02  幻聴

 久月クヅキサトルは貧民街生まれである。つい二年ほど前、夜鷹に入るまではその日生きるのにも困るほどの貧しさの中で生きていた。当然、腹いっぱいに何かを食べた経験などなかった。その育ちが影響しているのか、サトルは今でも「食べる」という行為に対し、とんと興味が持てないでいる。


「飯だぞ」


 読んでいた本を取り上げられて意識が現実に戻る。顔を上げるとマモルが取り上げた本にテーブルに放っていた栞を挟んでいる。もう一度「飯だぞ」と繰り返される。

 ダイニングテーブルでは二つの皿に盛り付けられたパスタが、柔らかに湯気を立てている。クリームの甘い匂いに、黒胡椒のピリッとした香り。カルボナーラだ。

 いい匂いだ、と思う。しかし腹は動き出さない。「ほら」と促されて渋々立ち上がった。椅子に座り手を合わせ、皿に半分ほど盛られたパスタをフォークに巻く。口に入れると広がる、甘い生クリームの風味。それを引き締めるベーコンとチーズの塩味。黒胡椒。美味しい。美味しいとは思う。しかし食事というものはサトルにとって、どうしても面倒なものだった。


「量は少なくしてるんだから、ちゃんと食えよ」

 

 そう言われて頷きはするものの、腹が動くかどうかは別問題で。結局、具合の悪さを耐えながら食事を終えた。すぐには動くことができず、そのままぐったりとダイニングテーブルに体を預ける。


「どうせ、普段からちゃんと食ってないんだろ」


 投げ出された皿とフォークを片付けながら呆れたようにマモルが言った。それに対して返す言葉を、サトルは持ち合わせていない。すべて事実だ。キッチンから水の流れる音が聞こえてくる。やがてそこに皿とシルバーが擦れる音が混ざる。食事は面倒に感じるサトルだが、この音は好きだった。じっと聞いているとなぜか体の力が抜ける。ゆっくりと眠気が忍び寄り、自然に瞼が落ちる。テーブルに伏せたまま、その心地良さに身を浸していたサトルの耳がいつもとは違う音を捉えた。

 音楽が、聞こえる。

 

「どうした?」


 洗い物を終えたマモルが声を掛けてくる。サトルは体を起こし、今度は意識的に目を瞑る。耳に意識を集中する。音楽はまだ、聴こえている。


「……ヴァイオリンを弾かれる方が、越してきたのですか」

「ヴァイオリン?」


 眉を寄せたマモルがサトルと同じように目を瞑り、耳を澄ます。しばらくして目を開けた彼は、首を傾げた。


「しないぞ、ヴァイオリンの音なんて」


 サトルは目を見開いた。

 音楽はまだ、聴こえている。




 その日以来、音楽は常にサトルの頭の中で鳴り響き続けた。

 曲名は知らない。ただ、高く、低く響く弦の音がとても不安定で、ひどい不快感が付き纏う。例えるなら、延々と上下し続けるエレベーターに閉じ込められているような、何ともしがたい不快感だ。上がったり下がったりという音の高低が自分を引っ掻き回している。耳を塞いでも変わらぬ大きさで聴こえ続けるそれが、幻聴であることは明白だった。だからこそ、より一層不快だ。


遺品リリクト、じゃないかなぁそれ」


 フミトキの見解に「やはり」と思う。

 同じ空間にいるにも関わらずマモルには音が聞こえなかったこと。昼夜関係なく音がついて回っている現状。これらを踏まえると、行き着く先はそこしかない。

 フミトキはサトルから一度視線を外し、顎に手を当てて考え込む姿勢をとる。


「精神に干渉してるっていうのは、厄介だねぇ」

「厄介ですね。五月蠅くて、五月蠅くて……」

「いや、そうじゃなくて」


 違うのか。ならば何だ。

 サトルが首を傾げると、フミトキは子どものように眼をパチパチと大きくしていた。いつも何か思惑ありげな彼のこんな顔は初めて見たな、などと考えていると、今度はその顔に笑みが浮かぶ。その笑みも、何だか初めて見る形だった。


「そうかそうか、君は……」


 小さな言葉が鳴りっぱなしの音楽の隙間から聞こえた。

 ボスは何が言いたいのだろう。

 一度戻ったはずの首が再び右に傾く。

 それを視界の端の捉えたフミトキの視線がやっと正面に戻ってくる。


「まさか、『感情が理解できない』という君の弱点が、こんなところで強みに変わるなんてね」

「強み……?」

 

 フミトキの言葉の意味がサトルにはさっぱりわからなかった。

 感情が理解できないことが強み、とはどういうことであろう。

 思わず漏れた疑問の呟きは確かに届いていたはずなのに、フミトキは答えずに話を続けた。

 

「まあ、それもいつまで続くかわからないし、早急に対処法は考えないといけないけれどね。今はマモルくんと一緒に暮らしているのだろう? できるだけ、このビルの外では彼から離れないようにしなさい。ギルドには『地図』の使用者がいる。君の居場所は筒抜けなんだからね」

「承知しております」

「うん。気を付けるんだよ」


 最上階を辞したサトルはそのままマモルの部屋へと足を向けた。腕時計を確認すると、短針はすでに五を示している。また定時を過ぎてしまう。自分のせいで上司を待たせるのはなるべくなら避けたいところだ。幹部として日々忙しくしている彼の時間を、無駄に奪うことをサトルは望まない。

 急がねば、と早くなる足。

 ふと、それが止まった。

 時計を見る。あと二分で五時だ。進む秒針に無意識にサトルの口角が上がった。

 時間を気にするということは、この上なく人間らしい気がした。実際、貧民街で野良犬のように暮らしていたときには時間という概念は持ち合わせていなかった。明るいときが昼、暗くなったら夜。せいぜいその程度だ。それが今、一分一秒を気にして廊下を歩いているだなんて。


「……早くしないと」


 言い聞かせるように呟いた。

 一度止まった足を動かし、サトルは今度こそマモルの部屋へと歩を進めた。




 

 


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