第3話 虫




何もかも脱ぎ捨てるように、最低限の衣服しか纏っていない俺は家にようやくついた。

しかし、鞄も何もかもを捨ててきてしまったために俺は家の鍵がないことにようやく気付く。

古びたアパートの二階だ。

下に大家がいる。

ほぼ下着姿で大家の家を訪ねるのは気が引けたが、家に入るにはもうそれしかない。

先ほど駆け上がった茶色く錆びた鉄の階段を降りると、俺は息を整えた。

やけに周りが気になる。


――さっきのは気のせいだ。最近疲れてるから身間違えただけだ……後で携帯を回収しに行こう……服も……


俺は大家の家のインターフォンを押した。

ブーッ……とそれが鳴って少しして、もう80代の老婆が出てくる。


「あの……二階に住んでる横田ですが、すみません、鍵を落としてしまって……マスターキーで開けてもらえませんか」

「あら、そうなの。鍵は弁償してもらいますからね」

「あ、はい……探しますので……」

「そうしてくださるかしら」


腰の曲がった、今にも折れてしまいそうなほど痩せているその老婆は一度家の中への戻って行って、マスターキーを持ってきた。

一段一段、よろよろと二階への錆びた階段を登って行く。


――早くしてくれよ……


やっとのことで部屋の鍵を大家はあけた。カチャンと鍵が開く。扉のところのポストにはチラシやら請求書や明細書などが沢山無造作に入れられている。


「開けたよ。まったく……鍵を落とすなんて……」


ブツブツと言いながら大家は足取りがおぼつかない中下へ降りていった。

それを見送ることなく俺は乱暴に自分の家の中へと入って再び鍵を閉めた。

カーテンも閉めっぱなしで、布団もずっと畳んでいない。起きたままだ。布団の周りにはありとあらゆるものが散らかっていた。食べ終わったカップ麺の器に雑誌、ティッシュ、イヤフォン、ゲーム、充電器、ペットボトル、服………

ゴミもしばらく捨てていないせいか少し異臭がする。

そんなことは気にならない。

俺はやっとホッと一息つける、安心できる場所へやってきた。


「昨日食ったカレーのキノコが毒キノコだったんだ……だからこんな変な幻覚を見てるんだ……そうだ……後で会社を訴えよう……弁護士ってどうやって選んだらいいんだよ……ていうか、殺されかけたんだ……」


俺が自分に対してブツブツと言っていると、スーツの背中についたべったりした髪の毛と血の手形のようなものがフラッシュバックする。


「気のせいだ……気のせい……あんなことある訳ない……」


ぶつぶつ。

ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。


「駅のホームのアレも……見間違いだし、携帯も、板垣の悪戯だ…………」


ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。

ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。


俺は布団に行って横になろうかどうか考えたが、落ち着かない気持ちでなんだかそわそわと歩き回ってしまう。

見ないように努めていたが、足元のフローリングの隙間を見た。

何もない。

当然目のようなものはなかった。

物が散らかっている中、フローリングが見える面積は多くなかったが、当然なにも見えなかった。それに俺は心底ほっとする。


「疲れた……寝るか……」


少し寝てから、脱ぎ捨てたものや携帯を取りに行けばいい。とにかく一度この悪夢から目覚めたい。

俺は湿気ている布団に身体を包まれ、すぐに眠りについた。




◆◆◆




ガサガサ……


ガサガサ…………ガサ……ガサガサガサガサ……


「!」


なにかがうごめく音で俺は目を覚ました。

慌てて飛び起きると、まだそのガサガサ音が聞こえる。

右を見るとそのガサガサ音は右へ移動し、左を向くとその音は左へ移動する。


――またゴキブリか……?


俺が適当に近くにあった雑誌を丸めて辺りを注意深く観察していると、やはりガサガサという音がずっとしている。

キョロキョロと辺りを見渡すが、ゴキブリらしきものの姿は見えない。


やがて俺は気づく。


その音が、俺の耳の中からしているということを。


俺は雑誌をその辺に放り投げ、鏡の前へと走った。自分の右耳の中を注意深く見る。


「なんだよ……何が入ってんだ……」


焦る。

気持ちが悪い。

焦る。

このままとれなかったらどうしよう。

焦る。

焦っている。

気持ちが悪い。


洗面台の場所の蛍光灯をつけるが、耳の中は暗くてよく見えない。

それでもガサガサ音はまだ続いている。

綿棒が目につくが、綿棒で更に奥に追いやってしまったら二度ととれなくなってしまうかもしれない。

大人しく耳鼻科に行くか。

しかし、鞄を捨ててしまったということは財布ごと捨ててしまったということだ。

金がなければ耳鼻科には行けない。

あるいは、救急車を呼んで救急外来で診てもらうか。

そんなことをずっと考えている内に、ボロリと何かが右耳から落ちるのが見えた。

床にボトリと何かが落ちる。

俺はそれに目をやった。


「うっ……」


白い、小さな芋虫のような、ウジのようなものがうごめいているのが見えた。

もうガサガサ音はしない。

一時はどうなるかと思ったが、とれてよかった――――

と、思った矢先、何かがその虫の横の、ゴミ箱の中のゴミの隙間からなにかが『見て』いた。


――!!!


俺は恐怖のあまり、ゴミ箱を蹴飛ばした。

ゴミがその辺に散らばる。


――見間違いだ。見間違いに決まってる…………!!


その散らばったゴミを俺は懸命にかき分けるようにその『見ていた』ものの正体を探す。

見つけたくない反面、どうしても見つけなければ安心はできない。いくら探しても、その『見ていた』物の正体は出てこない。

一時的に俺は安堵する。

見間違いだった。

そうだ。

疲れているだけだ。

自分に何度もそう言い聞かせ、俺はゴミ箱にゴミを戻すことなく布団へ戻った。


「はぁ…………」


耳に虫が入ったことで気が動転しただけだ。


「部屋……少し片づけないとな……」


俺は部屋を片付け始めた。

手始めにため込んでいたゴミ袋を出すところからだ。確か燃えるごみの日は明日だったはず。今日の夜に捨てても、バレなければ問題ないだろうと考えた。

両手にゴミ袋を持って、アパートのゴミの破棄場所へと持って行く。

辺りには誰もおらず、幸いにも咎められることはなかった。

それが終わったら次は溜めておいたカップ麺の液体ゴミを流し、再び固形ゴミをゴミ袋に入れるという作業だ。カップ麺ばかり食べていたせいもあって、ゴミ袋一袋の三分の一程度はそれで埋まる。

布団も一度畳んでみた。

耳から出てきた虫のようなものは確認できない。


――どこから入ったんだ……?


その後、汚い部屋はなんとか綺麗になった。

落ちていた髪の毛も掃除機をかけて綺麗にしたし、部屋の隅に溜まっていた埃に関しても一掃することができた。

ときどき掃除するのも悪くないものだと俺は感じる。


「はぁ……」


適当な服を着て、俺は投げ出してしまった荷物を探しに行くことにした。

恐ろしいものを見たせいか外に出たくなくて、ついつい掃除に力を入れている間にもう夜になっていた。



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