エピローグ1 あきととみかこ

 父親として生きてきて、久しくみたことのない笑顔の娘を見た。


 これほど嬉しそうだったころは幼稚園ほどまでさかのぼらないと思い出せそうにない。


 あまりの笑顔に呆然としていると、目の前で娘と家出保護をしてくれた女性が別れを済ませていた。


 「絶対戻ってきますから、約束ですよなつめさん」


 感覚的にはホームステイ先の預かり人みたいなものだと思っていたのだが、なんだかそれ以上のものがあるのだということは察しの悪い自分にも感じ取られた。一体、どういうことなのだろう、そんな疑問を抱えながら帰りの車を運転する。話す機会をどこかで見つけようとしたが、妻も娘も旅行疲れからか早々に寝てしまい、一人車内で黙々と車を飛ばしていた。


 一体、どういうことなのだろう。疑問だけを抱えて、車は家族を乗せて進んでいく。



 --------------


 「あなたにとっての幸せってなに?」


 「家族の幸せだよ、もちろん」


 長女の美冬みふゆが生まれて間もない頃に妻に聞かれた質問がある。そのころの私は仕事が忙しく育児を手伝う暇もなかった。ただ、それは本心からの言葉だった。事実、休日にはよく家族を連れて外出したし、今思い返せばそのころは美冬も一番、笑顔が多かったかもしれない。二年後に美春が生まれた。最初は二人目だしなんだかんだ大丈夫だろうと高をくくっていた。ちょうど、私は仕事の忙しさがまし、それも相まって家族と触れ合う機会も少なくなった。


 そんなだからだろう、美春は私にはあまり懐かず母親にばかりひっついていた。あまりしゃべらない子でなんだか美冬と比べると、ぱっとしないなあとか私は暢気に考えていた。後々知ることだが、美春は実は家族内ではよくしゃべるほうで、私相手だとあまりしゃべっていなかったのだ。帰りの遅い私には知る由もない話だった。


 仕事の忙しさは増す、疲労にせっつかれて、帰宅後や休日も翌日の仕事のことばかり考えていることが多くなった。


 そんな折に、みはるがあまり友達がいないみたい、と妻に相談を持ち掛けられた。


 私はその時、どうしただろうか。よく覚えていない。よく覚えていないということは、おそらく大した考えもなしに適当な返事をしたのだ。疲労した頭には自分に懐いていない子供に対して真剣に考えるだけの余裕がなかった。


 美春の年齢が上がるにつれ、そういった話題が多くなる。みはるが問題を起こせば、時折、美春をしかりつけることもあった。妻はひどく怒ることはしなかったから、そういったものが私の役目だった。ただ、そのたびに美春はねめつけるような視線で私を見ていた。それが腹立たしくてさらに声を荒げたりもした。今にして思えば、たいして家にもおらず、怒るばかりの父親など美春には鬱陶しくしか映っていなかったのだろう、酷く自然な流れだった。そういった話題の際は美冬は一人で静かに端っこで見ており、時折泣いている美春の部屋に入って慰めているようだった。


 思春期になるにつれ美春はさらに気難しくなり、問題も深刻なものに近くなった。一度、美春が学校で同級生の筆記具をずたずたにすることがあった。美晴も事実を認めたので、その時は無心で頭を下げて、あとでみはるをひどく叱りつけた。そういえば、美春は事実は認めたが、どういった経緯でそういったことをしていたのかは聞かなかった。あの頃からいじめられていたのだろうか。いや、妻や美春自身の言葉を鑑みればもっと前からか。


 妻に相談されてもなあなあにして流す機会が増えた。もう、うんざりだと思った。そうこうしているうちに妻からもあまり話しかけられることがなくなっていた。反比例的に仕事の忙しさばかりが増していく、やりがいをもって仕事をこなしては、家路に帰ることがひどく憂鬱に思えるようになった。


 妻とまともに言葉を交わすこともろくにしない時期が増えた。これでも、出会いのころはなかなかの大恋愛だったはずなのだが、今では見る影もなくなっていた。子どもたちにそれとなく、私の愚痴を言っているのは知っていた。ただ、それも家に苦労を掛けているぶんかと思って何も言わなかった。何も言えなかったというのが正しいのか。


 しばらくして、美冬が大学に落ちた。


 家庭内の空気は一向に悪くなった。妻は美冬の予備校資金をどう出すかずっと思案していた。美冬自身もだいぶダメージを受けているようで、元からの落ち着いた雰囲気が酷く暗いものに見えた。


 正直、一番衝撃を受けたのは私だった。


 美春はさんざん手をかけられたが、美冬はそういったことはほとんどなかった。成績もよかったし、学校の素行面でも問題を聞いたことはなかった。妻はよくおとなしすぎて自己主張ができないと愚痴っていたが、時折、私を気遣ってくれる分だけ妻や美春に比べれば私にとってはひどくまともに見えた。よく美冬を例に出して、美春を叱った。そういったところも悪かったのだと、今にして思う。


 美冬が落ちてしばらくして、予備校生活が始まったころにたまたま美冬の部屋の中が見えたことがあった。美冬は一人で何やらパソコンに熱中して打ち込んでいた。どう見ても勉強しているようには見えず、当時、多忙がピークに達していた私は部屋に乗り込んで美冬を怒鳴った。予備校の金がどれほどかかっているか、自分がどれだけ苦労してその金を稼いでいるのか、思いっきり怒鳴った。言葉を口にすれば口にするほど、腹だしくなった。自分が稼いだ金で予備校に行って、その挙句無駄な時間を使って大学に落ちる。美冬は自分は物覚えが悪いのだと零した、言い訳をするなと怒鳴った。努力が足りないのだと怒鳴った。いつしか、そういった叱責も習慣化していた。


 ほどなくして、大きなプロジェクトが終了して少しばかり、精神的に余裕ができた。さすがに現状が少し、まずいと感じていた私は休日にどこかに出かけようかと考えていた。そんな折だった、妻から連絡があった。


 美春がカッターを友達に向けたと連絡があった。


 いい加減、我慢がならなかった。自分が折角、いいように行動しようとしているというのに。


 一つ厳しくいってやらねば、と息巻いた。


 結果を言えば、我慢がならなかったのは美春の方だった。


 今までにない娘の剣幕に私たち夫婦は面食らい。美春が飛び出していくのをただ眺めることしかできなかった。


 最初はなんなんだと憤ってみたが、相手がいないのでは長く続かない。むしろ美春が口にした言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。


 ほどなくして、妻が何か嫌な予感がしたようで学校に電話を掛けた。


 事実確認を詳しくしたいと伝えると、状況が明確になった。


 美春がカッターを突き立てたのは、美春に対して常習的に悪口を言っていた集団で、友達というのは言葉の綾でしかなく、通告も結局その集団から行われたこと。いじめかと問うと、担任と思しき教師は言葉を濁した、当人同士にしか判断がつかないが、そういったふうに見えることも多かったとのことだった。


 憤った、娘がそうなっているのに何を放っているんだと、言いかけて、気づく。


 そもそも、そうなるまで娘の話も聞かずに放置していたのはどちらだというのか。判断を濁した担任を責める権利が自分のどこにある。


 美春の言葉が頭の中で永遠と反芻されている。


 まっとうな親面をするなと言われた。そこまで娘に言わしめる親というのはいったい何なのだろう。


 その日、妻と私はずっと押し黙っていた。


 ただ、ぽつりと美春が帰ってきたら謝った方がいいかもしれないと零した。


 そして、美春は帰ってこなかった。


 私たちは焦燥した。警察にすぐ捜索届を出した。


 数日後に美春のカバンが駅のトイレで見つかった。


 妻が泣き伏せた。私はただ茫然と届けられたカバンを握りしめていた。


 探偵にも頼んだが、一部の駅までの足取りしか見つからなかった。監視カメラもないような駅を経由したようで、どこで降りたのかさっぱりと足取りは途絶えた。


 みはるはもう帰ってこないのかもしれない。そもそも生きてるのかすらわからない。


 仕事に力が入らなくなった。妻とどちらともなく、お互い、残業をしなくなった。事情を説明して会社を休んだこともあった。


 ただ、妻と二人で家にいても何も解決しなかった。探偵や警察で見失った足取りを、自分たちが見つけられるはずもなかった。


 いつからか、二人でぽつぽつと話し出した。


 すまん、俺があいつのことを構えなかったばかりに。私も、随分とあの子に愚痴をこぼしちゃった。あの時はーーーーすまなかった。私もあの時、-----ごめんなさい。


 話せば話すほど、謝るべきことはたくさんあるような気がした。二人して、美冬に謝りにもいった。


 ただ、肝心の謝る相手がいつまでたっても不在だった。


 そんなふうにして、しばらく過ごした。ただ、そう言った落ち込みも悲しい話だが、二週間ほどで慣れてしまう。


 心がいつまでも悲嘆にくれないように、勝手に正常に戻していく。


 表向きはいつも通り過ごしながら、私たちは早く仕事を切り上げて、みはるが無事、帰ってくることだけを期待して待っていた。


 電話がかかるたび、妻は期待と不安で肩を揺らした。配達員がインターホンを鳴らすたび、私は恐怖し安堵した。


 それから、およそ一か月がたったという頃、5月25日。


 みはるが帰ってきた。


 --------------


 恩人への挨拶と小旅行を兼ねた旅から帰宅した日、娘たちが寝静まったころに私は一人でグラスを傾けていた。


 静かで小電灯がついただけの部屋の中、寂しさに身を浸しながら過ごす。あまり自分が映っていない家族写真を眺めながら、これは美春が何歳、美冬が何歳と数えていく。途中で何度かわからない写真が現れる。それを見るたび、見落としていたものが何個あったのかと考える。最近はこんな時間が多くなった。


 階段から足音がした。


 「あんまり遅くまでそうしていると明日に響きますよ」


 「わかってる、だからこの一杯だけだ」


 寝間着姿の妻はそう声をかけた後、一つ空のグラスを手前に置いた。


 無言で注いでやると、軽くグラスに口をつける。そういえば、一緒に酒を飲むのなんていつぶりだろう。


 「何してたんですか?」


 「今日のことを考えてた」


 「美春、幸せそうでしたね」


 「幸せそう、つまりそういうことなんだろうか」


 「ええ、そういうことだと思いますよ」


 少し、酒をすする。


 「・・・・受け入れられませんか?」


 「いや、そういうわけじゃないんだ、改めて言葉に出すと腑に落ちたというか」


 そういうことなのだ。納得はできただろうか。


 「幸せの形なんて、いろいろですよ。見つけられただけ、幸運です」


 「そうかな、お前は受け入れが早いな」


 「ふふふ、仕事の同僚にそういった方がいただけですよ。それに・・・」


 「それに?」


 「死んだかもと思っていたあの日々を想ったら、生きて幸せになってくれるだけありがたいでしょう?」


 「・・・・ああ、そうだな」


 グラスが空になった、振るとからんと氷の音がする。


 「美春に怒られた日から、価値観変わりっぱなしだな。人生も半分過ぎたってのに」


 「それでも変えていけるだけ救いがありますよ、きっと」


 「そうか、・・・・そうかもな」


 ふうっと息を吐く、酔いが回って眠気も増してくる。


 「なあ、今更だが、本当に苦労をかけたな」


 「はい、もうたっぷりとかけられました。肝心なとこで助けてくれませんから、あなた」


 「ああ、・・・本当にすまなかった」


 「最近は、冗談も言いませんしね」


 「・・・だって、あれ嫌いだろう?お前たち。和ませようと言ってるんだが、どうも外しているみたいだし」


 「私は意外とあなたの冗談好きですよ、昔から。ただセンスが更新されてないから、娘たちには受けませんけど」


 辛口の評価に思わずはははと言葉が漏れる。ただ、昔はこんな評価すら聞けなかったんだろうと思うと、感慨深いものがあった。明け透けな感じは美春の部分が逆に乗りうつったようだった。


 「こんなこと言えるようになったのも美春のおかげかな」


 「そうですね、でも・・・・」


 あけすけだった妻が少し目を伏せる。それから軽く息を吐いた。照れているのだと理解するのに少し時間がかかった。


 「でも、あなたがちゃんと変われたから、救いがあったんですよきっと」


 「そうか、そうだといいな」


 私もふうと息を吐いた。


 「ねえ、あなた」


 「なんだ?」


 「いつかあなたに幸せって何?って聞いたの覚えてます?」


 「・・・・ああ、覚えてると思う」


 「あの時は、家族の幸せって答えてましたけど、変わってませんか?」


 「ああ、もちろん。おまえと美冬と美春の幸せが俺の幸せだ」


 この質問に答えたときはまだ美春はいなかった。ただ、それが今でも私の結論だった。間違いはない。


 「ふふ、愛してますよあなた」


 「どうしたんだ?急に?」


 「いえ?幸せな美春を見ていたら、ちょっと10年ぶりに愛の告白でもしたくなっただけです」


 「そうか、俺も愛しているよ」


 「あなた、前にそれ言ったの何年前か覚えてます?」


 「いや、わからないな。いつだ?」


 「美春を身ごもる前だから、17年も前ですよ。いつからか、言ってくれなくなったんですから」


 「そんなこと・・・」


 言わなくてもわかったろう、と言ってしまえた。でも、きっとそうじゃないこともあるのだろう。口にせねば伝わらないことはきっと山ほどあるのだ。そういったことをさんざんと、わがまま娘に教えられたのだから。


 「これからはたくさん言おう」


 「恥ずかしいから、あの子たちがいないときにしてくださいね?」


 電気を消した、娘たちの寝息を聞きながら私たちも眠りについた。


 思い出されたことがたくさんあった。不安や後悔も数えきれないほどあった。


 ただ、今は。いつぶりだったか、安心して目をつぶった。


 おやすみ、と私が言った。


 おやすみなさい、と妻の声がした。

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