03 落とし穴
「何か嬉しそうだな」
部屋に入ると同時に投げられた言葉にサトルは目を丸くした。
嬉しい? 首を傾げるとマモルが「気づいてないのか」と笑った。わけがわからないでいるサトルに「ちょっと待ってろ」と告げ、彼は奥の仮眠室へと入って行った。
「嬉しい」とは何だろう。
大人しく彼を待ちながら、サトルは考えてみる。
「嬉しい」という言葉は知っている。本で読んだ。それが正と負で言うならば、正の側の感情であるということも、なんとなくわかっている。しかし自分が何に対してそう感じたのか、言葉と感情が一致しない。そして自分の中ですらよく理解できていないそれを、なぜマモルが読み取れるのか。それがもっと理解できない。
「ほら」
マモルが持ってきたのは鏡だった。安っぽいプラスチックの蓋を開けて鏡面をこちらに向けてくる。彼には似合わないな、などと考えながらサトルはそれを覗き込む。
中にあるのは
眉間に力が入る。
目の前の女が眉間に皺を寄せる。
「無理にそんな顔しなくていいんだぞ」
鏡を仕舞いながらマモルが言った。
無理? 無理をしているのか、自分は。よくわからなかった。
「ここに来る前、何か考えたろう」
部屋に入る前を思い出す。
考えたのは、時間のことだった。
時間を気にするようになった自分に気づき「昔と比べると少しは、人間に近づいているのかもしれない」と思った。そして。
「よかったな、と」
「それだよ」
「え?」
「それは「よかった」じゃなく、「嬉しい」だ。人間らしくなってきている、って思ったんだろう? お前は、それが嬉しかったんだ」
「よかったな」と言ったマモルの声が優しかった。その声に、口元がむずむずと反応して、顔が少し熱くなるのがわかった。その感覚は不快ではない。
「嬉しい……」
繰り返してみると、何だか腑に落ちたような気がした。「嬉しい」か。熱を持つ頬に手を当てると少しだけ熱い。もしかしたら、赤くなっているかもしれない。
感情を知るということは、ただ感じることだけを指すのではない。感じて、そこに名前をつける。それでやっと自分のなかで理解することができるようになる。名前が付けば、「自分が今何を感じているのか」を言葉にすることができる。言葉になればそれを反復できるようにもなる……。
感情とは本来そのように複雑な過程を経て表出しているのではないかとサトルは思う。そして多くの人は、親の感情を身近に感じることで知らぬ間に自分の感情を成長させているのだろう、と。
ずっとひとり、というわけではなかった。仲間がいたこともあった。それでも芽生えなかった部分が今になって芽吹き、成長しているのは、サトルにとってこの場所が表の住人たちが「家族」と呼ぶひとつの塊と、同等の意味を持ったということなのだろう。
「マモルさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
それは自然と出た言葉だった。言ってから自分で驚いてしまうほどに、それは何の前触れもなく零れ落ちていた。
聞いていたマモルが一度わずかに目を見開いて、笑った。
見たことがない、柔らかな笑顔だった。
「……ああ」
それから数週間。
日々生まれる感情に、マモルとともに少しずつ名前を付けた。
名付けた感情の種類が増えていくごとに、日常の生活の中でも、実は様々なことを感じ取っていたことを知った。
感情とは生きることの一部だった。
感じているはずのそれを、正確に拾うことができていなかっただけで。正確に拾っているだけの
生まれ直した。
そんな気がした。
それくらい、サトルを包む世界の姿はこの短期間で大きく変化していた。
そしてその変化が、今のサトルには良くなかったのだ。
眠れなくなった。
聞こえ続けるヴァイオリンの音のせいだった。
音の高低に引っ張られて、覚えたばかりの感情が上下する。それが絶え間なく続くものだから、眠れるはずもない。目を閉じて体を横にしてみても、眠りはもはや近寄ってすら来なかった。
ベッドの上で膝を抱えて息を潜め、頭上を朝が過ぎていくのを待つ。そんな日が続いた。
苦痛はなかった。深く眠ることが死に直結する環境下で育ったからであろう。サトルの眠りは元々浅く、短かった。それが全くなくなったとて、別段気になるものでもない。
眠れないならば、眠らないだけだ。むしろ時間ができていい。
マモルに別の部屋を与えてもらっていたのは幸いだったな、とサトルは思う。彼と同室だったなら、少なくとも二、三時間は眠ったフリをしなければならなかった。それでは逆に疲れてしまう。
ベッド脇の窓にかかったカーテンが、徐々に明るくなる。
遮られてもなお部屋に入る陽光を頼りに、サトルは膝を抱えたまま本のページを捲った。残りは、数ページ。
今まで眠っていた時間のすべてを読書に充てるようになった。本を読んでいるときには、聞こえ続ける音が気にならない。買い溜めたはずの本の山はいつの間にかなくなって、反比例するようにサイドテーブルの山が高くなっていった。最後の一冊が、そこに重なる。
隣の部屋のドアが開く音がした。
街に出たのは午後だった。
マモルの車に乗せられて最近できたばかりの本屋に着くと、平日であるはずなのに駐車場はいっぱいだった。何とか空いている場所を見つけて車を停め、店に入る。本とコーヒーの香りに迎えられる。
「一階か?」
「はい。マモルさんは二階を回られますか?」
「あー……今日は一階でいい」
二人は入り口すぐの平積みの棚から順に見て回った。
気になった本をホイホイ手に取るサトルに、マモルは苦笑いを浮かべた。娯楽というものに興味を示さない彼女が、唯一楽しみとして金を使うのが本だった。好きな作家がいるわけでもなく、好きなジャンルがあるわけでもない。ただ表紙を見て気になったものを手に取り、山のように買う。小説、新書、専門書……なんでもありだ。その上金に糸目をつけないものだから、単行本から文庫まですべての棚を見終わる頃には、両手でも数え切れない量の本が彼女の手に収まっていた。
見兼ねたマモルが「カゴを取ってくるから、少し待ってろ」と入口に歩いて行く。彼の後ろ姿が遠ざかる。その揺れる黒外套の裾を、サトルは眺めていた。
突然、聞こえ続けていた音が大きくなった。
耳を塞ぎたいほど激しい音の波。
肩が揺れると同時に、持っていた本が足の上に滑り落ちた。
痛い。頭や耳はもっと痛い。
「見つけた」
音の合間に、低い男の声がした。
サトルは咄嗟にそちらを睨みつける。
白髪頭に上品なグレーのスリーピースのスーツ。恰幅の良い腹。片手に下げた、革のヴァイオリンケース。
男は笑っていた。
柔らかく、いかにも人の良さそうな老紳士といった体で。
あまりにも毒気の無い笑みに逆に吐き気を覚えて、サトルは一歩後退る。パサリ、と足の上に乗っていた本が落ちる。
「大丈夫かい」
転んだ幼児を心配するような声で言いながら、男がこちらに手を伸ばしてくる。サトルがまた一歩後退る。不意に肩を温かく力強いものに包まれた。
「うちのが何かしましたかね」
あからさまな警戒が含まれた声が音の波間から、サトルの耳に届く。マモルだ。認識した瞬間、少しだけ体から力が抜けた。
「失礼。君のお連れさんでしたか。具合が悪そうだったので、つい」
「そうですか。ありがとうございます。しかしもう大丈夫ですので。それでは」
強くマモルに抱き寄せられる。彼はサトルが落とした本を拾ってカゴに入れ、手に残っていた本も同じようにカゴに入れた。サトルの肩に回しているのとは逆の手でそれを持つと、カウンターで店員に渡し「後で買いに来る」とだけ告げた。
「行くぞ」
マモルに連れられて店を出た。
ふと、視線を感じて振り返る。
男はまだこちらを見ていた。先ほどと同じ場所で。
ガラス越しに見える男は、笑っている。
先ほどと同じ顔で、笑っている。
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