第29話

(殺さないで!)


 脳髄を貫かれたような衝撃。俺は僅かに手元を狂わせたが、そのまま発砲した。スコープの向こうで、弾丸は斎藤の右肩を貫通。鮮血が舞い、斎藤は向こう側へと倒れ込んだ。


 微かな感触を得て振り返る。すると、冬美が血の池を作りながらも、俺の足首のあたりを指先で掴んでいた。よほど伝えたかったのだろう、『斎藤を殺してほしくない』という意志を。


「お、鬼原警部補、敵の狙撃手は?」

「排除しました。少なくとも、しばらく銃は握れません」

「分かりました。おい須山! 医療キットを用意しろ! 私は何とか、本船との通信を試みる!」


 小林は背負っていたバックパックから、大型の特殊通信機を取り出した。これまた流暢な英語で、状況説明を始める小林。その間に、須山が医療キットをぶら下げて戻ってきたが、それが役に立たないことは明白だった。


 冬美は仰向けに寝かされ、ちょうど夏奈に膝枕をされるような形になっている。口の端からは血が滴り、呼吸もままならない状況だった。


「冬美、死んじゃ駄目! 今治癒魔法をかけるから!」


 気道を確保するためか、夏奈は最初に、冬美の首筋に手を当てた。


「げほっ! ごほっ……、あ、姉ちゃん……」


 何とか出血が気管に入るのを防ぐ処置はできたらしい。

 次に夏奈は、冬美の腹部に空いた穴に手を当てようとした。しかし、


「うっ!」

「ど、どうしたんだ、夏奈!」

「魔力が……もうなくて……」


 目眩を起こしたかのように、冬美の血に塗れた手を額に当てる夏奈。

 俺は、絶望のどん底に突き落とされた気分だった。

 この光景を前に、小林と須山も、医療器具での処置は絶望的と判断したらしい。がらん、と音を立てて、医療キットが地面に落ちた。


「畜生ッ!」


 俺は屈みこみ、拳をタイル敷きの地面に叩きつけた。こんな時に、何もできないなんて……!

 そんな俺の腕に、そっと触れるものがある。またしても冬美の指先だった。


「……自分を、粗末にしないで、涼真……」


 はっとして見ると、俺の右の拳は皮が剥け、血が滲んでいた。『他人の心配なんかしてる場合か!』――そう怒鳴りつけようと、冬美に目を向ける。しかし、それを受け止めたのは、冬美の穏やかな瞳だった。


「涼真……」

「冬美、喋っちゃ駄目!」


 夏奈が声を上げるが、冬美は目だけを動かして、微かに眉を顰めた。夏奈に、申し訳ないというように。

 きっと、冬美も悟っているのだ。自分にテレパシーを発するだけの魔力が残っていないこと。どんな手段を講じても、自分が間もなく命を落とすであろうこと。それでも自分の中に、伝えたいことがあるということ。


「りょう、ま……」

「何だ、冬美!」


 俺は咄嗟に冬美の手を取った。


「どうか……自分を、たい……大切に、して……」

「俺なんかの心配はいい! お前こそ――」

「あんたが、死んだら……姉ちゃん、死んじゃうから」


 夏奈に施された呪い。両想いの相手が絶命すれば、同時に自分も命を落とす。

 その内容を思い返していると、冬美はゆっくりと、慎重に腕を動かし、夏奈の手を握りしめた。俺の腕もまた、自分の頭上へと引っ張っていく。

 そして冬美は、そっと俺と夏奈の手を握り合わせた。


「冬美、教えてくれ。これがお前の望んだことなのか? お前は……お前は死んじまうってのに……!」


 霧雨とは異なる、温かい水滴が俺の頬を滑り落ちる。


「生きて、いても、会えない……。その方が、辛いこともある、んじゃない?」


 蚊の鳴くような声で言葉を繋ぐ冬美。


「だ、から……。最後は、姉ちゃんと涼真が、これからも、生き、ていける、ように……。二人の絆、が、壊れないように……」

「冬美!」


 夏奈は冬美の上半身を引き上げ、背中から思いっきり抱き締めた。

 中世ヨーロッパの宗教画を連想させる神々しさ。

 それが現実の『人の心』によって体現されるとは。

 

 俺が呆気に取られていると、冬美は微かに目で合図をした。俺は確かに、彼女の意図を汲むことができたと思う。何故なら、身体が自然に動いたからだ。夏奈を冬美共々、抱き締めるために。


 その時、不思議な声がした。空気を介したものでも、テレパシーでもない、魔法すら凌駕する声。しかしそれは限りなく優しく、穏やかだった。


 ――もう涼真と姉ちゃんの邪魔はしないよ。


 直後、するりと冬美の身体は地に落ちた。ばしゃり、と水滴と鮮血が飛散する。

 この事態に、誰も声を発することができなかった。呼吸することさえも。


 沈黙を破ったのは、小林の握った通信機だった。


《こちら本船、間もなくこの海域を離脱する。搭乗者の回収を急いでくれ》

「……分かった」


 小林はそっと、夏奈の肩に手を載せた。


「さあ、夏奈さん」


 夏奈は俺の首に腕を回したまま、動こうとしない。


「今行かなければ、冬美さんの死は無駄になってしまう。来てくれ」


 そっと俺から身体を離す夏奈。俺の頬に触れ、その手で冬美の髪をそっと撫でて、立ち上がる。


 嘘だ。別れがこんなものになるなんて、悪い冗談だろう。

 俺は夏奈を笑顔で見送れるようにと、心に決めていたというのに。


 実際、自分がどんな顔をしていたか? 知ったこっちゃないし、知りたくもない。

 夏奈は一歩一歩、小林に支えられながら、ゴムボートの方へと歩を進めていく。

 俺はただ、それをぼんやり見つめていただけだ。寂しさも、哀しさも、愛おしさでさえ、胸中にはなかった。


 聞こえていたのは、寄せては返す波の音。

 見えていたのは、霧雨に霞むアメジストの瞳の少女。


 それだけが、俺にとっての全てだった。


         ※


 五ヶ月後。

 俺は狙撃銃を構え、息を殺していた。夜の森の中を、冬の香りの混じった風が素早く通り抜けていく。

 この狙撃銃は、小林から密かに譲り受けたものだ。本来なら『こんな状況』で使うものではないのだが、適宜カスタマイズして、俺専用の銃にしてある。


 赤外線スコープを通した向こう側に、『標的』の姿が現れた。のそのそとゆっくり動いている。俺は微かに狙撃銃を傾け、一撃必中の弾丸を放つべく、呼吸を整える。


「ふう……」


 自然と身体が脱力したところで、俺は引き金を引いた。

 パァン、と甲高い音があたりに響き渡り、目を覚ました鳥たちが一斉に上空へ退避していく。

 俺の今回の獲物。それは人間ではない。人里に降りてきて農地を食い荒らす猪だ。


 俺は無線機に報告を入れる。


「こちら鬼原、仕留めました」

《あんれぇ、兄ちゃんまた仕留めたのかい? 今日だけで三頭目でねえか?》

「そうでしたっけ?」

《若いのに大した腕だなあ!》

「いえ、仕事ですんで。取り敢えず、中村さんの畑の西側、百メートル地点に運送班をお願いします」

《あいよ!》


 俺は改めて、もう一つため息をついた。今日はもうこのくらいでいいだろう。

 熊除けの鈴を鳴らしながら、俺は夜闇の中を、我ながら慣れた足取りで下りていった。


 俺は雨宮姉妹脱出作戦の後、警察官としての資格を剥奪された。まあ、予想していたことだ。意外だったのは、それ以上の罪には問われなかったこと。

 俺が未成年だった、ということもあるだろう。しかし、それだけではないと俺は睨んでいる。きっと、人権保護団体を支援する海外の組織から、何らかの圧力が日本政府にあったのではないか。


 確かに、今の日本は『マイノリティを認める』という点で海外より立ち遅れている。それゆえ、今回の魔女狩りの真相が海外メディアにすっぱ抜かれては、国のメンツに関わる。そう考えられたのだろう。


 さて、今の俺はといえば、臨海都市を離れ、内陸の某県に移住している。高校へは通っていない。どうやって生計を立てているのかといえば、ご覧の通り猟師としてだ。


 二ヶ月前、俺はこの村に移住してきた。最初は若いからという理由で見くびられたものだが、実際次々に獲物を仕留めるようになり、逆に重宝されるようになった。

 生活の拠点は、村の公民館の一部屋。過疎が進んで集会などもあまり開かれない、ということで、雨風をしのげる場所として提供された。ひとまず自腹でネット回線を接続し、これまた自腹で定期料金を払いながら、俺は生活している。


 しかし、この村で生活していくにあたり、俺には唯一絶対の掟があった。狩猟対象である動物は、殺さないということだ。

 先ほど猪を撃ったのも麻酔弾である。害虫は致し方ないが、せめて害獣くらいは殺めずに野山に帰してやりたい。それがどこか、冬美の最期のメッセージと繋がるような気がしているのだ。俺の勝手な解釈だが。


 ある朝、俺の家(と化している元公民館)のポストに、手紙が投函されていた。俺は寒さに手を擦り合わせながら、しかし心温まる気持ちで封筒を取った。


「やっぱり小林さんか」


 小林正人・元巡査部長(警視庁潜入時の身分)は、現在は東京の拘置所で懲役に励んでいるらしい。『懲役に励む』というのも妙な言い方だが、手紙にそう書いてあるのだから仕方がない。

 今日のトピックは、須山に連れられた娘の春子が会いに来てくれた、ということだった。須山夫妻も実施の三人の子供たちも、小林の娘である春子を、きちんと家族として認めてくれているらしい。何よりだ。

 俺は自分の頬が緩むのを止められなかった。

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