第8章 プリンとチョコレート

 本を運んでくれた梨奈さんにお礼を言い、ベッドに戻る。ベッド横のテーブルを引っ張り出してそこに本を置く。写真集を取り出して適当にページをめくる。何度見ても引き込まれてしまう。本を閉じ、窓の側に寄る。窓を開けて身体を乗り出した。いくらかの星が空に輝く。写真集まではいかない夜空だった。あまり星が無いせいか、ただの夜空としか思わなかった。


 窓を閉めてベッドに戻り、写真集を閉じた。今度は梨奈さんおすすめの漫画を取り出した。とりあえず一巻を開く。気弱なピッチャーが高校で本当の仲間と出会い、甲子園を目指す話だった。ありきたりな話だが絵が上手く、心理描写もしっかりしていた。なにより話のテンポが丁度よかった。あっという間に一巻を読み終えた。今日はこれくらいにしよう。そのまま電気を消して、眠りにつく。


次の日も漫画の続きを読む。三巻目を読み終え、次に手を伸ばそうとした時、コンコンとドアが叩かれた。

「はい」

返事をすると開かれた扉。見覚えのないスーツ姿の男が二人、目の前に現れた。

「雨川雫くんだね」

先に入って来た男が訪ねる。黒のくたびれたスーツ姿の男。四十歳くらいだろうか、中肉中背で眼鏡を掛けている。額からは汗が流れており、紺色のハンカチで拭われた。続けて入ってきた男は頭一つ分くらい大きかった。二十代くらいの若そうな人だった。スラッと伸びる長い手足、細身の体型がスーツを格好良く着こなしている。同じスーツでもこんなに違うのか。

 どちらともなく胸ポケットに手をやり、黒いレザーの手帳が広げられた。

「高輪警察署交通部交通捜査課の江藤です」

「同じ菅野です」そう言って手帳はしまわれた。

「さっそくだけど事故のこと、何か覚えてたりするかな?」若い方の人が訪ねる。

「えっ、あ、いや、何も覚えてないんです。ごめんなさい」あまりにも突然のことで一瞬言葉が戸惑ってしまった。

「そうか。やっぱりまだ何も思い出してないんだね」申し訳なさそうに僕のことを見つめる。

「ごめんなさい」

「いや、いいんだ。こちらこそ突然お邪魔して悪かったね。それよりも無事でよかったよ」

そう言って笑い掛けてくれた。眼鏡の方はベッドの横にある椅子に腰掛け、若い方はスーツを脱ぎ、立ったまま話し出した。


 そこから僕達は少しだけ話をした。僕の事故に事件性はなく、ただの事故だそうだ。犯人は事故を起こした次の日のお昼頃に交番に自主しに来た。何でもお酒を飲んだまま車に乗ってしまったところ、外を歩いていた僕を轢いてしまったらしい。

 その時は慌ててしまい、そのまま家に帰ったそうだ。しかし次の日、車を見たら血痕が付いており夢ではなかったと気づき自主したと聞いた。本人も反省しており、僕の方にも謝罪しに来ようとしたそうだ。しかし僕の記憶が戻ってないことから、医者や両親が断ったらしい。二人はこの事故の担当ということもあり、病院に何度か来ているらしい。今日も先生に事故の様子を確認しに来たところ、僕が目覚めたことを聞き、ついでに顔を出してくれたそうだ。

 

「わざわざありがとうございます」

「いやいや、こちらこそ悪かったね。急にお邪魔してしまって」

「いえ、お忙しいところすみません」

「まあ、犯人の自供もちゃんとしているし、事件性もないから心配しないで。手続きとかは君のお母さんが色々やってくれているしね。僕達がここに来ることももうないよ」

「そうなんですね」

「一個だけいいかい?」眼鏡の人が突然声を上げた。

「はい、何でしょう?」

「君はあの日あそこで何をしていたの?」

窓の向こうを指しながら言う。指の先にはあの森というにはいくらか小さい丘があった。あの辺りで僕は見つかったのか。

「……ごめんなさい」本当に何も覚えてないのだ。どこで事故にあったのかさえも、知らないのだから。

「もう江藤さん、雫くんを困らせないでくださいよ。先生にも本当に何も覚えてないから、困らせるなって言われたでしょ。ごめんね雫くん」

「いえ……」

「若いんだから一人で外に出たい時だってあるよね。俺だって学生時代は親に内緒で出掛けたりしましたよ」腰に手を当て、椅子に座る刑事に向かって威張ったように言う。

「お前のことはどうでもいいんだよ」呆れたように返した。

「まあ、命に別状がなくてよかったよ。いくら若いからってあんまり無茶するなよ。今回は生きていたからよかったものの、親御さんに心配だけは掛けるなよ」強く発せられた言葉とは裏腹に、ポンポンと優しく頭に手を置かれた。

「それじゃあ、そろそろ行くか」椅子から立ち上がる。

「今日は調書の関係で先生にサインをもらいに来ただけだから、もう行かないと」はいっとコンビニの袋を渡された。受け取って中を見るとプリンやチョコレートが入っていた。

「え、いいんですか?」

「いいのいいの、これね江藤さんが自分で外のコンビニまで買いに行ったんだよ。あの見た目で面白いでしょ」そうやって僕の耳元に手を当てて言った。それでもこの静かな空間には大きかったようで

「余計なことを言うな」そう強く言われていた。

「本当のことなんだから、いいじゃないですか」

「さっさと行くぞ」江藤さんは菅野さんの横をすり抜けて行った。

「坊主もさっさと治して、家に帰れよ」手を挙げて出て行った。

「はい、ありがとうございます」

「待ってくださいよ」菅野さんもスーツを羽織り、出る準備をする。

「それじゃあね、雫くん。一応調書とかも終わったからもうここに来ることはないと思うけど。早く怪我を治して、記憶も戻るといいね」そう言って病室を出て行った。


 二人がいなくなり、急に静かになった。袋の中にあったプリンを口に運ぶ。優しい甘さが口いっぱいに広がった。僕は一人であそこにいたのか。どうしてあんなところにいたのだろうか。窓の外を眺めながら、そんなことを考える。


 そこから数日はただのらりくらりと過ごした。漫画の続きを読んでは梨奈さんと感想を共有した。怪我も良くなり、頭の包帯は外れた。ただあの日以降、春田さんが僕の病室に来ることはなかった。病院内で見かけることも。タイミングが悪いのか、それとも休みなのか。僕には彼女が病院にいるかどうかすら知る術がなかった。

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