第3章 稲沢誠也と稲沢葵

第15話「止まない雨」

固まった決意とは裏腹に、夕立の豪雨に襲われていた。

雨が降るなんて聞いてない。早急に帰らなければ。

そう思ったところで、ひとつ大きな問題に襲われる。


『僕、どこに帰ればいいんだっけ』


呆然とする僕を案内してくれたのは瀬川遥だった。

情けない話だ。状況が読めないまま家を飛び出してきたから、稲沢家がどこにあるのかすら分からなかったのだ。


公団の立ち並ぶ閑静な住宅街に、稲沢家はあった。

今朝、ここで目を覚ましたばかりだけど、ここは一応、僕の家ということになる。

抜け出すことも、逃げ出すことも出来ない。

僕が稲沢誠也である以上は、この家を拠点にして暮らしていくしかないのだ。


「それじゃあ、大変だと思うけど」


結局、遥は玄関前まで僕を見届けてくれた。


「申し訳ないね。最後の最後まで世話を焼かせてしまって」


「謝らないで。君がその姿で生きていくと決めたように、私だって君をサポートするって心に決めたの。それに、私は誠也の彼女なんだからさ。サポートされて当然と思ってくれていいよ」


「彼女、ね」


「ああ、ごめん。君には美咲ちゃんって子がいるんだったね」


「いや、美咲は彼女じゃない。ただの幼馴染……だよ」


そう、幼馴染。

僕はずっとそう思って、美咲と接してきた。


しかし、こうして立場が変わってしまった今、

僕と美咲を繋ぐ関係性はどこにもない……。


「……馬鹿だな、僕は」


「え?」


「いや、なんでもない。こっちの話だ」


結局、あかりの言う通りだった。

僕は美咲を失うまで、本当の感情に気付くことが出来なかったのだから。


……でも、今やそれは、抱いてすらいけない感情だ。


「ま、なんでもいいわ。とにかく、これから君は正真正銘、稲沢誠也として過ごさなきゃいけない。君の正体をバラそうとすれば、君は自分で立場を危うくする。分かった?」


「うん、分かってる」


……そう、これからの僕は稲沢誠也。

誠也として、美咲の過去を救ってみせる。


「明日は高台の方に行ってみようと思う」


「高台?」


「ああ。河川敷の裏に小山があるだろう? その近くに、ここら一帯を見渡せる高台がある」

「美咲の十年前に関する資料も、その付近にまとまっているはずだ」


「なんでそんな所に?」


「なんでだろうね。優秀な……いや、生意気な後輩の気まぐれって所かな」


問題は、書庫の鍵をどう開けるか……なんだけど。


「場合によっては、麗学にも顔を出すかもしれない」


「頭が良いんだか悪いんだか。ま、それが君の後悔を晴らすことに繋がるのだとすれば、なんでもいいわ。協力してあげる」


「ありがとう」


僕と美咲がいなくなって、きっと生徒会はあかりが回してくれているはずだ。

接触を図るだけなら難しくないだろうが……。

鍵を借りるとなれば、また遥に協力して貰う必要があるかもしれないな。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「ただいま」


玄関の扉を開いて、僕は恐る恐る中を覗く。

暗がりの廊下を抜けた先で、居間の電気が付いているのがすぐに分かった。


『ああ、葵ちゃんね。稲沢葵。あの子も私たちと同じ、三枝の一年生だよ』


決意を固めた河川敷で、遥に今朝の女の子について聞いてみた。

話しかけても無視を決められ、

口を開けば罵詈雑言。

終いには「話しかけないで」と拒絶までされてしまった少女。


「稲沢葵……誠也の妹ってことか」


「そうね。兄に言うことじゃないだろうけど、可愛い子だったでしょ?」


「……どうだろうな。見た目はともかく、とてもじゃないけど関われる状況ではなかったよ」


「何かしたの?」


「いや、単純に混乱していたんだ。目が覚めたばかりで、まさか輪廻しているなんて想像も出来なかったからね」

「ここはどこだ、僕は羽島真琴だ――なんて言ってるうちに、怒って出て行っちゃったよ」


「最初に会ったのが葵ちゃんだったのか。それはお互い気の毒だっただろうに。でも、きっと葵ちゃんが怒ってたのは、君じゃなくて、誠也に対してだと思うよ」


「……どういうことだ」


「単純に仲が悪かったのよ。誠也と葵ちゃんは」


遥曰く。

稲沢家は数年前から離婚協議を続けているらしい。

詳しい理由は聞いたことがないようだが、現在は夫婦別居中。

稲沢誠也の母親は実家に帰ってしまったそうだ。

一方、家に残った父親も、住居と生活金を用意するだけで、ロクに家へ帰って来ないのだという。


両親不在の稲沢家で、誠也と葵は互いに協力して生活を続けていた。

僅かな生活金を誠也がやり繰りし、葵が家事の多くを請け負う。

葵は不慣れな中で逃亡した母親の影を追い、必死に母の代わりを務めようとしていた。その姿に、誠也は心から感謝し、サポートをしていたらしい。


「……だけどね」


稲沢誠也に変化が起きたのは、三枝高に入学した頃だった。

マジメで妹思いだったはずの誠也は、自らクラスの不良グループへと加わっていった。船山町でも有名な不良軍団のボスに媚びを売り始めたのだ。髪も黒から金色に染め、耳にはピアスを開けて。

いかにも喧嘩上等な風貌に早変わりした誠也は、やがて学校にさえ来なくなってしまった。


遥は、それを止めることが出来なかった。

その根本的な原因が家庭環境に対する寂しさなのかどうかは分からないが、

不良集団に出入りするようになってからはまともな連絡も取れなくなっていたという。


連絡が取れるようになったのは、つい一月前のこと。

誠也が不良集団を抜け、元の生活に戻りたいと遥に相談してきたのがきっかけだった。


「誠也とよりを戻したのはここ最近のことなのよ。戻ってきたら叱ってやろうと思ってたけど……あんな気の抜けた誠也を見たのは初めてだったから、何も言えなかったわ」


その身体は今、僕の身体になっている。

僕を見て話す遥の表情は、どこか複雑だった。


「問題なのは、それで誠也と葵ちゃんの関係が拗れちゃったって所ね」


「誠也は家にも帰ってなかったのか?」


「みたい。どこに泊まっていたんだか知らないけど、半年くらいは家を放棄してたんじゃないのかな」


「そうか。それであの子……葵ちゃんは『なんで帰ってきた』って言ってたわけだ」


「葵ちゃんからすれば、裏切られたって感じでしょうね。私も同じ学校だからあの子と何度か話したけど、兄の話題は禁句みたいな感じだったわ」


「……そっか」


「ほんと、誠也は何考えてるか分かんないって人だった。でも、本質は悪い人じゃないのよ。葵ちゃんも、きっとそれは分かってるはず」


「なんとかやってみるよ。こんな状況で兄妹喧嘩をしてたんじゃ、いつまで経っても落ち着かなそうだからね」


「君、ご兄弟は?」


「姉がひとり。喧嘩なんてもう何年もしてないけど、対処法くらいは心得ているつもり。僕は僕なりにやってみるよ」


「そうね。いくら君が誠也の姿でも、今は君の考えでしか動けないものね」


「ああ」


こうなったら、僕なりに稲沢誠也を演じるしかないんだ。

置かれた状況は厳しいが、出来ないことではないはず。


「何かあったら遠慮なく連絡して。私に出来ることがあれば、いつでも力になるわ」


「ありがとう。それじゃ、連絡先だけでも交換しておこうか」


「私の番号なら登録されてるって」


「あ……」


そっか。

僕がこれから使うのは誠也の私物か。


「他人の物を使うのは気が引けるな」


「借りると思うしかないわね。その身体だって、借り物な訳だし」


「そうだね」


「これで登録されてなかったら、泣くけどね」




廊下の奥、居間の方で人の動く音がする。

葵は既に、帰ってきているのだろうか。


遥から聞いた現状を考えると、葵と誠也はもう何年も口を利いていないはずだ。

そんな関係性の兄妹で、僕は兄としてどう出るべきか。


……琴姉と喧嘩した時、琴姉はどうしてたっけな。


微かな記憶を頼りに、僕は扉を開いた。


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