第14話 僕のトリガー

 あの後、家に来た救急車に乗せられ、僕はまた病院に来ていた。さっきはあんなにも痛かったのに、病院に着く頃には痛みは引いてきた。念のためCTR検査をすることになった。僕は自分の足で歩いて検査室に向かう。母は僕のことを心配そうに見つめる。さっきの痛みが嘘のように僕は元気だった。何もないだろうと思いながら検査を受けた。母の顔が浮かび、申し訳なくなってくる。

検査を終え、母と待合室で待つ。色々聞いてきたが、大丈夫だよと伝えると、少し安心したようだ。母が僕の手を強く握りしめる。僕は自分が大丈夫だと伝えるように、それを強く握り返す。しばらくして呼ばれたので部屋に行くと結果を説明された。案の定どこにも異常は見られなかった。結果を聞いて安心した母は胸を撫で下ろす。そのまま先生と話し混んでいた。きっとまだかかるだろう。先生にお礼を言い、僕は先に待合室に戻ることにした。


 待合室に向かう廊下で梨奈さんに会った。

「雫くん、倒れたんだって?動いて大丈夫なの?」カルテを持ちながら、心配そうに尋ねる。

「はい。倒れる程ではなかったですし、ここに着く頃には元気になっていました」心配させないように元気に答える。

「それならよかったわ。心配したのよ。でもあまり無理しちゃダメよ」人差し指を目の前に持ってきた。

「でも元気にしているってことは異常はなかったのよね。どうして倒れかけたのかしら。雫くん何かしたの?それとも退院した疲れが残っていた?」

不思議そうに言った。僕はどうして頭が痛くなったんだっけ。あの時の光景を思い出す。僕はピアノの前にいた。無意識で弾いたあの曲。あれが原因だったんじゃないか。身体が一気に熱くなる。鼓動が早まり、血の巡りが良くなったようだ。頭もすごく働いている。倒れる直前までの光景が、空気までも鮮明に思い出される。

「僕はあの時ピアノを弾いていたんです。梨奈さん、記憶が戻りそうになると頭が痛くなるものですか」

僕は思わず大きな声を上げた。周りの人が驚いたように僕らを見る。やってしまった。梨奈さんも目を丸くしている。

「うるさくしてごめんなさい」

「そうね。とりあえず座って話しましょう」周りの人にも会釈をした。梨奈さんに連れられ、待合室とは少し離れた所にあるソファに腰掛ける。


「あの時、僕は無意識に弾いていたんです。楽譜も見ずに指が勝手に動いて……。それでその曲を聞いたことがあって。どこかは言えないんですけど、記憶を失くしてからも聞いたことがあって。その曲のせいなのか、急に頭が痛くなりました」

「つまり雫くん自身は覚えてないけど、身体はその曲を覚えていたってわけね。そして、それが君の記憶のトリガーなのね」バキュンと人差し指を銃に見立てて、僕の胸を打つ。

「記憶のトリガー……。僕はどうしたら記憶を思い出せますか?」

「それは雫くんの努力次第じゃないかな。記憶を失う一番の要因は、何か思い出したくないことがあって、脳が自分を守ろうとしているのよ。だから君は記憶を思い出したい反面、思い出したくないんじゃない?」顎に手を置き、天井を仰ぎながらそう導き出した。

「思い出したくない記憶……」その言葉は音になって飛び出た。

あの時熱を持った右手を見つめる。何もわからない僕には思い出したくないものすらも思い浮かばない。僕の思い出したくない記憶は何だろうか。

「どっちにせよ記憶を戻すかどうかは雫くん次第よ。別に新しい人生を歩むっていう道もあるんだから。それでも思い出したいなら、動きなさい。雫くんは何をすべきかもう気付いているんじゃないの?」今までの笑顔はなく、真っ直ぐに強い目で僕を見る。梨奈さんは席を立つ。

「これが人生の先輩からのアドバイスです」

いつもみたいに悪戯げに笑う。じゃあね。とカルテを握り廊下に消えていく。結局、はっきりとしたことはわからなかった。右手のことについても話そびれてしまった。


 僕は何をすべきかもう気付いているのか。ソファの上で考え込む。人通りも、音も何もかも遮断された世界で僕は一人佇む。今の僕は空っぽだ。ついさっきまで幸せだと思っていたのに、急に目の前が真っ暗になる。僕はどうしたらいいのだろう。僕はがらんどうだ。

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