第16話「記憶にない契約」


「ただいま」


キッチンにいる葵に声を掛けるが、彼女からの反応はなかった。

トントンと鳴らす包丁の音は一瞬の乱れもなく、まるでこの家に兄が存在していないかのように、料理を続けている。


誠也がどんな生活を送っていたのかは知らないが、彼は数年間、家に帰らなかったのだ。

その間に孤独な妹が直面した様々な苦悩は、部外者である僕から見ても容易に想像出来る。

もはや、怒りという枠を越えて、存在を無視するようにしたのだろうか。

人が怒りの感情を越えた先に行き着くのは無視だ。

そんな男が急に「僕は羽島真琴だ」などと言い寄って来たのだから、今朝の態度にも頷ける。


……下手に刺激しない方がいいだろうな。


姉弟喧嘩をした時、琴姉はいつも、ほとぼりが冷めるのを待って僕に話しかけてくれた。

だから僕は、彼女に聞こえるか聞こえないか程度の声で、去り際に小さく呟いた。


「今朝は……ごめん。頭が混乱していたんだ」


「………………」


返事はなかった。

聞こえていたのかどうかすら、今の僕には分からない。


僕の輪廻がどれだけ続くのかは分からないが、失った関係性は徐々に改善するしかない。

入った傷が深ければ深いほど、慎重に隙間を埋めていく必要がある。

それはよく知っているつもりだ。


そう考えて、僕が誠也の部屋に戻ろうとした、その時だった。


「……なに偽善者ぶってるの?」


いつの間にか、葵はその手を止めて僕の事を睨み付けていた。

右手には包丁を持ったまま、冷たい声が僕に刺さる。


「本当のことを言ったまでだよ。僕……俺が混乱していたせいで、朝は迷惑を掛けた」


その視圧に、思わず声が潜む。

怒りの対象が「自分」ではないと知っていても、向けられた敵意には胸が痛む。


「そういうのがウザいんだけど」


葵はそう吐き捨てるように言って、食卓から何かを取って投げつけてきた。

包丁か、と思わず避けるが、それは一枚の封筒だった。


「なにこれ?」


「知らないよ」


目の前に落ちた封筒を拾う。

宛先は稲沢誠也。差出人は西船山町警察署。


……事故の実況見分だ。

真っ先にそのことが思い浮かんだ。

遥と楓さんの話をまとめるならば、僕と衝突したのが誠也だったということになる。

恐らく、葵はその事情を何も知らないのだろう。


「勝手にするなら、勝手にしてくれればいい。好きにするなら、好きにすればいい。でも、私にまで迷惑を被らないで。私はこれ以上、誰かに自分の人生を左右されるつもりはないから」


バタンと大きな音を立ててリビングの扉が閉まる。

言うだけ言って、葵は部屋へと戻ってしまった。


「……………」


迷惑……か。


家族は支え合って生きる存在だ。

僕も琴姉も、羽島家はずっとそうやって生きてきた。

だが、今の稲沢家は違う。

稲沢誠也は、裏切ってしまったんだ。ずっと健気に家を支えてきた、稲沢家の妹を。


こんなものは結局、他人の家庭事情に過ぎない。

他人の僕がどう感じようが、結局無駄な心配をしているに過ぎないんだ。


でも、今の僕は稲沢誠也でもある。


葵が"僕"を迷惑な存在として見ているのなら……。


それは純粋に、僕が嫌だ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


他人の部屋に言うことではないかもしれないが、改めて見ても汚い部屋だと思った。

漫画の単行本やグラビアアイドルが表紙の青年誌が乱雑に広げられ、飲みかけのペットボトルが部屋中の至る箇所に散見できる。中には僕の知ってる漫画雑誌もあったが、それは数年前に刊行されたものだった。既に打ち切りとなった作品の主人公が、新連載の名義で表紙を飾っているものもある。


遥の話を聞く限り根は悪い人じゃなさそうだけど、

稲沢誠也が綺麗好きでないことだけは確かみたいだ。


しかし、物の散らばった部屋の中で、唯一整理整頓されているものがあった。

メタリックな光沢が際立った、赤色のエレキギターだ。

スタンドに建てられたエレキギターと、その横には楽譜らしきプリントが丁寧に揃えて積まれている。


そういえば、遥がバンドに関する質問をしてきたっけ。

察するまでもないが、誠也は音楽が好きだったのだろう。

それも、フェスやバンドを中心としたロックな音楽だ。

高貴なクラシック音楽や一般的なJ-POPを聴いていたような痕跡はどこにもなかった。


……誠也についても、少しずつ勉強しないとな。


僕が誠也として過ごすのなら、ある程度の知識は揃えておいた方がいいはずだ。

心まで誠也になるつもりはないが、

しばらくこの身体を借りて過ごす以上、必要最低限の知識はあった方が良いことは間違いない。


……また遥を頼ることになってしまうな。


そんなことを考えながら、僕は葵から受けとった封筒を開いた。

遥に頼る前に、僕は僕のやるべきことをやらなければ。


どこかで聞いた話だが、交通事故の後には事故の状況をまとめた実況見分調書が作成されるという。免許を持っていないので細かいことは知らないが、警察から送られてきたものならば、その類で間違いない。


――と、思ったのだが。


中から出てきたのは、二枚に渡る黒い紙だった。

B4サイズのルーズリーフが、全て黒色で印刷されている。

そして、そこには赤字で長文の文章が綴られていた。

文末に記載された差出人には、『東堂』と名前が書かれている。


……聞いたことのない名前だ。


黒い紙に赤字とは、差出人も趣味が悪い。

これじゃあまるでお化け屋敷の看板じゃないか。

事故を起こした者には恐怖を与える決まりでもあるのだろうか。

疑問はあるが、僕はそれを読み進めてみることにした。


――――――

9月3日(水)


安城美咲が交差点内へ進入。歩行者赤信号。

稲沢誠也がバイクで交差点へ突入。優先道路走行中。方向指示点灯は未確認。

直後、安城美咲の後方より進入者。羽島真琴。


羽島の進入により稲沢が人の存在に気が付いた模様。

衝突五メートル前にて急ブレーキ。バイク横転。


羽島の進入により安城が交差点の枠を外れる。

バイク後方より軽トラックの進入。

バイクの横転及び人の立ち入りに反応なし。衝突。

死亡者一名。重体一名。


以上、上記の報告を本契約の成立を証明する報告とする。

東堂

―――――


「なんだこれは」


読み終えると同時に、僕は自然にそう発していた。

事故の状況は書かれているようだが、警察からの報告とはとても思えない。

じゃあ、保険会社との契約書?

裏面にも目を向けてみるが、それらしき記載もどこにもなかった。

差出人は東堂としか書かれておらず、あとは封筒に船山町警察署の印鑑が押印されているだけ。


……それに。


事故の現場状況も、僕の記憶とは少し異なっている。

この報告によれば、直接的に僕の身体を轢いたのはバイクではなく軽トラックのようだ。

僕は轢かれる瞬間、ひとつの光を見た。

それはバイクだったと記憶していたけれど、違っていたのだろうか。


仮に、この報告が本当なのだとすれば、稲沢誠也も『加害者ではなく被害者となる』

僕らは、互いが同時に一台のトラックに跳ねられたわけだ。


「……………」


思考を巡らせ、誠也の部屋を見渡す。

しかし、いくら探しても、この契約の詳細らしきものは見当たらなかった。

そもそも、この契約が成立したからなんだというんだ。

それが理解できないことには、話を先に進めようがない。


「……あ」


だが、封筒の中をよく見てみると、

黒紙の契約書とは別に一枚の紙が入っていた。

同じく無機質な黒色の紙の中央に、小さく赤字で文字が刻まれている。


『羽島真琴:搬送先:海浜総合病院』


思わず、後ろを振り返る。

誰かの視線を感じたような気がして、血の気が引くような怖さがあった。


「どういうことだ。僕は死んだはずじゃ……」


死んで、輪廻して、この身体に転移した。

それがこの街の輪廻だと今まで思い込んできたのだけれど。


「搬送先」と書かれている。

つまりは事故に遭った僕の身体は、その病院に運ばれていったということだ。

今もそこに、身体があるのだろうか。

だとすれば、僕の身体は総合病院に残っているということになる……。


なぜそんなことを誠也に送るのだろうか。事故を起こした張本人だから?

そもそも、誰がこんな情報を誠也に。


分からなかった。

考えれば考えるほど、この封筒が謎に包まれていくような感覚だ。


だが……。


どういうカラクリかは知らないが、ひとつヒントを得たことは確かだ。

この身体でも美咲を救えると思っていたけれど、僕の身体が残っているのだとすれば、僕が元に戻る可能性を見出すことも出来るかもしれない。


そんな希望的な観測が生まれて、気付いた時には電話をかけていた。

後にも引けない今の僕は、考える前に行動すると決めている。


「どうしたの?」


電話越しに聞こえた遥の声に、僕は答えた。


「予定変更。明日は羽島真琴に会いに行く」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うたかたの輪廻 ―Novel Edition― 香月てる @katsuki_teru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ