24.幕間 逆辻照子について
変えられない未来は絶望と同義だった。
六歳の少女にとってその情報量は過剰で、その場で崩れ落ちて泣き喚いた。最初のうちは環境の変化を嫌がって親に駄々を捏ねて泣いているのかと思っていた周囲もひたすら助けを求め苦しむ少女の様を見て徐々に反応を変える。
それでも、逆辻照子にとってそれは絶望だった。それまで彼女にとっての世界は自分の喜びも苦しみも完璧なものだった。自分が笑えば両親も笑い、自分が悲しむ時は両親も悲しんだ。だからそれが世界だという認識をしていたし、そんな世界を愛おしいと思っていた。何があっても最終的に照子は世界を理解出来ると思っていたし、世界もまた照子を理解するだろうという感覚があった。
どうして、そんな曖昧なものに確信が持てたのだろう。信じることができたのだろう。
それはもう逆辻照子自身にとっても理解が出来ない過去だった。
地面に倒れ込んで涙がアスファルトに溢れて滲んでいった。涙で濡れたアスファルトを地面を這う蟻が何事もなかったかのように通過した。 彼女の視界に飛び込んできたの無数の未来の断片だった。それらの意味はわからなかった。ただ『視てしまった』ものが絶対的な事実だと、理屈でなく感覚で信じてしまっていた。
彼女にとっての完全さは損なわれた。他の人にとって視えない『未来』は誰とも分かち合えないものだった。それを伝えようにも自分の気持ち以上に「話してはいけない」という絶対的な感覚が彼女に立ちはだかった。彼女の脳裏には無数の未来とそれを視た自分への制約があった。
それは逆辻照子の《異能》である未来視の発露だったが、彼女のコントロールを超えた情報として自身を縛っていた。
呼吸をするように。眠るように、食べるように。絶対的なルールが自分に新たに備わったのだと理解した。理解してしまっていた。
今視たものは、変えられない。変わらない。絶対に。
入学したばかりの学校には通うことが出来なかった。担任やクラスメイトや幼稚園の友達が保護者と共に訪れたが、もう彼女にとってそれは心の動くことではなかった。自分にとって切実なこと、訴えたいことを伝えても理解されないのならば、それは話すこと、関わっていないのと同じだと思った。
透明だった。実体を持ちながらそこに自分は存在していないと思った。
もう、生きているとはいえないと思った。ただ、確定した未来の断片を繋ぐための作業でしかなかった。
死ねばその視てしまった未来に辿り着かずに済むと考えたが、それも怖くて出来なかった。
その恐怖、その葛藤、その決断、それすらも未来に組み込まれているのだと絶望した。
ただ、毎日いずれ来るであろう『視えてしまった未来』が来る日を恐れた。視てしまった全てが正しいという確証が得てしまうのが怖いから。
そしてある日、一つの未来が訪れる日がやってきた。
皮膚が切れそうなほどに風が冷たい冬だった。
それは一縷の望みだった。夜中に寝巻きのまま家を抜け出した。全身が震え上がるほどの寒さだったが、構わずに走った。走るうちに体温が上がり、空気の冷たさが少しだけ心地よく感じた。
近所に交通量の多い大通りがあった。高速道路と数車線の広い道路と近くを流れる川が立体的に交差している場所だった。
小学生だった彼女がもしも道端で人と出会ったのならば、警察に連れていかれるか、誘拐されるか、いずれにしても彼女がそこにたどり着くことは出来なかっただろう。
それでも彼女はその場所へ家から一直線に向かい、十五分ほどの道のりであったにも関わらず誰とも遭遇することはなかった。
その場に到着して、道路を行き交う車を見ていた。
ここに誰とも会わずに到達出来たのは偶然だろうか?
そうではない。自分がここに来ることは運命だと確信していた。今、ここに逆辻照子が立っているということは、これから起こる『視た未来』が存在するという証左だった。
視界の左側でオレンジの光が散った。知っていた。
爆音が鳴り響き、高速道路よりも高いビルから火の手が上がった。知っていた。
それに動揺し、高速道路の車が玉突き事故を起こす。知っていた。
その光景を逆辻照子は視たことがあった。それは六歳の少女が初めて未来を視た時の情景だった。爆炎と連鎖する事故、狂乱に包まれる街を彼女は視ていた。
そして、そこから立ち去ろうとしている存在がいることもまた、彼女は視ていた。野次馬でやってきた人々の合間を縫うように流れに逆らっていく人がいた。
「待って」
気がつくと言葉が口から出ていた。
照子にとってそれは自分でも未知の領域だった。彼女が視た光景は事故の情景と、そこから逃げる存在がいるところまでだったから。
自分の声が自分の耳に届いて初めて、照子は自分が何を言ったのかを認識した。自分が、その誰かへと話しかけたことを認識した。
声をかけられた人物が振り向く。驚愕の色が一瞬浮かび、消える。
その人物は男性で、淡々とした顔をしていた。そこに感情はなかった。ただ事務的な、破壊を執行する者の意志だけがあった。
彼は《
彼はそれを《修正》と定義していた。そして彼の《修正》は一定時間目視した対象物の爆破という《異能》によってなされていた。
その制約上、戦闘向きではない《異能》だったが、目視は肉眼だけでなく、双眼鏡といったレンズ越し、インターネットを介したWEBカメラ越しであってもリアルタイムな同期さえ取れていれば機能した。
それ故に、公安や五葉塾でも存在を認知しながら、確保することが出来ない。そんな《異能者》だった。
彼には美学があった。彼には信念があった。彼には確信があった。
自らのやっていることが神の意志だという信仰があった。故に、彼はその《異能》を扱いながらも、時に現場に身を晒した。それでもなお捕まらない自分を感じるたびに、彼は自らの信仰の正しさを確信した。
しかし、今夜はそうではなかった。
彼にとって、決して揺らぐことのなかった信仰に対しての不純物が存在した。
「いや、これも全ては必然のはずだ。ならば全てに意味はある。理由はある」
ぶつぶつと呟きながら《修正屋》は照子の手を掴み引きずるように進んでいく。
失敗した。彼女は反射的にそう思った。きっと、知らない顔をして過ごせばよかったのだ。きっと、気づいたことから目を背けておけばよかったのだ。その瞬間の感覚を信じ切ってしまっていても、素知らぬ顔で生きていけばよかったのだ。
それでも、そうは出来なかった。ここへやってきて、自分から首を突っ込んでしまった。どうして、自分の無力さを知っていたのにやってきてしまったのだろう。どうして終わってしまったことに関わろうとしてしまったのだろう。
「なぜわかった」
路地裏で壁に叩きつけられる。揺れた視界の先にほとんど履いていなかった自分の靴が映る。そこからまだ照子は自分の意志で視線を上げられないでいた。相手の瞳を見つめられば何かが書決まってしまう気がした。
心が揺れていた。自分の意志で家を出た。自分の意志でここへ来た。自分の意志で未来が今になるのを視た。
その時に逆辻照子に迫られた選択は外から見えるような命の選択ではなかった。殺されるか、どうなるかなど照子にとってはどうでもよかった。
これから自分が生きる道を直視するかどうか、その選択だった。それを選択するための知識も経験も思想も、何もなかった。本来であれば人生をかけて考えなくてはいけない命題がその瞬間、六歳の少女に突きつけられていた。
時間は待ってくれない。世界はただ不条理を叩きつけてくる。
「何か言ったらどうだ」
男が照子を直視する。照子の命、そのものに突き刺さる視線だった。
照子の思考が加速する。人生、命のようなものがその瞬間に凝縮される。
もしかしたら、このまま何も視ないことを選べば死ねるのかもしれなかった。それは直視してしまった未来がなかったことになるのかもしれなかった。
何も変えられない絶望を、リセット出来るのかも知れなかった。
※※※
車から着地して体勢を立て直す。コンディションは問題ない。着地による負傷もなし。全身は照子の意志を十全に反映させられる準備が整っていた。
「アンタが足止めをやってくるとは思ってなかったけど。人材不足なのかしら? それともそちらのボスに見捨てられた?」
目の前に悠然と佇む男――箱使いを睨みつけながらそう言葉を放つ。
「いいえ。私の意志で、予定通りですよ。これはね」
箱使いはそう呟き、笑った。
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