第10話

 そう。この日の月光には、感謝してもしきれない。何故なら、危うく俺は首を刎ね飛ばされるところだったからだ。


「ッ!」


 ぎらり、月光を受けて輝く刃。

 俺は慌ててしゃがみ込んだ。そのまま前転し、振り返る。何が何だか分からなかったが、強烈な殺気を感じたのは事実だ。

 そこに立っていたのは、男性所員である。今、俺を殺そうとしたのも。彼は右手に包丁とペンライトを一緒くたに括りつけていた。


「誰かと思えば、お前か、鬼原あぁあ!」

「なっ、何をするんだ⁉」


 俺の口からはそれしか出ない。男は再び包丁を振りかざし、奇声を上げながら迫ってくる。

 俺はじっと距離と速度を計り、第二斬を回避。横合いから男の鳩尾を狙って、フックを繰り出した。


「がっ!」


 呆気なく倒れ込む男。俺もまた、突然の緊張に息を荒くする。


「だはっ! はあ、はあ、はあ、はあ……」


 まさか死んではいないだろうが、一体彼に何があった? 俺は男の手から包丁を奪い取り、念のためベルトに挟み込んだ。

 

「おい、聞こえるか? どうして俺を殺そうと――」


 と、言いかけたその時だった。


「いやっ、止めて! きゃあああ」


 悲鳴が聞こえた。その直後に、何か柔らかいものが切り裂かれる音も。

 きっとトイレにでも起き、そこで何らかの事態に遭遇したのだろう。女子が一人、窮地に陥っている。

 俺は包丁を引き抜き、声のした方へと走った。そして、その光景を目にした。


 いつかの談話室。そこで、一人の女児が、否、その遺体が放り投げられるところだった。

 俺は驚きで声を失ったが、それよりも恐怖が、俺の口を封じた。


 全身が硬直し、足先から不気味な震えが這い上ってくる。だが、ここで殺気の主に見つかるわけにはいかない。俺も殺される。

 動け。動くんだ。今は、その何者かとの接触を避けなければ。


 そう考えることで、俺の脳裏に一抹の冷静さが戻ってきた。

 これは計画的犯行だろうか? それも複数人で? しかし、何のために?

 それよりも、同じような事件がこの建物内でいくつも起きているのではないか?


 そんな恐ろしい可能性に、俺は再び口に手を当て、喉元までせり上がってきた悲鳴と反吐を飲み込んだ。


 長身の男が、こちらに振り返る。ドアの陰に隠れる俺。その時、ちらりと顔が見えた。

 間違いない、浦西だ。今、女子を斬殺したのは浦西なのだ。


 一体何故? そう思考し始める前に、同じような悲鳴が施設中から、何度も湧き起こった。男子棟、女子棟、低学年棟、高学年棟、それぞれから、あたり構わず聞こえてくる。


 何が起こっているんだ? 俺は、せっかく身を隠したことも忘れて、浦西の背後に飛び出した。


「浦西先生!」


 足を止める男性、もとい浦西。


「んん? ああ、鬼原くんじゃないか」

「あ、あんた何をしてるんだ! 今、子供を殺しただろう!」

「私は子供なんて殺してはいないよ? 私が処分したのは――」


『社会のゴミさ』――浦西は、そう言った。


「な、何を言ってるんだ?」

「そのままの意味だよ。こんな施設に預けられるような子供に、まともに育つ者がいるとは思えない。だから、悪い目は早く摘んでしまうんだ。君もな、鬼原くん」


 俺は、咄嗟に包丁の先端を浦西の喉元に向けた。


「ほう、君にも得物があるのか。まあいい、すぐに楽にしてやるからな」


 先手必勝。俺は日頃鍛えてきた全身の筋肉を駆使し、包丁を引きながら浦西に突進した。

 こいつは、間違いなく次に出会った子供にも襲い掛かる。十中八九、彼または彼女は、無惨に殺されてしまうだろう。だったら――。


「俺が先に殺してやるッ!」


 浦西の腹部に吸い込まれていく包丁。だが、常人に非ざる速度で、浦西はこれを回避した。


「少し私の話に付き合え、鬼原」

「馬鹿か! その間にも、他の職員共が子供たちを……!」

「ならやはり、早々に決着をつけるべきだな」


 歯噛みする俺の前で、浦西はふらり、と芯のない動きをして迫ってきた。そして、彼の手にした刃を見て、俺はごくり、と唾を飲んだ。

 刃にぎざぎざがついている。殺傷力を増すための処置だ。ダガーナイフと呼ばれる一種の近接戦闘武器。包丁で相手が務まる代物ではない。


 しかし、浦西の動きには無駄が多かった。剣道部や柔道部など、武術に通ずる多くの部活を掛け持ちしていた俺になら、まだ戦えるかもしれない。


 ふらり、と浦西の身体が揺れ、ナイフが重心を掛けられて振り下ろされる。

 俺はそれを最小限の挙動で回避し、包丁を突き出す。それは、今度こそ浦西の脇腹に突き刺さった。しかし、


「ぐあっ!」


 直後、俺の左肩に激痛が走った。突き刺されながらも、浦西は巧みにナイフの軌道を変更し、俺を捉えたのだ。

 何故だ? まるで痛みを感じていないかのような動きではないか。まさか。


「あっ」


 俺は気づいた。浦西は目が虚ろで、涎を垂れ流している。きっと薬物に手を出したのだ。恐らくは、痛覚遮断ドラッグ。


「死ねえ!」


 水平に振りかざされたナイフを、俺は何とかバックステップで回避。月光の下、二つの刃が、熱帯魚の鱗のように煌めいた。


 こうなったら、一発で仕留めるしかない。幸い、浦西の動きは遅い。一機に懐に跳び込み、片をつける。

 俺は上半身を下げ、低姿勢になりながら、相手の刃の切っ先を見つめた。今だ!

 

 ヒュン、とナイフが空を斬る。僅かに横に跳んで回避した俺は、今度こそ浦西の腹部に包丁を突き立てた。


「ごぼっ!」


 脇腹ではなく真正面を捉えられれば、流石に動きは鈍るだろう。たとえ痛みを感じなくとも。

 俺は返り血で真っ赤になりながら、全身を捻って背中から浦西に密着。背負い投げを見舞った。


「があっ!」


 浦西の口から、赤黒い液体が垂れ流される。

 仕留めた。殺した、のか? 

 だが、人を殺したのはこれが初めて――などという感慨にふけっている場合ではない。俺は浦西の手からナイフを奪い取り、悲鳴の聞こえる方へと駆け出した。


 そこから先、俺の記憶は再び曖昧になった。ただ、敵一人につき一場面、というかワンシーン、明瞭な画像が脳裏に刻み込まれている。

 それは、苦悶に歪んだ顔だったり、袈裟懸けに切り裂かれた背中だったり、奇妙な方向に捻じ斬られた首だったりする。これらに共通しているのは、必ず出血が混じっているということだ。


 その晩、当直と言う名目で子供たちを殺めようとしていた九名のうち、七名を俺が始末した。


         ※


「あっ、あの、涼真くん……」

「ん?」

「傷は、大丈夫?」

「ああ、そうだな」


 俺はぐるぐると左肩を回してみせた。あの晩といい今日といい、難儀な左肩である。

 しかし突然、夏奈は声を張り上げた。


「そうじゃない! あなたの心のこと!」

「え?」

「そんな……そんな酷い目に遭って、心は大丈夫か、って訊いてるの!」


 そう言いながら、夏奈はすっと身を引いて目元を拭った。


「ん……」


 涙は女の武器だという。それが一般論だとしたら、確かに俺は常識から逸脱した、壊れた人間なのだろう。夏奈の涙に驚きこそすれ、慌てたり、狼狽えたりすることはなかった。


 きっと、何かに共感する、という心のパーツが欠落しているのだ。いや、欠落『させられた』か。

 だが、あの事件を境に俺が変わった、という自覚はない。問題の根はもっと深い。

 やはり、両親を喪ったあの日から、俺はずっと心の殻を被っているのだろう。児童施設での事件は、その殻をより強固にしたに過ぎない。


「人って変わるもんだよな、憎しみが生存目的になるなんて」


 いや、違うな。亡き両親を思い続けて十二年。二人の死の真相を追い、原因を――犯人をこの世から排除するということを最優先事項としてきた。そう言う意味では、俺はだいぶ変わらない、揺るがない類の人間なのかもしれない。


 俺が視線を落とした、その時だった。見事な右ストレートが、俺の左頬にめり込んだ。


「ぶぐっ!」


 幸い、負傷するほどではない。だが、それを放った人物を前に、俺はどうしたらいいのか分からず、困ってしまった。


「夏奈、一体どうした?」

「どうかしてるのはあんたよ、涼真くん!」


『そんなこと、とっくに分かってるさ』――そう告げようとした。が、言葉にはならなかった。無益な行為に思われたのだ。これ以上、目の前の少女を泣かせてどうする?


 しばしの沈黙が、この部屋に降り積もった。壁掛け時計の音が、カチリ、カチリと文字通り時を刻んでいく。

 夏奈は静かだった。静かに泣いていた。嗚咽を漏らすこともなく、呻き声を上げることもなく。

 俺はそんな彼女を前に、何も言えないことを歯がゆく思った――とでも言えればいいのだろうが、生憎そうではない。

 かけるべき言葉がなかったのは事実だ。だが俺は、その言葉とやらを見つけようともしなかった。何をすべきか考えることすらなかった。


 ただ一つ思ったこと。それは、この一言に集約される。


「――ああ、薬、飲まねえとな」

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