第13話 奏でる指

 次の日、目を覚ますともう空は明るかった。窓を開けて外の空気を取り込む。真下にある物置が目に入った。その上に鳥が何羽か止まっている。そのさえずりが聞こえる。大きく深呼吸をして部屋を出る。


 ダイニングに行くと父はテーブルに座り、母はご飯の用意をしていた。

「おはよう」

父が新聞から顔を上げて言う。ワイシャツ姿で髪はセットされていた。その声で母も僕に気づいたのかこちらを振り返った。

「あら雫、パジャマから着替えて来なさいよ。洋服は雫の部屋のクローゼットにあるわよ」僕は返事をして部屋に戻った。


 クローゼットを開けると沢山の洋服が綺麗にハンガーに掛かっていた。どれを着たらいいのかわからなかった。

とりあえず目の前にある薄手のパーカーとパンツを取る。それに着替えてパジャマを畳む。扉を閉めようとした時、何かが挟まり上手く閉まらなかった。よく見ると黒い紙袋が倒れていた。元に戻そうと手に取る。中にはTシャツやハーフパンツが入っていた。僕が着るには少しばかり小さいサイズだった。小さい頃のものだろうか。よくわからなかったが、汚れてもいなかったので元に戻しておいた。


 ダイニングに行くと、もうご飯が並べられていた。僕が来るのを待ってくれていたみたいだった。席に着き一緒に食事をした。

こんがり焼けたトーストにベーコンエッグとサラダ。紫色のソース、多分ブルーベリーだろうか。それがかかったヨーグルトが並べられた。中央にマーガリンやイチゴジャムなどが置かれている。僕はそこからピーナッツクリームらしきものとチョコクリームを取った。何の迷いもなく、パンの上にそれらを落として混ぜる。無意識のうちにピーナッツチョコクリームを塗った。

「好きなものは変わらないのね」

二人がパンを持つ僕を見つめる。母は涙を流した。父も目頭を押さえて下を向く。

「雫は昔からそうやって食べていたんだ。母さんが行儀が悪いから辞めるように言っても、それだけは聞かなかった」

そういうことなのか。確かになんでこうしたのかわからない。定番のイチゴジャムとかには目がいかなかった。普通ではないやり方だ。行儀が悪いかもしれない。それでも僕はこうして食べたかったのか。甘い甘いクリームが口いっぱいに広がる。 

食事を進める僕を見て、二人も食べ出す。食事をほとんど終えた時、僕は思い出したかのように口に出す。

「外にある物置みたいなものは何が入っているんですか?」

昨日から気になっていたことを聞く。普通に答えて貰えると思ったのに一瞬、無言の時間ができた。

「要らない物とかよ。あまり開けないから覚えてないわ」

「大分開けてないからな。中が崩れたりしたら危ないから触らないほうがいい」

そうやって少し冷たく言い放たれた。コーヒーを飲んで父は席を立つ。食器をまとめて、流しに置く。ネクタイを結び、スーツを着た。母はその後に続き、カバンを持って行った。僕も父を見送る。


 そうか、ただの物置なのか。それもそうだよな。僕も食事を終え、食器を片付ける。また部屋に戻った。ふと本棚を見ると薄い冊子のようなものが飛び出ていた。横には辞書があったので、昨日取り出した時にズレたのだろう。引っ張り出して中を広げるとピアノの楽譜のようだった。確かに、下にピアノコンクールの賞状があるのを思い出す。でもこの部屋にピアノはない。リビングにもなかった。楽譜を持って母の元へ行く。

「この楽譜は僕のですよね」楽譜を母の顔の前に出す。

「そうよ。そうだ、よかったら弾いてみたらどうかしら?」母は廊下にある一つの扉の前に案内した。


 開けてみると大きなグランドピアノが置いてある。その横には譜面台や楽譜の並ぶ棚があった。メトロノームもいくつか置かれている。壁には穴が空いてあり、防音加工が施されていた。まるでピアノ専用のために作られた部屋のようだ。ピアノの前の椅子に座る。母はこれなら簡単よと棚から一冊の薄い本を渡した。


 ピアノの基本練習と書かれた楽譜を広げる。ワルツや童謡のような短くて音符の少ないものが大きく載っている。果たして僕は弾けるのだろうか。楽譜は読めるのだろうか。右手は痛くないし、左手も包帯が巻かれているのは手首だ。鍵盤の上にに手を置いた。自然と鍵盤に沿って置かれる指。手は覚えているのかもしれない。適当に開かれたページを目で追う。最初こそ音符が五線のどこにあるか数えていたが、段々と目が慣れる。軽く追うだけで指がそのスピードについていく。


 楽しくなって気づけばあっという間に一冊を弾き終えた。椅子を引き、新しい楽譜を手に取る。そこからはずっとピアノを弾いていた。棚にある楽譜を片っ端からこなしていく。扉の方を見ると、そこは閉ざされ、母はもう居なかった。

少し休憩しよう。鍵盤の上から手をどける。手の痛みもないし、もう万全だろう。記憶はまだ戻らないが、どんどんいい方向に進んでいる気がする。両親はとても優しいし、僕のことを気遣ってくれている。かと言って無理に記憶を戻そうともせず、僕のペースに合わせてくれる。こんな人達に育てられた僕はなんて幸せなんだ。そんな想いで胸が温かくなる。


 また鍵盤に手を置く。今度は楽譜を開くことなく、無意識に指が動き出す。事故に遭う前に練習していたのだろうか。勝手に動き出す指は音楽を奏でる。とても素敵なハーモニーが部屋いっぱいに広がる。


 バンッ。急に指が止まる。この曲を僕は知っている。過去の僕ではなく、今の僕が。この曲は何だ。どこで聞いたのか。少ない記憶をずっと辿る。ぐるぐると辿っていくと真っ暗な風景が頭に浮かんだ。ここはどこだ。この情景は……

 病院の屋上だ。あの日僕が聞いた曲はこれだ。あの人影が歌っていたのはこの曲じゃないのか。そう気づいた瞬間、右手が一気に熱くなる。そして頭に激痛が走る。両手で頭を抱えるが痛みが引くことはない。鈍器で叩かれているかのように、僕の頭は警鐘を鳴らす。これはやばい。僕はなんとか身体を引き摺り部屋を出る。

「雫!どうしたの」僕に気づき駆け寄る。

「頭が、頭が痛い……」母が慌てて電話をかける。すぐに救急車が来て、僕は病院に運ばれた。

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