二話


 その日の放課後。

 帰り支度を終えた僕は、返却日に間に合うよう徹夜で読んだ単行本を片手に図書室へ向かおうとしていた。


 最近、寝不足なのもその要因が大きい。

 当然ながら本の返却期限を過ぎれば、図書委員会から催促がきてしまう。


 今回、僕が借りた本は、現在話題沸騰中のベストセラー候補の小説ということもあり、貸し出される前に返却期限を絶対厳守するようにと、図書当番の生徒から強く念を押された。


 せっかく借りたのだから読まずに返却するわけにもいかず、睡眠時間をけずってまで読んだ。

 寄り添う睡魔にあらがいながら読んでいたせいで、肝心の内容はよく覚えていない。


 時間に余裕があるときに、もう一度借りてじっくりと読もう。

 なんて思っていた矢先。 

 徐々に近づく人の気配を察知し、僕は顔を横に向ける。


「ねぇ、どうして西宮くんは笑わないの?」


 目と耳を疑った。 

 容姿端麗な転校生、東雲命花が唐突に話しかけてきた。 

 彼女は定規のように真っ直ぐな目で僕を見据える。


「それって僕に言ってる?」


 蛇足ながら、彼女に確認する。


「君以外に誰がいるの?」


 冷静に考えて僕しかいない。

 それは言うまでもなかった。

 なぜなら、西宮というのは僕の名前の姓だからだ。


「なんで僕が笑わないなんてわかるの?」

「笑ったところ見たことないから。 いつも、のっぺらぼうみたいな顔してるでしょ」


 そんな顔してないよ、とは反論できなかった。

 十二分な自覚があったから。

 日常生活において、感情表現を必要最低限に抑えているのは事実。

 だからこそ、否定できないのがかなり悔しい。

 しかしながら、のっぺらぼうという比喩についてはあまりいい気分じゃない。

 

「そうかもね」


 僕は語彙力を放棄して、適当な返答をした。

 彼女が綺麗な黒髪をなびかせながら近寄ってくる。


「もう一回聞くよ。どうして西宮くんは笑わないの?」

「笑いたくないから」

「それじゃあ理由になってないよ」 


 彼女はさらに距離を詰めてくる。

 ほのかに香る女性特有のシャンプーのいい匂いが鼻腔をくすぐる。

 不覚にも心拍数が上がるのを感じた。

 

「笑うと疲れるんだよ」

 

 僕はそれを誤魔化すように言った。 


「能楽の役者さんに目指してるとか?」

「僕に日本の伝統文芸をこなせるような才能はないよ」


 多分、彼女は能楽者が舞台で使用する能面のことを言っているのだろう。  

 無表情を連想させる類義語のなかに、能面のようだ、という表現がある。

 少しばかり、話が噛み合っていないことは気にしない。


「なら、死んだ魚の目に憧れてるとか?」

 

 彼女はかすかに表情をほころばせながら言った。

 見かけによらず、突拍子もないことを言う人だなと思った。


「残念だけど、死んだ魚の目を鑑賞してテンションが上がるような特殊な嗜好しこうは持ち合わせてないよ」


 もし仮に、僕が死んだ魚の目に憧憬しょうけいの念を抱いている変人だとしたら、今頃、この学校に通学ではなく、どこかの病院の精神科に通院していることだろう。


「ポーカーフェイス世界大会に出場したいとか?」

「実際にそんな大会が存在するのなら、是非ともエントリーしてみたいところだけど」

「間違いなく優勝だね」

「馬鹿にしてるでしょ?」


 彼女は薄く微笑むと「馬鹿になんかしてないよ」「逆に褒めてるんだけど」と続けて言った。  


 どう見ても、馬鹿にされているようにしか思えない。

 いくらなんでも、ポーカーフェイス世界王者は大袈裟すぎる。 

 せめて、地区予選代表くらいにしてもらえるとありがたい。

 いや、一回戦敗退が望ましい。


「ほんとにさ、しつこいようだけどなんでそんなに無愛想なの?」


 話の文脈は変われど、本日三回目となる『なぜ笑わないのか』という質問。


 そろそろ面倒くさくなってきたので、僕は最終手段である言葉を口にする。


「君には・・・・・・関係のない話だよ」

 

 大抵の人間ならここで諦めて、それ以上は詮索してこない。

 本人が『もう話す気はない』と意思表示をしている時点で、それ以上聞いても無意味だからだ。

 

 ところが、僕の願いとは裏腹に、彼女はそう簡単に引き下がってくれなかった。


「たしかに関係ないけど気になるの。笑わない理由を教えてくれたら、すぐ帰るから」

 

 どうして、そこまで僕にこだわるんだろう。

 僕が笑わない理由なんか聞いて、どうするつもりなんだろう。

 僕は心底不思議に思った。 

 すこぶる鬱陶うっとうしくなってきたので、奥の手を使う。


「じゃあ、逆に聞くけどさ。人間って常に笑っていられるほど幸せな生き物だと思う?」 

「うーん、そうだなぁ・・・・・・」


 彼女は数秒の間、考える素振りを見せたあと「世界一あわれな、もしくは世界一悲惨ひさんな生き物だと思う」と夕陽を背に答えた。


「そのこころは?」

「自分の感情で身を滅ぼせる唯一の生き物だから」 

「・・・・・・」 

 

 僕は黙った。

 まさにその通りだと納得してしまい、返す言葉を失った。

 どうせ、屁理屈でも並べてくるんだろうと思っていたから、見事にかれた。

 

「ほんと人間って悲しい生き物だよね・・・・・・」


 窓の外を見つめながら、まるで全てを知っているかのような口調で彼女が言う。


「だから僕は笑わないんだよ・・・・・・」

「えーと、それはつまり。自分で傷つくのが怖いから笑わないってこと?」


 ちょっと飛躍しているけれど、あながち間違ってはいないので首肯しゅこうする。


「傷つくのが怖いからこそ笑うんじゃん」

「はい?」


 僕は思わず、素っ頓狂な声をあげてしまう。


「辛いから、悲しいから、厳しいから、人間は一生懸命に笑うんだよ」

「どういうこと・・・・・・?」


 僕は彼女が何を言っているのか、よくわからなかった。

 えない頭で珍しく真面目に考えてみたけど、全く理解できなかった。


 僕の価値観が他人とずれているのか。

 彼女の価値観が異常なだけなのか。

 それすらもわからなかった。


「人間ってさ、命をけてまで笑うことって一生のうちにあると思う?」


 彼女の優しい表情が、急に神妙な面持ちに変わる。


「あるわけないよ」

「そうだよね。あるわけないよね・・・・・・」


 彼女は数秒間、虚空を見つめて再び僕に向き直る。


「じゃあさ。もし絶対に笑わなきゃいけない瞬間が来るんだとしたら、それはいつだと思う?」


 いよいよ意味不明な質問が飛んできて困惑する。


「東雲さんはいつだと思うの?」

「それはまだ私にもわからないかな」

「そんな瞬間は永遠に来ないよ・・・・・・」


 僕が否定すると、彼女は今日一番の笑顔で言った。


「西宮くんにも、その瞬間がわかるときが来るかもしれないよ?」


 どうしてだろう。

 その言葉を聞いたとき、僕は彼女に論破されたような気分になった。


 理由はわからない。

 でも、僕のなかで何かが壊れたような、何かが上書きされたような、そんな気分になった。


「そろそろ迎えの時間だから帰るね」


 振り向きざまに「また明日ね!」と付け加え、彼女が教室から出ていく。


「一体なんだったんだ・・・・・」


 僕は独り言を漏らす。

 彼女が話しかけてくる意図なんて検討がつくはずもなく。

 彼女は何がしたかったんだろう、という疑問だけが頭の中を支配する。

 それに彼女が言っていたことも、何一つに落ちない。

 あまり深く考えないようにしよう、そう自分に言い聞かせた。


 気がつけば、僕と日直の生徒以外、教室に誰も残っていなかった。

 整理整頓をあまねく済ませ、学級日誌を書き終えた様子の日直の生徒も、もうじき教室から居なくなるだろう。


 すぐに時計を確認する。

 時刻は十六時半を回っていた。

 図書室の閉館時間は十七時。


 思った以上に時間を浪費してしまった。 

 僕は椅子から立ち上がり、急いで図書室へ向かった。

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