第9章 見えない影

 それでも時間は進み続け、僕の退院が決まった。怪我もほとんど治り、脳への異常も見られなかった。ただ僕の記憶が戻ることもなかった。毎日のように母が来ては僕のことを教えてくれるのだが、どうしても思い出せない。

母の話の中の僕は頭で留まることもなく、すとんと溢れ落ちてしまう。それをわかってか、話し終えると母はいつも優しく僕に微笑んだ。しかしその表情はとても悲しそうに見えてしまう。僕はそれがとても申し訳なく思う。

この温かい時間は優しくて、それでいてとても残酷だ。そうした僕を心配してか、医者は僕の記憶のためにも一度家に帰ってみてはと提案した。普段の生活をすれば、不意に記憶が戻るかもしれない。すぐに僕の退院が決まった。


 退院前の最後の夜、ご飯を終えて部屋でゆっくりしていると、梨奈さんは僕に会いに来てくれた。

「雫くん、いよいよ退院なのね。寂しいわ」そう悲しそうに言った。明日の早朝に交代らしく、わざわざ僕にお別れを言いに来てくれたそうだ。

「僕もです」梨奈さんの元気な笑い声が聞こえないのはやはり寂しいだろう。

「せっかく漫画で話せる人だったのに」唇を尖らすその姿はまるで幼子のようだ。

「いつでも遊びに来ていいんだからね。いっそのこと漫画読みに来なさいよ」そういたずらに笑う。

「さすがにそれは……。でも遊びに来ますね。それにまだ定期的に通院することになるだろうし」

「そうね。まだ会えるわね」

「はい」

そうだ。退院と言っても完全にではない。記憶もだけど、左手もまだ治ったわけではないのだ。

その後も梨奈さんと今後のことについて色々語り合った。退院したら何をしたいか。何を食べたいかを聞いてきた。正直なところ家に帰る実感が沸かない僕は、そんな想像すらしていなかった。だから梨奈さんと話すことで家に帰るという実感が持てた。家族みんなで食卓を囲みたい。みんなで一緒になって寝たい。そんな夢を持った。


 その日の夜中、僕は目が覚めてしまった。いや、寝付けなかったのかもしれない。退院できる喜びと不安が僕の心で混ざり合う。そして右手の痛みが。あれからというもの、時折右手には痛みが走る。しかし医者に聞いてもあまり真剣に取り合ってもらえないので、この事を口にすることは無くなった。身体を起こし、ベッドから降りようとする。窓から綺麗な夜空が見えた。スリッパを履いて立ち上がる。何かに引き寄せられるように僕は部屋を後にする。

廊下を出てナースステーションの方に向かう。誰にも見つからないようにそうっと進む。カウンターが目の前に見えた。身体を小さく曲げ、こっそりと観察する。物音一つ聞こえない。さらに近づき、カウンターを覗いた。どうやら看護師達はみな出払っているようだ。誰もいない。身体を起こして足を進める。僕が読んでいた漫画のあるあのスペースを通り過ぎると、廊下の一番奥に階段を見つけた。上下に別れた階段がある。こんなとこに階段があったのか。僕はただ無心に歩みを進めた。気づけば一番上まで上がっていた。

目の前には扉が僕の歩みを塞ぐ。屋上へと続く入り口だ。扉には危険防止のため立ち入り禁止と書かれたプレートがぶら下がっている。そしてその扉には鍵がかかっている。南京錠までしてあった。それをわかっているのに、僕は南京錠に触れた。壊れていたのか、それはあまりにも簡単に外れてしまった。南京錠を床に置き、ドアノブに手を掛ける。開くわけない。それでも僕は回した。ガチャリ。ドアノブは回る。思い切り押してみると、ギィと音を立てて開けた。


 ふぅ。深呼吸して足を踏み入れる。まさか鍵が開いているなんて。そう思った途端、右手が熱を浴び始めた。左手でそれをぎゅうっと掴む。何かに引き込まれるようにゆっくりと屋上を進む。少しずつ音が聞こえる。僕が進むのとは反対の方向から誰かの話し声が。

 この入り口は屋上の真ん中に位置する形だった。僕が向いている方向とは逆のところから聞こえる。これは何だ。息を潜める。右手はどんどん痛みを増していく。それでもこの声に集中した。話し声じゃない。歌だ。誰かが歌っている。くるっと身体を反転し、声のする方に向かう。ゆっくりと、慎重に。歌に耳を傾けるとブワッと右手が熱を持った。あまりの痛みに驚き、しゃがみ込んでしまった。するとゴンッ、足元にあるバケツを思い切り蹴ってしまった。その途端、歌は途切れる。そして誰かが駆ける足音。

「待って!」

僕はそのまま声を上げた。その声に反応して足音は止まった。歌の主の姿を見ようと急いで立ち上がり、足を進める。視線の先には人影が見える。影はこちらを振り返っているようだ。しかしこの位置からは顔が識別できない。さらに近づこうとしたとき、その影はもう駆けていってしまった。

「待ってよ……」その声は誰にも届かなかった。バンッ。扉が勢いよく閉まる音だけが暗闇に反響する。


 影がいたところに立つ。フェンスから身を乗り出すと目の前には森が広がる。あの影はここで何をしていたのか。なんの歌を歌っていたのか。そもそも、どうしてボクはここにいるのだろうか。上を見上げると満天の星が広がる。まるであの写真集のように。

「〜〜♪」気づけば鼻歌を歌っていた。題名も何もわからないが、あの影と同じように。

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