10.繋がれた右手

 バタバタバタ。子供達の爽快な足音が響き渡る。朝ごはんの時間だろうか。食堂でのざわめきが物置まで聞こえてくる。その音に耳を済ませるとお腹の音が鳴った。カビが生えはじめたパンの耳を一つ取り出す。小さな小さな口で少しずつ胃に運ぶ。温かいものが頬をつたう。パンに塩気が少しプラスされた。

 そこからどれくらいの時間が経ったのだろうか。ゴンゴンゴンと物置を叩く音がする。扉を開けると佐々木さんが剣幕そうな顔で立っていた。

「さっさとお風呂に入りなさい。」そう言って風呂場を指さす。何が何だかわからず戸惑っていると細い棒で叩かれた。

「早く行って、石鹸で徹底的に洗いなさい。」

 走って風呂場に向かう。温かいシャワーを浴びるのは何日ぶりだろうか。いや何ヶ月ぶりだろうか。風呂を上ると佐々木さんがやって来て頭の匂いを嗅いだ。

「まだ足りない。もっと洗って。」

 そんなにも僕は臭うのだろうか。この臭いになれてしまった僕にはわかりっこない。何度も何度も丹念に洗った。三回目になってようやく許可をもらえた。

 新品のワイシャツと紺の短パン。真っ白な靴下を渡された。髪も綺麗にしろと言われたので近くにあった櫛でなんとなくといてみた。鏡の前にいる僕は僕じゃないみたいだ。

「こっちに来なさい。」と言われ二階に連れてかれる。新品のシャツはゴワゴワして肌にチクチクささる。

 部屋の前に先生がいた。いつもと違って高そうなスーツを着ている。

「まあ、マシにはなったな。」先生がそう言うと佐々木さんは会釈していなくなった。

「とにかく黙って言う通りにしなさい。笑顔を忘れるなよ。返事もしっかりするんだ。自分の名前もちゃんと言いなさい。私が呼んだら三回ノックして中に入りなさい。」そう先生に約束させられた。いつもと違う扱いに僕は怖くなった。無意識のうちにシスターのくれたペンダントを握りしめていた。

「そんなもんいつまでしてるんだ。どうせ誰かから盗んだんだろう。ちゃんとしないとそれも捨てちまうぞ。この話が上手くいかなかったらあいつと同じように捨ててやるからな。」

 そう言われて僕はしゃんとした。僕がシスターから貰ったものなのに。それよりもあいつって一体誰なんだろう。そもそもこの話って何のことなのだろう。幼ながらにそんなことが頭に浮かぶ。

 先生はノックをして部屋に入っていった。中で何か話している。笑い声も聞こえてきた。

 先生が僕を呼ぶ。言われた通り三回ノックをして中に入る。木の机とパイプ椅子が三つ置いてある。壁には天使の絵が飾られていた。椅子の前に先生よりだいぶ若いガタイのいい男の人が立っていた。

 僕が名前を言うとその男の人は笑顔で頷いてくれた。その後も先生と話しながらその人は時々僕の目を見て笑った。僕はなんだか嬉しく思えた。

 しばらくして先生と男の人が立ち上がり握手をした。

「それではよろしくお願いします。」

「こちらこそ。」

 そう言って先生が僕の前にしゃがみ込んだ。「今日からお前はあの人の元で暮らすんだ。」僕にはイマイチ状況が理解できなかった。あの人が僕の方をずっと微笑みながら見てる。

「よろしくね。」

 僕はこの人について行こうと思った。こんな所から早く出たいし、何よりもこの人のそばにいたいと思ったのだ。

 部屋の外に出ると「何か持っていくものはあるかい?」と言われた。僕は首を振った。僕のものと言えるものはこの場所には何もない。

 先生が階段を降りる。その後ろをついて行った。玄関の前に着くとみんながこちらを覗いていた。

「みんなにお別れを言いなさい。」と男の人に言われた。少し躊躇ってみんなの前に行った。

「ばいばい。」

 誰も何も返してくれなかった。本当はみんなと友達になりたかった。その一言を言おうとして僕は躊躇った。

 靴を履くと男の人が左手を差し出してきた。僕にはそれが何を意味するかわからなかった。すると男の人は少し考えてから

「右手を貸してごらん。」

 僕の小さな右手を大きな左手で包み込んでくれた。とても温かい大きな手だ。

 玄関を出ると一台の車があった。スーツを着た人が運転席から降りて来て、後ろのドアを開けてくれた。僕達はそれに乗り込んだ。

 スーツの人が銀色の硬そうなカバンを先生に手渡した。先生の目はすごくキラキラ輝いていた。

 スーツの人が運転席に戻ると車は進み出した。後ろを見ると先生が深々とお辞儀をしていた。みんなはただ僕達を見ていた。僕もただみんなを見ていた。

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