29.幕間2 卑怯者
彼の言葉に少女が動揺の表情を浮かべる。
「どうしたんですか急に」
「急にじゃない。ずっと俺が目を逸らしていただけだ」
「はぁ?」
「なぁ、この町の外で今が世界の危機だー、なんて自覚しているやつがどれだけいると思う? 俺みたいな能力のない人間が今この町に来て、この状況を見て、どう思うかわかるか?」
「……」
「答えは何も見えないわからない、だ。お前や逆辻、塾長は違うだろうな。確かにおかしな状況だって思うかもしれない。でも俺みたいな《異能》がない人間からすると今の俺の目に映る世界も昨日、先週、先月の世界も大して変わり映えがない」
「でも、車がつっこんできたり」
「わかってる。確かに襲撃はあったよな。俺も頭でそれだけの何かが起こっていると考える。じゃあ質問だ、その後に及んでどうして俺には《怪異》やさっきの箱使いとやらの《異能》が視えないんだと思う? 俺は塾長が空間を隔離したって聞いたが、何も知らないで黙々と五葉塾の建物のなかで事務処理をしていたよ。全く気づかないで過ごしていた。塾長が送迎しろっていって、初めて事態を聞いたんだ。それでも、今もなお俺は、正直何かのドッキリなんじゃないかって思ってる」
「……」
「結局心の奥底で信じられていないんだよ。平和ボケしてるんだ。これまで続いた世界が何の保証もないのに、これまで続いてきたってだけで永遠に続くと《信じている》んだよ俺たちみたいなどうしようもない奴ってのは」
歪な爽快感があった。彼がずっと心の奥で考えていたこと。人間のどうしようもない怠惰。目の前にどれだけ絶望的で、劇的なことがあったとしても何処かで日常の絶対性を《信じている》傲慢さ、その悪性を否定すること。
それが自己否定だというのに彼にとって妙な清々しさがあった。
「《信じること》が世界を作る。それならどうして《異能者》や《怪異》でない存在の《信じている平凡さ》、って奴が優先されないんだと思う? 俺たちが平凡な世界を《信じている》のなら、それが持続する、今日も明日も明後日も続いていく。塾長の話からしたらそうなってもおかしくないと思わないか? 久遠」
「それは……」
「必死じゃないんだよ! 俺みたいな何かを信じ切ってない人間には必死さが足んないんだよ! 今ここ、って危機感がないんだよ。自分で世界を保つつもりも、良くしていこうって気持ちが足りないくせに、一丁前に明日は何もせずとも与えられるって思っているんだよ。そうしてお前みたいな奴が必死に任務こなして、命を危険に晒した成果でのほほんと生きている。だから足元掬われるんだ。必死に世界をぶっ壊そうという意志で壊されようとしているんだ。それって壊そうとしている奴等だけのせいか? 俺たちみたいな奴が必死こいてこの世界を守ろうとしていないからそういう隙を与えているんじゃないか? 見て見ぬふりどころか、気づきもしないでのほほんと過ごしている。そういうどうしようもない奴がほとんどなんだよこの世界は。俺みたいな卑怯者は」
彼は自分を醜いと思った。いや、ずっと前から思っていた。何かに自分の平穏を委ねているくせに日常の中で過ごす自分が。頭でわかっている、と嘯きながら行動に移さない自分が。
「だからお前は責任なんて負う必要がないんだ。仮にお前が全部やめてこっからいなくなっても、それで世界が終わるなんて本気で思うやつはいない。そういうやつは何かしら行動しているんだろう。正しさとか、どうあるべきかなんてすっ飛ばして、がむしゃらになにかやっているんだろう。でもこの状況で、これだ」
外を見る。同じようにタワーへ向かおうとしている車も、通行人もいない。
もう遅いことを話していると思った。逆辻にだって言えたはずなのに、もっと早く言えたはずなのに言わなかった。いや、彼は自嘲した。逆辻もいたらあっさり反論されて、何も言い返せないと思ったから言わなかったんだろうと考えた。そしてそれは事実だと思った。
久遠が定まっていない、葛藤の最中だから言えるんだろうと思った。今ならここから逃して、自分の罪悪感を解消出来ると思ったから言ったんだと思った。
卑怯だった。何処まで行っても、救いがない。
「もう一度言うぞ。久遠、お前はどうして五葉塾にいるんだ。任務も、能力も、全部無視しろ。金なら任務で溜まっているだろ。外に出て生きていくのに足りないなら俺が貸してやってもいい。理由なんて何処にある。ないだろう、何処にも。理由なんて何も」
「違うよ」
凛とした声が、彼を静止した。
「絶対! 違う!」
それは叫びだった。唐突な大声は彼の体によく響いた。
「わからないよ、なんで五葉塾にいるかってわからないよ! でも、私は別に見ず知らずのために命をかけている訳じゃないよ! そりゃあるよ、やってらんないとか、辛いとか、私は思ってるよ、そうだよ、そう、今だってずっと悩んでるよ! 意味あるのかもわかんないよ! すぐ流されてさ、今日も照子先輩にどやされてさ、それぐらい不安定だよ。でも今、あそこに向かってるのは任務だからでも、五葉塾にいるからでもないよ!」
「……」
「東光院さん、東光院さんはどうしてここにいるの?」
「仕事だから」
吐き捨てる。
「嘘」
「嘘じゃない」
そう再び吐き捨てる。なのに、自分の言葉だというのに彼はザラ付いたものを感じている。
「東光院さんが《異能》を持ってないの知ってるよ。東光院さんが言うように確かにそれは《信じること》がないからで、世界が壊れないと思っているのかもしれないよ」
「そうだ、だから」
「でも東光院さんはここにいるでしょう!?」
「――っ」
反論をしたかった。でも、言葉が続かなかった。
隣にいる少女の、言葉に、何処か打ちのめされる。
「ねえ、東光院さん、よく考えて。私の話を聞いて。それでもう一回考えて。いい? 見てみぬ振りが出来る人がここにまで来ないよ、私に今みたいなこと言わないよ。卑怯者って言ったよね。東光院さん、自分を卑怯者って言ったよね。でも、でもさ、でも東光院さんは私たちを見ているでしょ?」
「そうだ、卑怯者だ」
「卑怯者は、私がしようとしていることを止めようとしないよ。無視するよ。見なかったことにするんだよ。透明なものって思うんだよ。自分が取りこぼしたこと、出来ないことを見つめたり、それを認めたりなんてしないんだよ。わざわざこんなところまで私を送って、信じられていないことを信じようとしてくれたりなんてしない」
「違う、俺は……そんな綺麗なものじゃない、俺はずっと気づいていなかったし、今もずっときっと取りこぼしている」
久遠が地下から這いずり出てきた時、彼は自分をどうしようもないガキだと思った。自分がやっていることが少しでも世界を良くすることにつながっているなんて思い上がっていて、犯人が身近にいるのにそれにも気づかないで、ただ自分を善良な存在だなんて思い上がっていた。
漠然と此処ではない遠い何処かに天国と地獄があって、それで天国の方に自分はなんだかんだいけるぐらいには善く生きているんじゃないかと思っていた。
でも違う。地獄はすぐ近くにあって、それを知らないで生きているのが自分だっただけだ、そう彼は思った。
「視るのって、疲れるんだよ。『瞳』で色々なものを視えたけど、やっぱり疲れるし、辛いよ」
「だから……」
辞めろと言いたかった。そんなに苦しいのなら、辞めてしまえばいい。足を止めてしまえばいい。それを責める人間なんて、どうせ碌でもない奴だ、そう言おうとした。
「でもね、私は視るって決めたんだよ。だから師匠は私に『瞳』の使い方を教えたし、《言葉師》としての技術を教えたし、概念刀を渡した」
「どうしようもない奴らに利用されているとは思わないのか」
「そのどうしようもない奴ら、ってのに東光院さんは入ってるの?」
「ああ」
「じゃあ、やるよ。全然やる。私は何も知らないし、どうしてこんなことになってるのかもわからないし、さっき落ちたばっかだし、これからのこともわからないよ」
「ダメダメじゃねえか」
「そうだよ。どうしようもないよ。だけどさ」
彼女は東光院を見つめて言った。
「私は五葉塾が好きだよ。師匠とか先輩とか榎音未さんみたいな人がいれて、東光院さんみたいな人もいてくれる場所で、私が生きている場所だから」
「他にもっといい場所があるとか思わないのか」
「他にもっといい場所があるってことと、私が今いる場所を好きってことは矛盾しないし、そ
の他にもっといい場所にいくとしたら、ここをちゃんとやってから次にいくよ」
「辛い任務もある、辛い出来事だってある」
「好きって何でもかんでも嫌なことがないわけじゃないでしょ。嫌なことも辛いことも、あるけど好きなんだよ。好きって、真っ直ぐじゃなくて、でこぼこしているんだよきっと」
「後悔するぞ。やってする後悔っていうけど後悔は後悔だぞ」
「後悔も青春のひとつじゃない?」
真っ直ぐとした言葉だった。根拠も理屈もない、ただ確信だけがある、そんな言葉。
ああ、やっぱり自分は情けない。そう彼は痛感する。
自分が悩んで、どうしようもないと考えていることを自分よりも幼い少女は直視している。それは打ち勝てるという確信でも、自分の特別さへの盲信でもなかった。
畏れながら、悩みながら、それでもただ目の前の道を歩むことを決めている。
「東光院さん、今私が東光院さんにお願いしたいのはさ、別に一緒に戦って傷つくことだけじゃないよ。いいよ、《異能》になんてならなくていい、そんな突き抜けなくていい、外れなくていい。そういうのは私たちみたいな外れている人だけでいい。私たちはズレてるんだよ。
世界に重なり合っているのに、一枚の絵で見たら同じはずなのに、ズレている。私たちは私たちが信じてしまっていることで、逸脱している。本当に簡単なはずなのに、外の風景ひとつでも視えているものが違くて、分かち合えない。
でも、それでもね、そんな外れていない人がさ、東光院さんみたいな人がさ、わかろうとしてくれる、同じものを視ようとしてくれるって嬉しい、嬉しいんだよ。私とか照子先輩とか師匠といかだけって、居心地はいいかもだけど、そんなズレてる人しか分かり合えないって孤独だし、寂しいし、希望もないんじゃない? 私じゃとても住めないようなところに住める人が私のことを応援してくれて、『信じてる』ってその瞬間だけでも思って、言ってくれるって嬉しいよ。それが、その嬉しいが希望ってことじゃない? 絶対でも完璧でもないくらいあやふやだけど、そういう人でも私を信じてくれてるってすごい救いじゃない?」
「完璧じゃなくてもか」
「完璧なんて幻想だよ。私は視てるもの」
完璧な《怪異》も《異能》も存在しない。さまざまな揺らぎがあって、言葉のように裏腹で、それは形を持つほどの《信じること》でも変わらない。
「中途半端な信じる強さで、半端者のまま応援しろと」
「そうそう」
「悪意あるだろ……」
「信頼ですよ東光院さん」
軽口だ。いつもと同じ、送迎の時の久遠の言う軽口。ありふれた、聞き飽きたような軽口だった。それでも、その軽口を聞き飽きるぐらいには自分はここにいたのだ。
納得はしきっていない。自分の卑怯さの根拠ならいくらでもある、でも、隣に座る少女はそれを聞いても言葉を変えないんだろう。矛盾をしていようと、自分が悩んでいようと、迷っていようとそこは変えないんだろう。
東光院妙寺は自分を信じない。自分が素晴らしいものでも、綺麗なものでもないと思っている。
でも、それでもそんな自分でも助けになっていると言う存在がまだいるのであれば、浅ましく、薄っぺらく、卑怯と東光院が思う自分でも必要と言うのであれば。
「わかった。信じるよ」
それに答えるぐらいはしなくてはいけないと思った。そう信じたいと思った。きっと、この《信じること》も足りないのだろう。奇跡なんて起きない、何かを変えることなんて出来ない。それでも、信じきれない人間なりに信じようとしてみよう。かつて自分が理想を追っていた時のように、愚かにもまっすぐに。だが――
『そんなの。許さない』
声が聞こえた。彼にだけ聞こえた声だ。それは囁きというには煩すぎる。
『お前は救っていない』『お前は助けていない』『お前は何も成していない』『無力だ』『無能だ』『無価値だ』『無意味だ』
だから。
『そんな存在でありながら』『私』『僕』『あたし』『俺』『自分』『我々ではないなんて言わせない』
「――――ッ!」
彼を襲ったのは激痛。それも体の何処かの破壊を伴った、徹底的で決定的な破壊。
一瞬ハンドルを持つ手が彼のコントロールから外れる。激痛によって意識は明晰であるのに、体が思うように動かない。遅れて激痛の在処を理解する。鳩尾の下、腹部に何かが背中から貫かれている。
『我はドッペルゲンガー、何者にもなれず、この世界の何処にもおらず、そして何者でもあり、何処にでもいる者。我等はドッペルゲンガー、信じるものを持たない、お前と変わらないもの。お前はお前ではなく、我々であり、我々は単一であり全てである』
『そして』
『私はお前だ』『我々はお前だ』『お前は我々だ』『お前は私だ』
そんな声が、彼にだけ聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます