十回、何百回と繰り返している。どんな時でも自分の無力を感じながら繰り返した。アクセルを踏む。見失いかけた触覚を意思で固定する。
もう後の道のりは直線だった。久遠ならば例え何かに衝突したとしても無事だろう。
「俺を……信じれるか……」
情けないなと思った。こんな時でもまだ自分はあと一押しを必要としている。人生の最後だと言うのに、自分よりも若い人間に縋っている。
それぐらい自分は半端なのだ。何かを成すことには足りないのだ。そう東光院は思う。
ただ、そうであるのに今の彼は絶望していなかった。
「信じるよ」
その言葉が暗闇の中を通過した。彼の体に熱を灯した。鉛のようであった体に血が通っていることを思い出した。
命の燃焼があった。あといくばくかであっても、確かに今この瞬間、彼は自分の命を自覚した。生きていることを自覚した。自分の存在を、誰にでもなく自分自身に証明した。
そう、ずっと彼はここにいたのだ。彼は目を逸らさないでここにいた。それは自分自身でも信じきれないようなことで、情けないと彼が卑下したことで、絶望したことで、代わりのいくらでもいることで――それでも彼がやり続けたことだった。
それは誇りだった。もっと上手く出来たこともいくらでもある。上を見れば情けないほどに上がある。自分の中途半端さから目を逸らせるほど、若くもない。
でも、信じると言われているのだ。その半端さに救われると言った人間が一人はいるのだ。
ならば、その一人に報いるべきだ。
この世界の悲しみも絶望も、今の彼には関係がなかった。今彼にとって存在する世界は自分という存在を信じると言われた、その言葉に宿っていた。
そんな言葉で、今の世界は出来ている。
意識を取り戻す。視界が戻ってくる。
「停めて、停めてよ! このままじゃ死んじゃうよ! 私が治す。私の言葉で血を止めて、それからちゃんとした治療を受ければ」
「ダメだ」
さっきまでの自分の声と違うと思った。はっきりとした言葉が言えたと思った。
「久遠、俺は今、人生で初めてってくらい何かを心の底から信じてみたいと思っている。裏切られてもいい。ヤケになっているわけでもない。今、自分が全てを賭けても信じていいって生まれて初めて思っているんだ。生きていて良かったってのはこういうことだ。俺にとって生きているってのはこういうことだ。だから、この道は行かないといけないんだ」
「わからない。東光院さんが何を言ってるのか、わからないよ」
涙ぐんでいる少女が彼の視界の片隅にいる。
自分を信じると言ってくれた人間をその日の内に傷付けている。それが自分の業なのだと思った。関わる限り、全く人を傷つけないことなんてないのだと思った。そしてそれを開き直るのではなく、ただ受け入れようと思った。
だから、残された時間は謝罪に使うべきではない。決めたこと、自分が信じようと思ったことを成さないといけないと思った。
もうドッペルゲンガーの声は聞こえなかった。
「久遠、おまえならやれる。何をやれるか、とか考えなくていい。ただ自分が出来ることをやるんだ。それが間違っていたと後でわかってもいい。間違いなんていくらでもする、誰だってする。もしかしたら生きていること自体が間違っていることかもしれないけど、それで死ぬやつもいるかもしれないけど、それでも生きている奴がいるのはいいことだと俺は思うし、生きるってのは責任を取ることだから何処かでその間違いと向き合えばいい」
「……」
「ただ信じてくれ。俺は今人生で初めて本当のことを言っていると思う。今この瞬間だけはそういう気分になっている。だから、大丈夫だ」
「何が」
「榎音未さんを連れ戻すことも、この世界で生きていくことも、幸せを見つけることも、幸せになることも、曇り空を見ていい天気だって周りと真逆のことを思って笑うこともなんでも出来る。どんなに希望が視えなくても、フリだけでいい、フリだけでもそういう風に思うんだ。いつかそのフリが大切な物になってることだってある」
「東光院さんにも、あるの。そういうの」
静かだった。さっきまでの喧騒が嘘みたいだった。
「ああ、今この瞬間がそうだ」
少女がぐしぐしと制服の袖で涙を拭いている。ハンカチを渡したかったが、それをするには余裕がなかった。そんなことも出来ないくらいに何も出来ないのに、嘘を言っているという気持ちにもならない清々しい気分だった。
「ドッペルゲンガーとかいうやつ、俺には視えるよ」
実利的なことも言わないといけないと思った。傷が一層痛みを増した。
「俺に視えるんだ、俺に気づかせてくれたお前なら絶対に視える。理屈じゃないんだ。お前があいつらを、視ようと思うならばいつだって視える。それは相当にしんどいだろうけど、大丈夫だ」
最後の一息だ。遥か遠くだったはずの目的地。それが見えてきた。
「俺はそれを――信じてる」
スピードは最高に達している。久遠なら必ず自分の言ったことに気づいてくれる。そう思いながらも時間を稼ぎたいと思った。本当に少しの時間で良かった。ただ、久遠が心を落ち着ける時間というのがあれば良いと思った。
「いいか、三つ数えたら飛び出せ、後のことは気にするな」
「……」
「頼むよ」
「わかった……でも、私も信じてますからね。今生の別れなんてくだらないことにしないでくださいね」
なんとかなるさ、そう言おうと思ったがもう言葉は出なかった。
ブレーキを踏みハンドルを切る。目的地であるタワーに対して車体が並行に並びそのまま慣性に従ってドリフト状態で直進をしていく。ちょうど久遠側から出ればタワーへと勢いをつけて飛び出せる。
「いけっ!」
言葉に血が絡んだ。こんなに必死になったことはいつ以来だったろうと思いながら、全身にかかるGを感じる。
久遠が扉を開き、振り返らずにタワーへと飛び出していく。
それでいい。そういう風に行ってくれることが、嬉しい。
ブラックアウト、それでも東光院妙寺は怖くなかった。自分が自分であるのだという実感を持っていた。
「お前らの好きにはならないんだよ、そう簡単にはな。俺は、お前らじゃなくて東光院なんだから」
その言葉と共に音が消える。タワーを残し、消えていく。
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