第12話 Elegy

 小学校の卒業式くらいまでのアルバムを見終えた時、ガチャ、と玄関から音がした。スーツを来た男がネクタイを片手で緩めながら、こちらに向かって来る。グレーのスーツはシワ一つなく、黒のネクタイが外された。もう片方の手には重そうな黒いカバンが持たれている。

 母の話ではもうすぐ五十歳になると言っていたが、白髪混じりの髪は綺麗にセットされており、若く見えた。スラッとした身体にしっかりとフィットするスーツは皺一つなかった。遠目からでも清潔感が伝わる。


 「雫……」僕の目の前にやって来て膝を折る。カバンを床に置き、僕の肩に手を置いた。

「本当に雫なんだね。よかった」安心したように僕を見つめる。その瞳にはほんのり涙が浮かんでいた。

「はい」その瞳をしっかり見つめて答える。

「僕は君の父親だ。弁護士をしているんだ。仕事が忙しくてね、なかなか会いに行けなくて本当に申し訳ない」僕の頭、耳、頬と手を流しながら言う。

「いえ、ご心配をおかけしました」父は少し寂しそうな表情を浮かべた。僕は何か間違えてしまったのだろうか。

「雫が無事ならそれでいいんだ」ポンポンと僕の頭に手を乗せる。何事もなかったかのように発せられた言葉。

「さあ、ご飯にしましょう。今日は雫の退院パーティーよ。今日の朝から準備していたんだから。あなたも早く着替えてらっしゃい」母が手を叩きながら言う。そうだねと父はカバンを持ってリビングを後にする。

「雫はそのアルバム戻してもらえるかしら?少しずつで大丈夫よ」とリビングの先の部屋を指す。あまり負担を掛けないよう、片手で持てるだけのアルバムを持ってその部屋に進む。

 壁一面に賞状が額に入れて飾られている。部屋の奥には沢山のトロフィーが置いてあった。ピアノコンクール、ヴァイオリンコンテスト、テニス……。僕の名前が入ったもので溢れていた。その横にはアルバムが並ぶ棚があった。それらしい順番に当てはめていく。


 何往復かして棚は全て埋められた。リビングに戻ると父はもう席に着いていた。僕はお昼と同じ席に着く。僕の横には父が腰掛ける。母はスープカップを持って目の前に腰掛けた。机の上には丸ごと一羽の鷄がこんがり焼かれて置いてある。お昼とはまた違うスープ。マッシュされたポテトと野菜のソテーなど机いっぱいに並べられた。

 母はグラスを片手に上げた。ニコニコと僕と父を見る。父もやれやれと笑いながら右手にグラスを持つ。そういうことか。僕も右手にグラスを持った。

「雫、退院おめでとう」

母が右手をさらに上に上げる。それに合わせるとカチン、とグラスの当たる音がした。母が鷄を切り分け僕のお皿に載せてくれた。香ばしい匂いが広がる。父が食べにくいだろうとナイフで一口大に切ってくれた。僕が口に運ぶ様子を二人とも見つめる。

「とても美味しいです」二人は顔を見合わせ微笑む。

「それならよかった」

そう言ってフォークを進める。僕のことについて話ながら食事をする。あっという間にお皿は空っぽになった。


 「今日は疲れたでしょ、お風呂に入って休んだら?」母の申し出に従うことにした。廊下を出てお風呂場に案内してもらう。

 脱衣所で服を脱ぎ、風呂場に入る。左手は袋で包み、濡れないようにした。右手だけで洗うには時間がかかった。なんとかして洗い終える。そして湯船に浸かる。足を真っ直ぐ伸ばしても余るくらい広い湯船だった。病院では汗を拭いてくれたりはするが、お風呂に浸かることはなかった。久しぶりにゆっくり入る風呂はとても気持ちよかった。風呂から出ると脱衣所には新しい下着やパジャマが置いてあった。母が用意してくれたのか。それを身につけてリビングに行く。


 「お風呂ありがとうございました。パジャマとかの準備も」

「いいのよ。それより包帯巻き直しましょう」救急箱を用意してソファに掛ける母の元に行く。左手を差し出すと濡れタオルで軽く拭く。そして丁寧に丁寧に包帯を巻いてくれた。母にお礼を言い、僕は部屋に戻った。


 部屋に戻ると机の椅子に腰掛けた。机の上にある写真集を見て僕は席を立つ。窓を開けて身を乗り出した。空を見上げるとわずかに星が見える。しかし周りが明るいからか、あまり多くは見えない。写真集とは程遠かった。やはり写真のような星はそう簡単に見えないのか。僕は諦めて顔を下げる。家に入る時に見えた物置が部屋の真下にあった。


 窓を閉めてベッドに入る。横にあった星空が目に入る。あの星空はどこで見られるのだろうか。どこかで見たことある気がする。

ただ今の僕には思い出せなかった。諦めてもう寝よう。電気を消すと机の上で何かが緑色に光る。そこには何もないはずだ。僕は恐る恐るそこに近づく。よく見ると本の表紙が何やら光っているようだ。星空から浮かび上がる文字を読み取る。


『Elegy』

 星空の真ん中でそれだけが輝いていた。


 電気を付けるとその光は薄くなってきた。よく見ると薄らと文字のところがでっぱっていた。光を吸収して暗闇で光る塗料で書かれているようた。文字を囲うように星があるよつに見える。


 Elegyとは何なのだろうか。本棚から辞書を取り出して調べる。悲しみを歌った詩。哀歌、晩歌とある。悲しい歌を指すのだろう。この綺麗な星空のどこが悲しさなのだろうか。そう考えながらまたベッドに入る。退院の疲れからか、あっという間に眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る