肆 幻の音

01  温度

 昨夜の武器取引に関する報告書を作成し終えて時計を見ると、すでに午前五時を回っていた。乾燥して霞む目を擦り、サトルは一度大きく体を伸ばす。口からは殺しきれない欠伸が溢れた。

 アンダーグラウンドの組織とはいえ、一応定時はある。夜十時に出社して朝五時まで、というのが夜鷹における定時だ。表の人間と交わらないように、という時間設定らしいが、表の世界の人間の働いているのを見ると「物凄い優良企業だな」と思ってしまう。一日の三分の一が仕事だなんて、一体何のために生きているのだろう。

 誤字脱字を確認してから立ち上がる。報告書には上司であるマモルの目通しが必要だ。彼はまだ執務室にいるだろうか。

 急ぎではないけれど、今日出しに行かないならば行かないなりの言い訳くらいは作っておいた方がいいかもしれない。行ってみてすでに帰っていれば言い訳も立つ、と執務机に置いていた携帯をスーツのポケットに仕舞ったときだった。

 コツコツコツ、とノックの音。

 返事を待たず、扉が開く。マモルだった。


「報告書は」

「……遅くなりました」


 驚きに一瞬固まったサトルを他所に、マモルが手袋を填めたままの手を出した。サトルは今し方持って出ようとしていた書面をその手に乗せる。

 マモルが何も言わず書類を捲る。その横顔を見つめながら、サトルはマモルがわざわざこの部屋まで来た理由を考えていた。

 まさか定時を過ぎたことに腹を立てた訳ではないだろう。この報告書は急ぐものではない。提出が明日でも構わないくらいには。では、なぜ。

 

「これで今日の仕事は終わりだな?」


 ペン立てにあったボールペンで書類の一番最後にサインを書きながら、マモルが言った。「はい」と返すと光るものが飛んで来た。受け止めて、手を開く。


「え?」


 鍵だ。

 小さな銀色の、見覚えのある鍵。


「ギルドとのことが終わるまで、お前はまた俺と一緒に住む。いいな」


 そうだ。これは、マモルのセーフハウスの鍵だ。

 半年前まで持っていて、彼に返したはずの鍵。

 掌をじっと見つめるサトルの前に影が差す。顔を上げると穏やかな鳶色がこちらを見下ろしている。


「一緒に住む……マモルさんの家で、ですか」

「ああ」

「そこまでご迷惑をおかけするわけには」

「これはボスの命令じゃない。俺が決めたんだ」


 どうして。

 どうしてこの人の瞳は、いつもこんなに温かいのだろう。

 その熱が移ったかのように胸の奥が温かくなる。零さないように強く服を握るとマモルが笑った。柔らかい表情。静かな声。


「どうした」

「温かいです」

「そうか」


 軽く言った彼の声が熱の生まれた胸に吸い込まれ、また温かさを増す。それがひどく心地いい。「安心」はとても温かい。


「書類は明日、ボスに出しに行け」


 きっちりと角を揃えた書類が机の上に置かれる。「飯でも食って帰るぞ」と言って、マモルが踵を返す。サトルは慌てて椅子にかけてあった外套を着込む。内ポケットに、大切に鍵を仕舞った。

 出て行った彼の後を追う。胸の辺りがとても、温かかった。


 セーフハウスというのは、有り体に言えば隠れ家だ。組織の一員ではなく、社会に紛れ込み一般人になるための住処であり、プライベート空間。身分を隠すための隠れ蓑。大体は、組織の息がかかったマンションやアパートを使用していて、場所を定期的に変える者が多い。万一にも居所を悟られないようにするためだ。「警察に張られたりしたら、面倒だろう?」と前にマモルが言っていた。ギルドや警察が敵である以上、居所を知られることは死に直結しかねない、ということだ。

 だからこそ、半年もマモルがセーフハウスを変えていないことに僅かながら、驚いた。


 マモルの車でビルを出た。よく一緒に行ったファミリーレストランで食事をし、相変わらず食べる量が少なすぎる、と小言を言われた。詰め込みすぎて重い胃に若干の吐き気を覚えながらまた車に乗り、よく通った道を車窓から眺めた。

 朝の住宅街は忙しない。小綺麗な格好をした人々が足早に同じ方向に歩いて行く。紺色のスーツを着た男性、フワフワとしたロングスカートの女性、ランドセルの子ども。墨のように真っ黒なスーツを制服とする世界からは遠く離れた、色彩豊かで穏やかな世界。明るい世界。

 サトルたちの乗った車は彼らとは逆方向にゆっくりと走り、場違いな高層マンションの地下に入る。コンクリート打ちっぱなしの駐車場は広く、停まっている車のほとんどは軽乗用車か黒塗りの高級車だ。住んでいる人間の種類はこういう所に現れる。ちなみに数台あるマモルの車は、すべて後者だ。

 誰もいないエントランスを抜け、階段で部屋に上がる。初めに来た時、「なぜこれだけ高い建物でわざわざ下層階に住むのか」と問うとマモルは「その方が人と会いにくいし、外に出やすい」と言っていた。確かにその通りで、階段にはいつも人の気配がない。

 三階の端から二番目の部屋の扉をマモルが開く。ふわりと、タバコと甘い葡萄の香りが混ざった空気が漏れてくる。

 懐かしい。

 たった半年のはずなのに、そう感じた。


「お邪魔します」

「じゃないだろう」


 靴を脱ごうと身をかがめたサトルの頭上から声が降ってきた。頭を上げると、呆れた顔でマモルがこちらを見下ろしている。咄嗟に意味が分からずサトルは首を傾げた。


「今日からここは、お前の家だ」


 呆れと苦笑の入り混じった穏やかな声でマモルが言った。意図を理解し、サトルは胸の奥がさらに温まるのを感じた。

 家。私が、帰る場所。

 

「……ただいま、戻りました」

「おかえり」


満足そうに頷いて、マモルがリビングに入っていく。サトルはしばらく靴を脱いだそのままで、胸の中の熱を抱き締めていた。



 何も変わっていないのは外の景色や空気だけではなかった。リビングもまた、何も変わることなくサトルを迎え入れた。 


「お前の部屋は前と同じ左側。荷物は後で取りに行く。いいな」

「はい」


 必要事項だけを短く確認する声にサトルが短く返事をする。外套をハンガーにかけながらふわり、と欠伸をすると、ソファでマモルが笑った。


「疲れたろ。風呂いれるから、入って一回寝ちまえ」


 立ち上がったマモルがキッチンを通って風呂場に向かう。ついて行こうとしたサトルに気付き、彼は「お前は座ってろ」とソファの方を示した。大人しくそれに従い、リビング中心にある皮張りのソファに身を沈めると、モヤモヤとしていた眠気が重くのしかかった。瞼が重い。

 遠くで短く電子音が聞こえた。扉を閉める音。足音。少しソファが沈む。温かい手。


「おやすみ」


 肩に回った手が体を抱き寄せる。そのままゆっくりと倒され、頭を硬い何かに乗せられた。僅かに動くそれが脚だと気が付くのに、時間がかかる。上司の脚に頭を預けて眠る部下がどこにいるだろう? そう思うものの、もう体に力は入らなかった。頭を柔らかく撫でられる。

 ああ、温かい。

 とても、温かい。

 

 

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